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もっと超越した所へ行けない?

映画『もっと超越した所へ。』を見た。

原作の舞台は見ておらず、小説はまだ読んでいないのでとりあえず映画だけの感想を。そう思った書き出したら日記になってしまった。
※映画の内容はあまり触れていないけれど、ラストバレというかラストを見ていないとわからない話もあるのでご注意を……。

■鑑賞前の怯え

見る前、私はとにかく怯えていた。

好きなアイドルである菊池風磨さんの恋愛シーンを見たくないとかそういうことではない。作品として怖かった。

いろんなクズとそれに付き合ってしまう人たちが出てくる作品だと聞く。作品と周りの感想を通じて自分のクズなところやクズだったところを突きつけられることになりそうで怖かった。清く正しい人はそんなことないだろうけれど、自分はそんなに清廉潔白ではないし、すぐ作品と自分を重ねてしまうので……。

しかしいざ見てみると。もっと私的な感情を呼び覚まされるかと思ったが、そうでもなかった。

自分の魅力を理解した計算高い甘えも、人と付き合う責任から逃げまくる根性のなさも、ヒマラヤのように高いプライドや容赦ない職業差別も、全部クズといえばクズ。ただ、自分のクズさとは少し違う上に周りにそのタイプがいないこともあり、それはそれとして見ることができた。

唯一個人的に拳を握りしめたのは、千葉雄大さん演じるとみーに対して。好意に甘えてくるやつ、好意に甘えられていると分かった上で近くにいられるだけでいいから甘やかしてしまうやつ、見ていてつらい。これは完全に私怨。これが私の見たくない部分……とみー、マジとみー……。

■ 現実の私は“超越"できるのか?

ただ、クズ云々とは別のところでダメージを受けた。それが「翻って現実の私は“超越"できるのか?」という点だ。

作品の最後で、4人の女性たちは「常識的に考えて別れるべき」「客観的に見て相手はクズだ」みたいなラインを超越していった。多くを望まず、言葉を飲み込み、相手と一緒に幸せを手にしようとすることを選んだ。(こう書くと女性陣が我慢したように見えるがたぶんそうではない。もっと力強く、相手と向き合うことや幸せになることを選んだみたいな感じだった。あくまで初見の印象だけど。)

それが妥協でも、捨てきれない愛情でも、多少飲み込んで相手といることを選ぶ。そうまでしたい相手に出会えることも、関係を維持しようと努力できることもすごいと思った。

自分は仕事とオタ活で精一杯で人間関係の維持がままならないタイプなので、恋愛のれの字もない生活をしている。結婚願望もないのでまあこのままでもいいのだけれど、時々「私はこの先一人で生きていくのかな?」と不安になることがある。恋人に限らず、お互いに一緒にいたいと思えるような存在がいるほうがいいのかなあと思う。

そんな中で見るこの作品のパンチは強かった。ああ、私にはここまで思える人はいないな。クズだなと思っても飲み込んで付き合っていたいと思える人はいないな。そんなことを思った。

余談だが、この虚しさはつい先日も感じたことがあった。作品に出演する菊池風磨さんと同じグループのメンバー、中島健人さんの連載を読んだ時のことだ。

"ここまでお互いの存在を意識し合った相手って、多分、菊池以外には存在しないと思うから。"

"正直、考えることに疲れて突き放したくなることもあった。でも、そこから逃げることはできなかった。"

"好きだし、嫌いだし、わからないし、わかりたいし…。"
キミと暮らせたら。LIFE 90(Myojo 2022年11月号、126-127頁)

あー、自分にはここまで思えるほどの存在はいないなあ……と思った。

きっとこのくらいの関係は出会えるほうがレアだし、そうあり続けられるように努力したのは中島さんや菊池さん自身なので運だけの話ではないのだけれど。というか、だからこそ自分のこれまでの人間関係における努力不足を感じて項垂れるのだけど。

もっ超でも似たようなことを思った。

人に対してここまでの気持ちを持つことはもうないんだろうな!
私は一生"超越"できないんだ!!

そんなことを思って沈んだ。

そういえば辻村深月『傲慢と善良』でも根本宗子『今、出来る、精一杯。』でも似たようなことを思って沈んだのだった。もう人間関係がどっぷり絡むような作品を今見るのはやめたほうがいいのかもしれない。日曜日もチケット取ってるけど。さらにずんずんと沈んだ。

■私の「もっと超越した所」

沈みながらTwitterのタイムラインを遡っていると、映画館に向かう自分のツイートが目に入った。

愚か……なんてツイートしているが、タクシーで行くと決めたときの私は必死だった。というかもはや決めたとかではない。反射だった。

空車のタクシーを見かけた瞬間、走り寄ったのは覚えている。映画館の名前を告げたらビル名が分からないと返されたので、焦りで震える指で調べた。「何分かかりますか?」「10分くらいですかね」とやりとりしたとき、開始まで15分を切っていた。

来た道をタクシーで戻りながら、自分の方向音痴ぶりを嘆き、スムーズに右折できない車通りの多さを呪った。「レシートいらないです!」とタクシーを飛び降りた私を見て、運転手さんはどこへ行くと思っただろうか。営業先か、デートか、何か別の大事な約束か。正解は好きなアイドルが出る映画である。

だって初日だもの。絶対に初日に見たくて午後休を取り、休めるよう残業やらなんやらを乗り越えてここまで来たのだ。最後の最後に迷子になって間に合わないなんてありえない。早歩きでビルの中を抜けた先、なんとか開始に間に合うことができた。

席に座り、10分以上ある予告を眺める中で、歩いても間に合ったような気がした。そしてタクシーで支払った900円のことを考える。ジャニーズショップで写真5枚買えるな、と思った。

今考えても130円の交通費をケチって歩くタイプの自分がタクシーに乗るなんて、正直どうかしていたんだと思う。でもそのときは映画に間に合いたい一心だった。そのどうしようもない気持ちがドケチの一線を飛び越えて、私をタクシーに乗せたのだった。

オタクとしての自分を振り返れば、その一線はお金の話に限らない。好きな人たちのために夜更かししたり早起きしたり。遠征したり何時間も物販に並んだり。もし自分がオタクじゃなかったら「そこまでするんだ……」と思うだろうし、たとえば恋人にそこまでしている人がいたら私は「そこまでするんだ……」と思うだろう。

でも他人から見たら「そこまでするんだ」「それ幸せなの?」みたいなことでも、こっちからしたらめちゃくちゃ幸せなのだ。幸せかどうかは置いといてそうせずにはいられないときもあるけれど、そうまで思える存在に出会えてよかったと思うのだ。

そんな風に、自分や他人の引いた一線を飛び越えていくくらい好きなもの・好きな人はちゃんと存在する。映画を見た後に「自分は一生"超越"できないんだ」なんて思っていたけれど、そんなことはなかった。あのタクシー代はそのことに気がつくための勉強料だと考えれば安いものだ。

10/14の風磨くんのブログにはこう書いてあった。「ねえねえ。超越した?」。

映画を見たという意味でも、"超越"という意味でも、答えはイエスだ。元々歩いて10分の距離に900円のタクシー代を払った。好きな人が出ている映画に間に合うように。これがこの日の私の、ささやかな"超越"だった。

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