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アントニオ猪木さんについて想うこと

今日、アントニオ猪木さんが永眠されたというニュースを見た。

自分は、プロレスファンでも、猪木さんを追いかけているファンでもないのだが、一抹の寂しさと時代の移り変わりを感じた。 それほど、強烈なインパクトと影響力がある人だったのだと思う。

なぜ、そこまで強烈なインパクトがある人だったのか?

自身を振り返ると、大学時代のプロレス好きの友人から、猪木さんの数々の破天荒なエピソードを聞いていたからだ。 彼は、猪木さんのことを、いつもめちゃくちゃなことをやってくれる人として、嬉々としてエピソードを語ってくれた。

例えば、アフリカのウガンダで50万人を虐殺したとされる独裁者であるアミン大統領との試合が組まれたとか(この試合は結局流れたらしい)、
外国の対戦相手と組んで相手が腕に噛みついた際は、目潰しをしたあげく、腕を折って「折ったぞーー!」と叫んだり、
戦争中のイラクに行って日本人の人質を解放するために、親善試合を現地で開催したり、だ。

常人にはできない、その発想すらないようなことを、めちゃくちゃながらもやってのけるという、そのエピソードの数々に、どこか痛快な気持ちになって楽しく聞いていた。

なぜ痛快な気持ちになったのか?
それは、自分だったら躊躇してしまうような、危険で勇気がいるような破天荒なことをやってしまうことにある。 自分ができないことをやるから、痛快に感じるのは当たり前で、日常の鬱屈などを、猪木さんに重ねて発散しているような感覚かもしれない。

特に、多くの日本人は、和を尊ぶという伝統が染みついているから、破天荒なことをやることが日常からは遠いのだと思う。
自身の日常から遠いことをやってのける人間へは、通常、羨望や嫉妬という感情が生まれそうなものだが、猪木さんは少し違った。

羨望や嫉妬というよりかは、
「面白い人だな、なんか見ていると元気が出るな」というプラスの感情が働いていた人がほとんどのように感じる。
それは、その危険な行動にリスクとリターンが見合っていないようなことが多く、打算や計算高さというものが見えないからではないか。

日本人は、特に打算や計算高さというところに、嫌悪感を抱く人が多いのは、鎌倉幕府を開いた源頼朝よりも、さんざん利用された挙句、悲劇の運命をたどった源義経の方が人気があるところからも分かる。

猪木さんの中に打算や計算高さがあったのかどうかは分からないが、少なくとも客観的に見て、そういう印象は抱かない。
誰が、戦争中のイラクに行って、プロレス興行をして人質を救うなどということを考えて、しかもそれを実行するだろうか。
後にも先にも、日本人では猪木さん以外あり得ないように思う。

そんな猪木さんの有名な口癖は、
「元気があれば何でもできる」「元気ですかーー!?」。

シンプルだが、いろいろ行動する前に悩んで動けなくなる人が多い日本人には刺さる言葉だ。

たしかに、本当に実践する人に言われると、猪木さんのようにできるとは言わないが、何でもできるような気分になってくる。

その言葉にどれだけの人が勇気をもらって、背中を押されたことだろうか。
難しいことを考えずに、元気があれば何でもできる、は真理だと思う。

逆に言うと、元気がないと何でもできない。
元気は、身体と心の両方から成立するものだと思う。
その元気をいつでも引き出すために、普段から身体と心を整えることが重要だと伝わる。

そして、その元気があれば、何でもできる。
自身が、苦しい時、辛い時に思い出したい言葉だ。

猪木さん、ありがとうございました。

安らかにお眠りください。

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