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ストレンジテトラ ♭.11 (2)

♭.11 丸い水槽**


(3)

別れも告げずに夏が去ってしまった。
パーカーのポケットに手を突っ込んで歩く。 
あれだけこの惑星を煮えたぎらせた迷惑な季節も、いざその終わりを感じると少しの寂しさがあるものだ。

西の空に陽がストンと落ちていく。
ついさっきまでお日様だったそれはいつの間にかお月様と入れ替わった。

わたしたちと同じように。
お日様もお月様も代わりばんこに仕事をしてるんだ。
10月の空と海にそんなことを思う。

時刻は19時半。
街灯に照らされたテトラポットに1人。
煩わしい羽虫たちも、いつの間にか夏と一緒に何処かへ行ってしまった。
わたしは今日もここから海を眺める。

「いい夜ですね」

振り返ると制服姿の野月秋乃さんが立っていた。会うのは8月の岬ばあのお葬式以来だっけ。

「鮫川さん、本当に毎晩ここに来てるんですね。」

ゆっくりとわたしの隣に腰掛ける。
うん。と水面を見つめたまま答える。

私の横に腰掛けた野月さんがショルダーバッグからゴソゴソと何かを取り出す。

「おばあちゃんから。」

ラムネの瓶を2本取り出して片方を私に手渡す。
わたしを覗き込むその笑顔をなんだか懐かしく感じた。

プラスチックのキャップで蓋のビー玉を押し込む。ぽんっと栓が抜ける音とジュワワっと泡が溢れて吹きこぼれるのがほぼ同時。

「相変わらず上達しないね」
声が聞こえる。
確かに聞こえる。

ゆっくりと波打つ大海原を見ながらふたり。
瓶を軽く合わせて乾杯する。

「会いたくなりますね。」

「うん。」


夏の日。ふたりで飲んだラムネの味。
畳の匂い。子どもたちの声。
隣を見たらあの可愛らしいおばあちゃんがニコニコ座っていそうで、やっぱり今も寂しくなる。

「今日はどんな取材をされたんですか?」

野月さんの声が沈黙を破る。

「聞きたいです。鮫川さんのお仕事の話。」

わたしの仕事の話、か。
相変わらず、聞かれる側はなんだかこそばゆい。

「うーん、あのね、今日は宝くじ売り場のおばさんの取材。目の前で億万長者が出るんじゃないかって、自分が買ったわけじゃないのに毎日ちょっとだけスリルがあるんだって。」

野月さんが微笑む。
この笑顔を見れただけでも、今日の仕事の意味はあったな、と思える。
わたしもつられて頬がほころぶ。

「わたしもね、野月さんとおんなじ。悩んでたんだ。学生の頃。どんな大人になるんだろうって。」

緩んだ頬のまま、ため息に混じって言葉が出る。
わたしの奥底の真っ暗闇をよじ登る言葉たち。


変な心の病気なんだ。
頭の中がたまに子どもに戻ったり
急に大人になったりするんだよね。わたし。

友達もいなくて、小学校も中学校もよく午前中で帰ってたんだ。
放課後は病院に併設された障害児童施設みたいなところに通って、先生とおしゃべりするのが好きだった。

修学旅行にも、行けなかった。
振り袖も着れなかった。
部活も恋もしてみたかったな。

水面に映る自分の姿を見ると悲しくなったよ。
どうしてみんなと違うんだろうって。

別に好きで”変な子”でいるわけじゃないのにね。

出る杭は打たれる。
打たれまいと突き抜けてみたり、自制したりすると、今度は引っこ抜かれる。

10代のわたしはいつもふらふらしていて
生きるのがすごく下手くそで、苦しかったな。

わたしは自分の将来なんて考えられなかったよ。

わたしなんかより、あなたのほうがずっとずっと大人だ。

精一杯の口調だったけど、ちゃんと自分の口から野月さんに伝えた。

しばらくの沈黙。
波の音を聞きながら、突如始まったわたしのモノローグが、野月さんの頭に落ち着くのを待った。

「鮫川さん。私、製菓学校に行くことにしました。」

野月さんが口を開く。
気を使っているのか、わたしの過去には触れてこなかった。

「私、決めたんです。」

大きな瞳がまっすぐにわたしを見つめる。

「鮫川さんに初めてあった日からずっと。私の好きなことってなんだろう、なりたい自分って何をしているだろう、って考えたんです。
先生の言ってた未来のビジョンって、なんだろうって。」

「うん。」

「私、自分の考えたお菓子をいろんな人に食べてほしい。おばあちゃんみたいに、お菓子で人を元気にしたいなって。」

わたしはどんな顔で彼女の話を聞いていただろうか。
サナギの背中からゆっくりと蝶が出てくるのを見守るような。そんな感じ。

「製菓会社に入って、おいしいお菓子の開発をしたいんです。人の喜ぶ顔が好きです。私。私のなりたい自分って、お菓子で人を元気にできる人。年をとっておばあさんになったら、もちろん駄菓子屋さんになりたい。」

