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詩編・聖書日課・特祷

2024年3月24日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 イザヤ書45章21〜25節
 詩 編 22編1〜11節
 使徒書 フィリピの信徒への手紙2章5〜11節
 福音書 マルコによる福音書15章1〜39節
特祷(復活前主日)
人類を深く愛し、救い主、み子イエス・キリストをこの世に遣わされた全能の神よ、み子はわたしたちと同じ肉体を取り、己を低くして死に至るまで、十字架の死に至るまであなたに従われました。どうかわたしたちに恵みを与えて、み子の苦しみの模範に従わせ、またそのよみがえりにあずからせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 本日は、「復活前主日」という名前の日曜日となっております。先週までは、「大斎節第◯主日」という名前が付けられていましたけれども、その大斎節も大詰め……、いよいよ今週一週間を過ごしたのち、次週は、待ちに待った「復活日(イースター)」を迎えるということになりますので、今日は「大斎節第6主日」ではなく「復活“前”主日」という名前になっています。
 しかし、「イースター」という日をお祝いする前に、教会では、大事な期間が過ごされます。いわゆる「聖週(Holy Week)」と呼ばれる一週間ですね。イエス・キリストの人生のクライマックスとも言える、エルサレムでの出来事に集中する7日間。教会によっては、この聖週のあいだ毎日、礼拝がささげられて、特に、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日……、この3日間は、特別な礼拝を通じて「イエスの死」という出来事を“追体験”する大切な3日間となるのですが、そんな一週間が、まさに今日、この「復活前主日」から始まることになります。

聖金曜日(受苦日)の先取り

 ちなみに、この「復活前主日」は、別名「棕櫚の主日」とも呼ばれているのですね。イエスがエルサレムに入城した際に、エルサレムの人々が棕櫚の葉っぱ(※正確にはナツメヤシの葉)を地面に敷いてイエスを迎えた――という出来事を記念する日とされています。なので、教会によっては、その「棕櫚の主日」を記念するために、礼拝の中で(日本では)棕櫚の葉っぱが使われるところもあるのですね。

 では、そんな「棕櫚の主日」であるこの日の聖書日課、特に福音書のテクストに関してお話をしてまいりたいと思うのですけれども――。いま申し上げましたように、この日は「イエスのエルサレム入城」という出来事を記念する日であるわけですから、当然、福音書の箇所も、その場面(イエスのエルサレム入城の場面)にフォーカスされているものだろう(その箇所が選ばれているものだろう)……と、そのように想像してしまうのですが、意外なことに、実際にはそうではないのですね。この「棕櫚の主日(復活前主日)」に選ばれている福音書の箇所は、3年周期のA年もB年もC年も、いずれの年も同様に、エルサレム入城の場面ではなく、“イエスの受難と死の場面”が選ばれているのです。一体これはどういうことなのでしょう。
 僕は今回、聖公会に移籍してから初めて、この「復活前主日」に、礼拝のお話を担当させていただくことになったのですけれども、お話を準備するにあたって、はじめてこの聖書日課を見たときに、正直に言いますと、「あれ?まだちょっと早いんじゃない?」と感じました。だって、イエスが十字架につけられるのは、今週の金曜日ですからね。だいぶフライングしすぎなんじゃないか、と感じたのです。
 でも、その後、よくよく考えてみたのですけれども、やっぱり、このほうが(復活前主日にイエスの十字架の場面が読まれるほうが)良いのだと思いました。と言いますのも、先ほどお話したように、今日からの一週間は、教会によっては毎日礼拝がささげられるわけですが、当然、そういう教会ばっかりではないのですよね。日曜日以外は礼拝が無いという教会もあると思います。それに、もし毎日礼拝が行われていたとしても、現実問題として、“日曜日以外は教会に来れない”という人のほうが圧倒的に多いわけですよね(それでも熱心に来てくださる方々がおられるのは本当に嬉しいことです)。
 ですので、もしかすると、そういう事情を考慮した上で、この日曜日に、聖金曜日(受苦日)の先取りをする形で、「十字架」の箇所が選ばれているということなのかもしれない――と、まぁ、分かんないですけどね、少なくとも僕はそのように想像しました。もしそうだとしたら、親切だなって思いますね。

パッション 〜イエスの受難〜

 さて、そういうわけで、本日の福音書箇所は、イエスの受難から彼が息を引き取るまでの場面を読んでいるわけですけれども……、やはりこの箇所、いつ読んでも心が苦しくなる箇所ですよね。
 14章の後半で、群衆によって捕らえられて、ユダヤの最高法院で裁判を受けることになったイエス。彼は、今回のこの15章に入って、今度はポンテオ・ピラトの前に引き出されます。ポンテオ・ピラトというのは、当時、ローマ帝国ユダヤ州の監督をしていた人物ですね。ユダヤ人たちは、最高法院でイエスを死刑にすることを決定したものの、最高法院の判断だけで犯罪人を処刑することは許されていませんでした。ローマ帝国の支配下にありましたからね。なので彼らは、ローマ帝国側の責任者であるピラトに、イエスの身柄を委ねることにしたわけです。そして、そのピラトはどうしたかと言いますと、彼は、ユダヤ人たちがこれ以上騒がないようにするために、結局、イエスのことを十字架につけるということを決定してしまうのですね。
 イエスは、最高法院での裁判が終わった時点で、ユダヤ人たちから唾を吐きかけられたり、暴力を振るわれたりしています(14:64)。その時点で、もう彼の身体はボロボロだったのではないかと想像するのですが、彼はさらに、このピラトの官邸においても、鞭で打たれたり、茨の冠を被せられたり、棒で叩かれたり、ツバを吐かれたりするのです(15:15〜19)。

