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77万年の過去の痕跡。チバニアンの地層を見て考えた色々

チバニアン。
何度見てもすごい名前だ。二度見せずにはいられない、重力のある固有名詞。本気か冗談わからないパワーワード。
そんなチバニアンが、正式に地質時代として採用されたらしい。

「チバニアン」正式決定 千葉の地層、地質時代名に

ニュースを見て、子供の頃に読んだ図鑑の記憶がふと蘇った。
アノマロカリスがいたカンブリア紀とか、恐竜がいたジュラ紀とか、隕石が落ちて恐竜が絶滅した白亜紀とか。「地球にはこんな時代があったのだ」という壮大な物語と、子供心を揺さぶるイラストによってかたどられた幼い頃の淡い断片的な記憶。
地質時代の名称は、その頃の甘美な好奇心の香りとともに、僕の記憶の深いところに刻み込まれている。そんな名称に、日本由来の名前が付いたことは素直に嬉しいことだと僕は思った。

ちょうどこの報道の1週間くらい前、偶然近くに行く機会があってまさにその「チバニアン」の地層を見に行っていた。いいタイミングなので、そのときの体験と考えたことを書き留めておく。

「チバニアン」の由来になった地層は、チーバくんのおへそくらいの場所に位置する市原市にある。東京からアクアラインを通って車で1時間くらいの、養老川沿いにある。

車を走らせていて、路肩に突然この看板が現れたときには、目を疑った。

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こっちに行けばチバニアンがあるというのか。チバニアンの駐車場に停めて、チバニアンに行くというのか。なんという。なんという。狼狽と興奮が入り混じった変な声が出てしまった。

「地球磁場逆転期の地層」と書かれてある。詳細の説明は省くが、隣のビジターセンターで聞いたことをざっくり書いてみる。

▶︎地球は実は巨大な磁石であって、北極近くはS極、南極近くはN極の磁気を帯びている。(だから磁石で方位を知ることができる)
▶︎どういうメカニズムかわからないが、数十万年に一度、N極とS極が入れ替わることがある(その時代に今のコンパスを持って行ったら、北がS極を、南がN極を指し示すということ。不思議!)
▶︎その、地磁気が逆転していた時代があったことを示す証拠が、千葉のとある地層から見つかった。
▶︎そこには運良く年代が特定できる地層が含まれていて、その時代は77万年前から12万年前の間だということがわかった。
▶︎その期間は、まだ地質年代が付いていない時代で、千葉で見つかったならチバニアンでと相なった。ちなみに、上記の地磁気が逆転するという仮説も、今回その証拠となった地層も日本人の発見だという。
(ローカルのガイドが、市原で見つかったんだから「イチハラニアン」がよかったのに、とぼやいてたのがかわいかった)

駐車場に車を停めて、養老川へと降りていく。

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そこには77万年前の地層が確かにあった。
地磁気の逆転という現象の不思議さもさることながら、目の前にある地層が77万年前のものであるという事実にくらくらした。

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それは、たしかに一つの痕跡だった。

77万年前にも、この地球があったことの痕跡。
その時代、地磁気が逆転していたことの痕跡。
地磁気が逆転しても、植物に重大な変化はなかったらしいことの痕跡。
この場所は、おそらく海に沈んでいたであろうことの痕跡。

この痕跡から色々なことがわかる。
ただ僕らにできることは、その痕跡から想像することだけ。

そのとき何が起きていたのか。今と何が違ったのか。77万年前という、想像もつかないくらいの長大な物語に、ただ思いを馳せるだけ。

「今から77万年前の時代の痕跡が見つかった」ということは、裏を返すと、「その痕跡は当時から77万年もの時が経つまで、発見されてこなかった」ということ。あえて詩的に書くと、「77万年もの間、その地層はずっと誰かに発見されるのを待っていた」ということ。逆に突き詰めると、「77万年もの間、その地層は発見されてこなくても、僕ら人類の日常は特に何事もなく過ぎ去ってきた」ということ。

明日爆発する時限爆弾が見つかったわけではないのだ。77万年前の痕跡がただ見つかっただけ。ただそれだけ。にも関わらず、こんなにわくわくするのはなぜだろう?

