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一発書きチャレンジ_3 「人生の最期に食べたいものは何か?」



例えば何かのマッチングや、少しエンタメ要素の入ったアンケートに必ずある質問は何か?

そもそも、出身地や学歴や職歴や家族形態や年収やら(デモグラフィック情報)に、趣味や特技や習慣や参加しているコミュニティなど(サイコグラフィック情報)が絡み合って、全ては数字と文字列の塊となった「ヒト」をタグ付けして分類することの先に、いったいどんな豊かさが繋がっているのだろう?

事実、答えさせる側は(かつて私はそちら側にいたのだけれど)情報を取りこぼさないようにと必死で設計するし、答える側は、ひとつひとつ答える度に、自分自身の外側にある社会的なペルソナをリマインドされるようで、とにかくテンションが下がる。(上がる人もいるんだろうけど)

シンプルに、何なんだろうこの儀式は、とも思う。

ケーキを食べたいときも食べたくないときもあるよね

「人生の最期に食べたいものは何か?」という問いに、真剣に答える人と友達になりたい。


冒頭の問いに戻ると、「人生の最期に食べたいものは何か?」という問いはひとつ鉄板で、こういう問いだけを掘りまくるアンケートの方が、よっぽどその人のナラティブに触れられるのではないかと、最近思っている。

「人生の最期」なんて、ひとつの比喩なのはわかっている。
本当の「最期」まで、食べたいものを食べられる人が、
実際この国にはどれだけいるのか、わからない。

それでも、この問いかけを正面から受け止めて、自分の最期を想像しながら、悩みながら、「今の答え」を絞り出す人がいたら、まっすぐ握手を求めたい。

熊本の名店pavao

「食」にまつわる語りから、その人らしさは滲み出る


年齢を重ねると、本当に沢山のペルソナが貼り付いてくる。

名刺の肩書や、家族の役割、誰の友達で、どんなルーツをもっている?などなど。

けれど、年齢を重ねてわかったことは、ペルソナだけ見ていても、その人の本質は一向にわからないということだ。

そしてこの社会で、ペルソナだけで繋がる先によくある景色があるとしたら、繋がることが目的という「ネットワーキング」という謎の世界だ。
※私は本当にこの「ネットワーキング」という言葉そのものが苦手。

それってSNSの「友達」の中に、どれだけ本当の友達がいるか?論に近いのかもしれない。

他方で、ペルソナそっちのけでとりあえず食の話をする。
すると、思いがけないその人らしさに触れる事がある。

グルメかどうかという事では決してなくて、過去に食べた思い出の食の語りには、必ずその食を取り巻くシーンがセットでついてくる。

例えばそれが、中学時代に食べた「焼きそばパン」だとしたら、どんな学校生活で、どんな制服で、どんな日々だったのか?
そんな話を語ってくれたら、もうそれだけで、こちらはご飯3杯はいける。

映画監督の伊丹十三さんが書いた「ヨーロッパ退屈日記」という本がある。

そこに書かれている「スパゲッティの正しい食べ方」のくだりを、機会があればぜひ読んで欲しいのだけど、旨いか旨くないかはさておき、こういう語りには、時に無防備なほど、その人らしさというものが滲みでている気がするのだ。

そして何より、「食」ほど共通の記憶のタグが重なり合う分野はあるだろうかとも思う。

人との出会いに予定調和はいらない。

人はどこまでいってもロマンを求めるのかもしれない。
偶然性に運命を感じたり、共感が情を深くしたり。

「偶然、好きなパン屋さんが同じだった。」
例えばこんな瞬間が訪れたとしたら、
愛だの恋だのそういう話ではなく、こんなにロマンティックな出会いが他にあるだろうか?

少なくとも私自身はといえば、これからも出会うために出会うのではなく、このフィルターバブルの外側にある新鮮な世界に触れる事に、生きる本質を感じている。

そんな私が人生の最期に食べたいもの、それは「卵かけご飯(TKG)」です。

これはもう20年くらい変わらないから、きっとずっと好きなんだと思うのだけど、「卵かけご飯(TKG)」にまつわる話、聞きたい人いるかなー。


※「一発書きチャレンジ」は、
私個人の文章を書くリハビリで、何の準備も、構想も、下書きも無く
文字通り「一発書き」で書きなぐったテキストです。

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