 かつて、メル・ギブソンの『パッション』という映画が話題になりましたね。非常にリアリティのある、イエスの受難物語を描いた映画でした。僕は当時、15歳。関西のミッションスクールに通っていましたのですが、ある時、父親に連れられて(父親はクリスチャンではなかったのですが、「キリスト教の学校に入ったんやったら、見とかなアカンやろ」ということで)、二人で一緒に映画館に観に行きました。僕の記憶では、父親と二人で映画を観に行ったのは、多分あれだけだったと思います……(もっと他にあったやろ!と言いたくなりますね)。

まだ気力の残っているイエス(ルカとヨハネの場合)

 ちょっと話が脇道に逸れましたけれども、それでは、いよいよ“イエス磔刑”の箇所を振り返りたいと思います。24・25節以下ですね。このマルコ福音書の記述によりますと、イエスは午前9時から午後3時まで、つまり計6時間もの間、十字架上で苦しみ続けたとされています。
 その間、十字架上のイエスは、どんな状態だったのか。どのような様子だったのか。この「イエス磔刑」の場面に関しては、新約聖書の四つの福音書すべてが、その時の様子を詳細に描いてくれています。
 ただし、その描き方は、福音書記者たちそれぞれによって随分と違っているのですよね。特に、ルカ福音書とヨハネ福音書、この二つの福音書は、今回のマルコ福音書の内容と大きく異なっています。とりわけ、ルカとヨハネが描いている「十字架上のイエス」というのは、このマルコの描写と比べてみますと、まだちょっと気力が残ってるように感じられるのですね。
 イエスはこの時、他の犯罪人たちと一緒に十字架につけられたそうなのですが、ルカ福音書の場合、イエスは、その内の一人と会話をしているのですよね。犯罪人の一人が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と語りかけたのに対して、イエスは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という有名な言葉を投げかけるのです(ルカ23:42〜43)。そして、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉を発した直後、彼は、息を引き取ることになります(ルカ23:46)。
 一方で、ヨハネ福音書のほうを見てみましても、やはりイエスは、周りの人たちと会話をしています。ヨハネ福音書では、イエスの十字架の近くに、お母さんのマリアが登場しています。また、他にも何人かの女性や男性の弟子が一緒にいたようなのですけれども、そんな自分たちの周りにいる人たちに向かって、イエスは、遺言のような言葉を語りかけているのですよね。「イエスは、母[マリア]とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』」(19:26〜27)……と、このような会話をしたのだと、ヨハネは報告しています。そして、イエスは、その後、(ルカの場合と似ていますけれども)「成し遂げられた」という言葉を口にして、息を引き取ります(ヨハネ19:30)。このように、ルカとヨハネが描く十字架上のイエスというのは、なんとなく、“自らの死”という現実を素直に受け止めて、(表現が難しいですが)キレイに、この世を去っているように感じられるのですね。

詩編22編との共通点

 では、今回のマルコ福音書においてはどうかと言いますと、イエスは、十字架の上にあげられる25節から、絶命する37節まで、ほぼ言葉を発していないのですね。もっと言えば、彼はポンテオ・ピラトの尋問が終わったときから、ずっと、一切口を開いていないのです。
 しかし、ただ唯一、彼が口にしている言葉があります。それは34節の言葉。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」ですね。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると、マルコは説明してくれています。皆さん、すでにお気付きのことと思いますけれども、この「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、先ほど皆さんと一緒に交唱しました「詩編22編」の最初のセンテンスと一致しているのですよね。これはもちろん、偶然ではありません。この「わが神、わが神……」という言葉以外にも、この箇所と詩編22編との間には、共通しているところがいくつかあるのです。
 まぁそれ自体は、そんなに驚くような話ではないのですよね。福音書の物語の中には、他にも、明らかに旧約聖書の内容との間に共通点が見られる箇所がいくつもあります。また特に、この場面に関してよくよく考えてみますと、そもそも十字架上のイエスの周りには、彼の弟子たちや協力者たちはほぼいなかったのですよね。十字架の周辺には、ローマの兵士たちや野次馬たちがたむろしていたと考えられるので、イエスの弟子たちは近づけなかったはずなのです。その“群衆の外側”から、つまり遠くから十字架上のイエスを見守っていた人たちはいたかもしれませんけどね。でも、その輪の真ん中で、どのようなことが起こっているのかは、ほとんど何も分からなかっただろうと思います。なので、彼らは誰も、「イエスの磔刑」の場面をキチンとは目撃していなかったはずなのですね。
 でもいつ頃からか、彼ら初代のキリスト者たちの間では、このように、「どうやらイエスは、十字架上で、詩編22編の『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』という言葉を叫んだらしい」ということが言われるようになっていた。誰かがそのように証言して、それが広まっていたわけです。そこで彼らは、イエスが十字架につけられてから息絶えるまでの情景を、詩編22編の内容をもとに、いわば、“再構築”したのですね。これは決して、嘘の話を作ったということではない。そうではなく。彼らは、そのイエスの死の出来事がいかに悲劇的であったかを、旧約聖書の力を借りて“再現”してみたのだと、そのように言うべきなのではないかと僕は思います。

