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何かを言葉にすること、言葉にせずに表現すること。 | 藝大の卒制展と東京マッハの公開句会に行って考えたいろいろ(前編)
面白いツイートを見かけた。
夫「娘がお絵かきをしているときに、何描いてるの?と聞くと、いつも描くのをやめちゃうんだ」
— 瀧波わか@コノビー編集部 (@waka_takinami) February 8, 2020
3歳児は具体的な模写をしているわけではなく、ペンを走らせる感覚や紙が色づく様を楽しんでいるので、何を描いてるか問われると「何か」を描かなくてはいけない、と思い興味が削がれるのだ。
ナイス夫!
子どもが絵を描いているとき、「なに描いてるの?」と聞いたらいけない問題。これわかるなあ。往々にしてオトナはこういうことを聞きがちだ。そして、その種の問いを、自分に対しても向けがちだ。
子ども的世界の話
子どもは、何かを描こうとして描いているわけではない。単に、描くことが楽しいから描いてるのだ。
何か描きたいものが頭の中にあって、それを紙の上に再現しているのではない。楽しくて描いていたら、気がついたら何かが描けていただけなのだ。
それは描くことに留まらない。
叩く、触る、舐める、見る・・・。絵でも、音でも、触覚でも、あらゆることがそう。彼らは、何か先に意図があって行動しているわけではない。
世界に対して、自分が何かしら関わることで、世界の側から思いがけない反応が返ってくる。その思いがけなさにびっくりする。喜びを感じる。自分はここにいるのだ、世界はそこにあったのだと確信する。そして自分の中の世界像が書き換えられる。自分と世界の境界線が更新される。
その面白さに、子どもは夢中になっているのだ。
娘が感性の塊だった。 pic.twitter.com/YEcsxaxr3p
— コアゼユウスケ@ティピーレコーズイン (@koaze_GLAMTANKS) February 11, 2020
ある人はそれを「感性」と呼んだりもする。
「"それ"が何か」なんて知らないけれど。「自分が何をしようとしてるか」なんてわからないけど。自分は世界の境界線に触れている。そこから何かを感じている。そのこと自体が、なんだか楽しい。
そんな「世界とのインタラクションそのもので遊び、感じて、楽しむことができる生き物」のことを、「子ども」と呼ぶのだと思う。
*
そう考えると、冒頭の子どもが描くのをやめる理由はよくわかる。
「何描いてるの?」と言葉を求めた瞬間に、「何か」を描かなければいけなくなる。その問いかけは、逆に言えば、「何か」を定めなければ手を動かしてはならないのだ、というメタなメッセージを強く発する。(言葉にはこういう呪術的な作用がある。と僕は思う。)そして子どもは「何か」を言語化する手段をまだ持たないし、別に「何か」のために描いているというわけではない。だから手を止める。
「"それ"はなに?」という言語化の圧は、子供にとってみれば、息苦しいものなのだ。
一方オトナ的世界では
逆にオトナの世界では、「"それ"はなに?」「何をしようとしているの?」という問いかけは日常茶飯事だ。嘘でもいいから「それ」に答えを出さなければ会話にならない。オトナとは認めてもらえない。
カフェに行って、美味しい珈琲を飲んだ。
「美味しいですね、これ何ですか?」
「・・・」
「何をしようとしているんですか?」
「・・・」
意図を持って行動しないと、そしてその意図を言語化できないと、成熟したオトナとみなされない。
シャカイジンはその言語化そのものが仕事になったりすることもする。
「弊社に入ってやりたいことは何ですか?」
「・・・」
何のために、自分は、今、これをやっているのか。この行動の先には、どういう未来を期待しているのか。言葉にできなければ話にならない。上の「感性」に対応させるなら、「理性」と言ってもいいかもしれない。
*
本当はここには、
・意図を持って行為すること
・それを言語化すること
という2つの軸が潜んでいるのだが、ここでは敢えて後者に絞って単純化しよう。
どうやら、僕らが生きるオトナの世界は、言語化することが強固な前提になっているらしい。そして僕らは、義務教育の中で、この言語化の訓練をしつこいほどにされてきた。的確な言語化は、僕らの身を助け、日常を彩り、世界の解像度を高め、境界を押し広げてくれる。そこに疑いはない。
ただここで強調したいのは、
オトナの世界では、言語化できない事象は存在しないものとして扱われがちだということ。油断すると、僕らの世界は言葉だらけになってしまうということ。
例えをあげるとキリがない。
・美術館に行くと、絵の隣に掲げてあるキャプションばっかり読んでしまう
・コーヒーやお酒を飲むとき、舌で味わうより先にラベルの情報を読んでしまう
・レストランに入る前には、店構えや雰囲気よりも、口コミやレビューを見ずにはいられない
・注意書きをしないと気が済まない
・映画のポスターがアオリや宣伝文句でいっぱいになっている
・街中には「足元注意」「禁煙」「大変ご迷惑おかけしております」の注意文言で溢れかえっている(そんなに書く必要ある?)
