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何かを、好きになるということ(前編) | 子どもから大人になるまでの十年

小さい頃から何にでも興味を持つ子どもだった。

図鑑や絵本を読んだり。一人で卵焼きを作ったり。道端のアリを一日中眺めていたり。扇風機に指を突っ込んだり。カブトムシのゼリーを食べたり。石を集めたり。鉄棒を噛んだり(なんで?)。
池や川に落ちた回数は片手では数えきれない。救急車には何度も乗せられた。家にある大半のものは一度は分解(破壊)した。

おかげで生傷が絶えなかったが、何にでも興味を持つ好奇心は、いつも僕を新しい世界に連れていってくれた。

思春期になり、言葉でものを考えるようになって気が付いた。
何にでも興味を持ってしまう自分は、果たして何が好きなんだろう。

「なんでも好きな人は、なにも好きではない人だ。」
何かの本に書いてあった一言が突き刺さる。何かを好きになるということは、世界に重み付けをするということ。だとすると、何でも好きになってしまう自分は、結局何にも興味がないのではないか。

そこからもやもやとした日々が始まった。
「将来の夢は何?」とか、「何をするのが好きなの?」というオトナからの質問は辛かった。それがわかれば苦労はしない。

そこそこ器用だった僕は、気がつけば、周りのオトナが求める答えを察知して、自分の回答を設計するようになっていた。小賢しいけど、承認欲求が強かった僕は、そうするとオトナが褒めてくれることを学んでいた。「自分の好きなことが何か」という問いよりも、「周りが求めていることは何か」という問いを優先するようになった。僕なりの生存戦略だった。

受験勉強を経て、東京の大学に入ったことで、その傾向はより強くなった。
「やるべきこと」は分かるが、「やりたいこと」がわからないオトナがまた一人誕生しようとしていた。「やりたいことがない」は猛烈なコンプレックスだったが、それでも一応生きていけそうだった。

しかし、いくつかの経験をきっかけに、その傾向に歯止めがかかった。
この経験についてはどこかで言葉にするかもしれないし、しないかもしれない。一つだけ例を挙げるなら、自分の「好き」の感覚にどこまでも忠実な、何人かの友人に出会えたことだった。幸運なことだった。

彼らは、とてもシンプルに自分の「好き」と向き合い、その「好き」に向かって邁進していた。じっくりと、素直に、卒直に。時には破壊的なほど猪突猛進に。

僕は彼らから大いに影響を受け、そして「自分の好き」は何なのか、という問いと改めて向き合うようになっていた。頭で考えるだけでは答えが出ないことに気がついたので、手と足を動かして体験に身を浸した。彼らをはじめ、色々な人の「好き」に積極的に巻き込まれた。そして彼らは皆、自分の「好き」を他人と共有することが好きなように見えた。

一見して興味を持てないものでも、君が言うなら、を後押しに、思い切って飛び込んだ。飛び込んだ先には、思いがけない感動や、期待外れの肩透かしや、ゾクゾクするような感覚や、叫び出したい衝動や、たくさんの身体的な反応があった。そうしているうちに、自分の反応と彼らの反応が、同じようなこともあれば、全く違うこともあるのに気がついた。

自分の「好き」のセンサーが少しずつ作られていくのがわかった。自分の身体を通した体験や、彼らとの言葉のやり取りを通じて、少しずつ、自分の「好き」や「面白い」が見つかった。断片的にでも言葉にすることができた。とても懐かしく、心地いい時間だった。十年以上ぶりだと思った。

ここ数年で出会った、自分の「好き」の例をいくつか挙げてみる。

・空と海の淡い境界面
(「淡い」と「あわい(間)」という言葉がある。空と海の境界はそれにぴったりだ。そして水平線ほど想像力を掻き立てるものはない。)

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・歌舞伎の見栄切りの瞬間、ツケ打ちの音
(写真に撮れないので。生でぜひ観て感じてほしい。一度でいいから。)

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・檸檬
(「レモン」でも「れもん」でも「lemon」でもなく「檸檬」。「文学的爆弾」とも言う。)

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・差し込む一筋の光、照らされて浮かび上がる色
(瀬戸内の本島で見たアート。眞壁陸二の『Kanrin-House』。光と色は不思議だ。そこに見えるのに、実はこちら側にあるものだから。)

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・狭い石畳の路地
(人がすれ違えるくらいの道幅。雨降りや坂道だと尚美しい。それはきっと都市で人間に残された最後の空間を想像させるから。狭いのに広がりがある不思議な感覚。)

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十年以上ぶりに自分の「好き」に向き合うプロセスの中で、明確に言語化できたことが一つある。それは、
なんだかこのよくわからない「何かを好きになる」瞬間の感覚が、僕はとても好きだということだった
デカルト的で、メタ認知的な気づきだ。入れ子構造で、なかなかに気持ち悪い気づきだ。勘弁してほしい。七面倒臭い人間になってしまったのだ。でも、十年以上もの間、僕は人生からこの感覚を失っていたのだった。

わからないものをわかろうとする時間。
特に好きでもなかったものが一瞬で好きに変わる境界面。
好きなものを更に好きになって沈んでゆく深み。
そこにはとてつもなく濃密な人間的な感情と想像力が詰まっていた。

日常生活の中で、何かを見たとき。小説の一節を読んだとき。ふわりと何かが香ったとき。音や旋律に聴き入ったとき。誰かが発したふとした言葉を耳にしたとき。美しい振る舞いを目にしたとき。丁寧に作られた空間に足を踏み入れたとき。冬の大三角形に気がついたとき。黄色くて少しだけ固いプリンを食べたとき。
「あっこういうのって良いなあ」の感情が、自分の中に立ち上がっていく感触。自分がした経験に「なんかいい感じ」のフラグが立つ感覚。

そこにはかならず何かしら理由があるのだ。好きになるに至った原因。必ずある。でも、大抵の場合それはよくわからない。「これって何だろう?」「何が好きなんだろう?」そう簡単には言葉にならない。言葉にならないからこそ、より気になってゆく。

たまにふと、その「好き」が言葉で捕まえられる瞬間もある。自分はこういうところに惹かれていたのだなと。でも、言葉になった瞬間に、瑞々しかったその感覚は、またするりと逃げ出してしまう。あれ?さっきまで掌に乗っていた感情はどこにいったの?
そうしてまた沼にはまってゆく。

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頭で分析的に「好き」「おもしろい」理由を探して言葉にすることはできる。言葉にすればするほど、「好き」の解像度が上がってゆく。しかし、どんなに解像度が上がっても、それを体験した瞬間のわくわくする気持ちや、これはすごいと感じたときの驚き、内側にある感情が抑えきれなくなる衝動は、決して再現することができない。同じものをもう一度見たとしても、その時と同じ感覚を感じることは二度とできない。それは二度目の新たな体験になるだけだから。

そんな「一回性」の体験の中にこそ、自分の好きの源泉があるような気がした。そしてその「一回性」を積み重ねることが、「生きる」と呼ばれることのような気がし始めていた。

続きます。

#Photo : Fujifilm X100F / iPhone X

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