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猫の瞳【短編小説】

 俺は衝動買いをすることがない。
 事前に必要なものをリストにまとめ、それらを店で淡々と手に取るだけ。言うなれば、買い物は作業に過ぎない。

 ある日、仕事帰りに駅ナカの書店に立ち寄った。好きな作家の最新作を買うためだった。
 平積みされた、話題作。さっと手に取り、レジへと向かう。入店後三分以内で帰れるかも、などとうっすらと勝ち誇っていたとき。レジ横に展開された文房具コーナーが目に留まる。栞、ブックカバーにブックスタンド。洗練されたデザインが好印象で、カバーの新調を検討するため足を向けた。
 柄は不要で色はモノトーン。その基準があれば、選択肢は自然と絞られてくる。流し見で検討中、猫の瞳と目が合った。ブックカバーの隣に置かれた、黒猫の栞が俺を呼んだ。
 可愛いなんて独り言、一生言わないと思ってた。
 無意識に出たか弱い言葉に、自分で自分に赤面し、胸がとくんと音を立てて苦しくなった。まったく、君のせいだよ。

 オフィスでしか会わない君とは二年半の付き合い。部下の君はいつまでも初々しく、一方で時折垣間見るクールな決断が凛々しい。緩く釣り上がった猫目が印象的で、いつの間にか、ふと眺めることが多くなっていた。
「先輩? どうしました?」
「いや、何でもない。その調子で頑張れ」
「はいっ!」
 見間違いかもしれない、勘違いかもしれない。けれど一瞬、君がウインクしたように見えて。
 可愛い。
 そんな言葉で自分を誤魔化した。そうだ違うんだ。惚れてなんかいない。

 気づけば、新刊と共にレジに飛び乗る黒猫。これからは本を開く度、君がそこにいてくれる。
 衝動買いとは思っていない。きっと衝動買いの意味にはグラデーションがあって、その一つが、一目惚れだと思う。上等だ。

 一目惚れは、素直な心の合図。

 

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