・・・
本当は、言葉のない余白にこそ、世界の豊穣さは宿るというのに。
ちなみに、お前はこの文章を長々と言葉で書いてるじゃないかと思った人。あなたは鋭い。返す言葉がない。ここでは棚にあげさせてほしい。友人からはよく「お前の話は長い」とか言われているので自覚している。本当にありがとうございます。
何かを言葉にするということ。しないこと。
言語化するとわかった気になる。うまく言語化できると称賛される。そうそう、そういう事が言いたかったのよと。そうして伝わったと錯覚できる。
繰り返しになるが、その価値は否定しない。というか僕は完全にそちら側の人間だ。頭でっかちなほどに言葉で世界を認識してきたし、言葉にできなければ、他者と関係することはできないと思ってきた。今でも、ある程度はそう思っている。
でも、最近強く実感するのは、言語の外側にも世界は広がっているということ。むしろ「言語の外側に広がる世界」は、「言語世界」よりもたぶん広大だということ。どちらが広いのかという比較は、ナンセンスというか、不可能だけど。でもたぶんきっとそう。
*
言葉とわたしと世界の関係を考えてみよう。
この世に生を受けて、「はちゃめちゃに広いせかい」の中から「わたし」という輪郭を探り出した。そして生まれたわたしの小さな言語世界を、「言語化」によってじわりじわりと広げてきた。
知らなかった言葉を知り、概念を理解し、その言葉の組み合わせで世界を描写し。時には新しい言葉を作り。シニフィアンとかシニフィエとか学術的なことには触れないけれど、言葉という記号を使って、わたしの世界を作ってきた。それは僕が四半世紀くらい生きてきたことの大きな成果。
一方、冒頭に出てきたような、まだ言語世界を構築できていない子供はこんな感じ。そもそも「わたし」という輪郭がおぼつかない。ここからのスタートだった。
そして今。僕が直面しているのは、
言葉になる前の何か。
言葉には決してできない何か。
言葉にすることによってこぼれ落ちてしまう何か。
そういうものが確実に存在しているということ。
そしてそれは、言語とは違う形で、表現されているということ。
たぶんこういう感じに。
こう書くと、当たり前のことを当たり前のように長々書いた感じもあるが、僕にとってはとても切実な気づきだった。
*
本題は?
前置きが異常に長くなってしまったが、藝大の卒業制作展と東京マッハの公開句会に行ってきた話だった。すでにこれも1ヶ月前の話だけど。でも書いておきたいから「前編」として圧をかけておく。
前置きしか書いてないけど、長くなっちゃったのでひとまず今日はこのくらいで。お前の話は長いと言われる所以がこれである。誠に申し訳ございません。後半はまた近々。
#Photo : Fujifilm X100F