考えてみれば「痕跡」とは不思議なものだ。
仮に、誰からも発見されなかったとしても、痕跡は静かに存在し続けることだろう。僕がいなくなったあとも。もしかしたら人類が滅びたあとも。

痕跡は、発見して過去を想像する人がいてはじめて「痕跡」になる。痕跡は、過去が想像されるまではただの物体だ。

道端に、几帳面に揃えられた黒い革靴が落ちている。道ゆく人は、誰も目を止めない。でも、ある一人がそれを見つける。なんでこんなものが落ちているんだろう。誰かが置いたんだろうか。その革靴を脱いだ人のことを想像する。なぜ脱いだのか。どこへ行ったのか。どういう気持ちでそうしたのか。

想像された瞬間に、それは過去を物語る痕跡になる。

違う例を挙げてみる。例えば恐竜。
この数十年で、恐竜の姿は大きく変わったという。恐竜が生きたのは2億5000万年前のことだから、当時の「事実」が変わるわけではない。
しかし様々な痕跡が新たに発見され、あるいは痕跡の意味合いが変わり、僕ら人類が想像する恐竜の姿は大きく変わった。昔は、ティラノサウルスの肌にはウロコがあって爬虫類のような姿だと考えられていたが、実は全身が羽毛に包まれたふわふわした鳥類のような姿だった、とか。ゴジラのように尻尾を引きずっていたと考えられていたが、実は体を地面と平行に保って前傾姿勢で歩いていた、とか。

恐竜はとっくの昔に絶滅したというのに、生きていた過去の姿はこんなにも劇的に変貌する。新たにわかったこの「実は」が、本当の事実なのかもわからない。恐竜の姿には、常にその想像の余白が残されている。なんて面白いんだろう。

過去の自分についての「痕跡」も同様だ。

僕らは、様々な痕跡を残しながら毎日を生きている。
歩いていて道に足跡を残したり、本のページに折り目をつけたり線を引いたり、トイレに何かを流したり、Twitterに何かを呟いたり、手紙に言葉を綴ったり。このnoteだってそう。
膨大な過去の痕跡のその上に、今の僕らは立っている。

ある痕跡と出会うことによって、過去の自分の物語が大きく変わることだってあるかもしれない。

高校時代に勉強した分厚いノートから、昔の自分は持っていた勤勉さの痕跡を見つけることがあるかもしれない。
ノートの端っこに書かれた落書きから、退屈だった時間の痕跡を見つけるかもしれない。
落書きと一緒に書かれた見慣れない文字の筆跡から、一緒にその時間を過ごした人の痕跡に思いを馳せるかもしれない。
実家の押し入れに眠っていた透明な紫色をしたゲームボーイの本体から、時間を忘れてモノクロの画面に向き合っていたあの頃の自分を思い出すかもしれない。
昔好きだった人からもらった手紙が捨てられずに、本当に好きだった頃の気持ちの痕跡ともう一度出会うことがあるかもしれない。あるいは何が好きだったのかがどうにも思い出せずに、あれから変わってしまった自分の痕跡と向き合うのかもしれない。

生まれたときから、これまで生きてきた痕跡が、地層のように積み重なって今の自分を作っている。
痕跡の向こう側を想像して、あったかもしれない過去を思い出したり、たしかにそうだった過去に納得したり、時にはその時の物語を新たに作って捏造したりする。そうして僕らの「今」が作られる。

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過去は常に書き換わる。過去が書き換えられるたびに、その延長線上にプロットされる未来の姿も、さまざま違う姿になっていく。
確定した過去も、確定した未来もなくて、今の痕跡から想像され、導き出された物語は全てそれぞれ一つの真実なのだと僕は思う。

そうやって「あったかもしれない過去」の想像の樹形図が、横に広がり、縦に深くなっていくたびに、今この瞬間の「現在」に豊かな重みを与えてくれる。それら全ての想像上の過去の物語が、たった一つの「イマ・ココ」に収束することで、今を生きる自分というものに、あるいは地球というこの場所に、やわらかな膨らみをもたらしてくれるのだ。

チバニアンの地層を眺めながら、そんなことを考えていた。

ちなみに、千葉市美術館でやっていた<目[mé]  非常にはっきりとはわからない>展も、チバニアンに着想を得ていたらしい。前の投稿に書いたが、個人的には2019年いちばんのアート。
人生ではじめての体験をするということ。2019年に体験した色々

展示内容については詳しくは書かないが、チバニアンの補助線を引くことで、色々なことを考えた。観た人も、観に行かなかった人も、77万年前の地球を感じるチバニアン、超おすすめです。

#Photo : Fujifilm X100F / iPhone X