獅子のうめきの如く

 なので、イエスはもしかすると、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」なんて言っていなかったかもしれない……。その可能性も出てくるのですよね。僕はどちらかというと、そっちの立場です。イエスはおそらく、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とは叫んでいなかったのではないか、と考えているのですね。
 もし仮に、イエスが本当に、その言葉を発したとするならば……、彼はほぼ確実に、それが「詩編22編」、旧約聖書の言葉であるということを分かった上で、それを叫んだということになります。もちろん、「よし、最後に詩編22編の言葉を叫んでやるぞ!」というように、意識して言ったわけではないと思います。そんな余裕がある状況じゃないですからね。
 イエスはこの十字架の場面に至るまで、ずっと、この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ!」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!)というフレーズが、頭から離れなかったのかもしれない。まぁ、誰がどう見ても、神から見捨てられた(見放された)ような状態であるわけですから、聖書の言葉をよく知っているユダヤ教徒であれば、みな連想したのではないかと思います。イエスの頭の中には、絶えずこの言葉が、繰り返し繰り返し反響していた。だから、つい思わず、このように心の叫びとしてこのような言葉を発してしまったのかもしれません。
 ですが、やはり僕にはどうしても、このセリフは元来、イエスの真正の言葉ではなかったのだろうと、そのように思えてならないのですね。その根拠は、今日の詩編22編のほうにあります。詩編22編の1節後半には、「どうして遠く離れて助けようとはせず、わたしの叫びを聞こうとされないのですか」とうたわれているのですけれども、この中の“ある言葉”に注目したいと思います。それは、「叫び」という言葉です。
 イエスが十字架上で「大声で叫んだ」という描写は、ほぼ間違いなく、この言葉から影響を受けていると考えられるわけですけれども、ただし、この引用元である詩編22編の「叫び」と訳されている言葉(シェアーガー)は、実は、もう少し正確に訳すならば、「叫び」ではなくて「呻き(うめき)」なのですね。基本的には、強い動物、特に「ライオン」のほえる声を表す言葉として、聖書の中では使われています(イザ5:29、エゼ19:7、ゼカ11:3、ヨブ4:10)。耐えがたい苦しみや痛みのために出るようなうめき声ではなく、むしろ、獲物を捕らえるときのライオンの鳴き声に近いうめき声を意味する言葉なのです。

 そんな声を人間が発したら、どうなるか。「ゥゥゥゥウウウオオオオオオオオオオォォォォォ!!!!」……きっと、こんな感じではないかと思います。かつて、十字架の上から発せられたイエスの声は、周りでそれを聞いていた誰かに、詩編22編を思い起こさせるものだったわけですけれども、そうだったとしたならば、その時のイエスの声は、絶望や嘆きからくる「叫び」などではなく、人々を圧倒するような「うめき」だったということになろうかと思います。残された最後の力を振り絞って雄叫びを上げて絶命したイエス。そんな彼が、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」などという、しっかりと聞き取れるような言葉を叫んだとは、僕にはどうしても思えないのです。

おわりに

 言葉にならないようなうめき――。地面を揺るがすような轟音――。聞く者を震え上がらせる咆哮――。イエスはそのような声を、十字架上であげて、息を引き取った。
 多くの人が、ゴルゴタの丘で、その声を聞いたのでしょうけれども、その中の誰かが、詩編22編の詩を連想し、そして、「あのイエスの雄叫び(おたけび)には、神に見捨てられながらも、それでも、最期まで神に信頼する者としての“強さ”が表されていた」と、そのように考えて、後に、「イエスの死」という出来事を「詩編22編」という視点から解釈するようになったのではないか。そのように僕は今回の聖書日課を理解しました。
 しかし……いずれにせよ、この場面において最も重要なのは、「イエスは死んでしまった」ということです。彼は、息絶えるその時まで、神の救いを信じていたかもしれない。ですが、無情にもその希望は完全に絶たれます。まさしく彼は十字架上で絶命するのです。イエスの人生は、そこで終わり、すべてが無に帰することになった……。その事実を、我々は今日から始まる一週間、心に留めて過ごしていくことが求められています。そして、そのイエスの死という出来事を経験して、絶望の中に置かれることになった彼の弟子たちの思いを、しばらくの期間、我々も共に噛み締めたいと思います。
 イエスは死に、可能性は失われ、すべての希望は絶望へと変えられた――。

 ……それでは、大斎節最後の主日の礼拝を続けてまいりましょう。

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