力強く、野月さんは自分の言葉を紡ぐ。
たくさん悩んでたどり着いた答えは、わたしの大好きな人の面影に似ていた。

夜の海で泣いていた目の前の少女はたった今、
確かに大人になった。

「なれるよ。野月さんなら。」

嬉しくて、頭を撫でてあげたくなる。

「お尻、痛くありませんか?」

冗談めかして、野月さんが言った。
この話はこれで終わり、ってことなんだろう。

「テトラポットって座り心地、悪いんだよね。」

あはは、と野月さんが笑う。
高校生にしかできないアイドルのような笑顔だ。

「鮫川さん、これからも毎日ここにいますか?」

「うん。」

「また会いに来ますね。」

「うん。約束。」

カバンを手に取り、野月さんは見納めるように海とわたしを見る。

立ちあがった少女の背中を見つめる。
次に会えるのはいつだろう。
製菓学校、合格するといいね。

「飴玉なんだって。人生って。」

テトラポッドに座ったまま、波の音に負けないように野月さんに言葉をかけた。

「岬ばあが言ってたんだ。人生は飴玉だよって。
いつかなくなっちゃうものけど、甘くて優しくて、嬉しいものなんだよね。」

ペコリとお辞儀をした向こうに、今日も満月が見えた。

きっと一生忘れられないような
大波をかけ分けて突き進む帆船のような
誇らしげな少女の笑顔が
わたしの瞳に映った。


わたしの答えは
きっとまだこの世にはない。

大陸を見つけたように、星座を見つけたみたいに。万有引力を発見したときの、頭にりんごがコツンと落ちる感じで。
何かの拍子でふと、気づくんだ。いつかきっと。
理想論かもしれないけど。

やりたいことが見つからないなんて
よく考えたら当たり前だ。
やってみなくちゃわかんないもんね。

それでもあなたは、最高の答えを見つけたんだ。

遠ざかる背中に、小さく手を振る。

※※


うみはひろいなおおきいな

野月さんが帰ってひとりになったテトラポッドの上。
ずっと歌えなかった歌を恐る恐る口ずさむ。

何年ぶりだろう。
お父さんがまだ生きていた頃
海に来ると、いつも一緒に歌っていた。
車の中だって、お風呂の中だって
わたしはこの歌が好きだった。

お父さんとお別れしてから、この歌を歌えなくなってしまった。
3拍子の歌だからだろうか。
懐かしくて、息が苦しくなるからだろうか。
多分、両方なんだろうな。

3拍子の歌は
お父さんがいなくなってから歌えなくなった。
4人だった家族が、3人になって。
1人足りないのが苦しくて、なんだか怖くなるから。
なんだよそれ。馬鹿みたいだ。本当に。

お父さんのお葬式があったあの日から、
わたしの頭と心はおかしくなった。
4の倍数でしか言葉にできなくなった。

お父さんのいない家。
お母さんとお姉ちゃんと3人の家。
余った食卓の椅子。
仏壇の線香の数。
1人で眺める海。
数が合わない。気持ちが悪い。
わたしは、わたしで居られなくなった。

4の倍数しか許せなくなった。
漢字ノートのマス目に何もかも敷き詰めた。
それを見つめて、安堵した。
田んぼの田の字の中に好きなものをありったけ詰め込んだ。

頭の中にも見える景色にも、マス目が張り廻った。
ぴったりと収まらないと、苦しくなる。
そこにたくさん入ると、安心する。

足りない席を埋めるために。
受け入れられない現実の帳尻を合わせるために。
大人のわたしと、子供のままの私。
わたしは二人になった。

でも、もう大丈夫みたい。

テトラポットの表面に優しく触れる。
仕事中のお父さんを潰した元凶。
わたしの人生を狂わせたくせに。
ひんやりとした石の肌触りは心が落ち着く。
景色がなんだか、澄んで見えた。

「あのね、お父さん。」

今、あなたはどこを泳いでいますか。
キラキラとひかる水面のような
素敵な場所でありますように。




(4)

部屋に大音量が響き渡る前に目が覚めた。一秒前は夢の中にいたのに三秒で忘れる。いつもそうだ。枕元の目覚まし時計の音を先んじて止める。

「ニィ」

と足元で小さな声がする。チャコールグレーのさらさらしたものがわたしのぼやけた視界に入る。

わかったよ。起きるよ。
枕元の鯨の形の電波時計を先んじて止める。

カーテンを開けて朝の空気を吸い込む。

ハンガーに掛けた灰色のパーカーを羽織り、靴下を履く。足元のまん丸グレーに「おはよう」と声をかけるが無視される。

海沿いの一軒家は寒い。家賃とロケーションを優先したつもりなのだけれど、初冬の寒さはほんとに凄い。
部屋の中で吐息を目視できるとは思わなかった。

コーヒーを淹れ、食パンにマーガリンを塗る。足元ではギンが必死でパンの耳をちいさな口に押し込む。
またお腹壊すよ。と諭すが、今の彼の中ではパンが最優先。
わたしよりもパンの方が、なんというか、偉いんだ。

テレビをつけると今日は勤労感謝の日らしい。
いろんな職種の人と向き合う自分の仕事柄、「世界中の皆さんいつもお疲れ様」と労ってあげたくなる。
本日は言わば、ジョブログ編集記者 鮫川音季にとって、オールスター感謝祭的な日だ。

クローゼットからハイネックのニットとジーンズを取り出して着替える。海沿いの釣り堀は冷えるのだ。髪を整え、素早く化粧を済ます。男子にはこの手間が無いんだよな。と女に産まれたことを恨んでいたが、これはハンデではなくアドバンテージだ。

ふと時計を見ると時刻は7時30分。

スニーカーの靴紐を結んでいると、トテトテと台所から小さな足音が近づいてくる。

立ち上がるわたしに、何か訴えるような丸い目。
口元のパンのカスをピンク色の舌で舐める。

「…ギンもくる?」


※※※※

「猫って常におなかすいてるんですかね。」

と愚痴を溢すと釣り堀のおじさんは大きく口を開けて笑った。

胡座をかいて、赤いルアーロッドから釣糸を垂らす。

自分と独りっきりになれる沈黙の時間。
自慢の釣竿で今日も釣り人を気取ってみる。
未だに一匹も釣れた試しはないのだけれど。

「上手じゃないからそんなに期待しないでよ。」

わたしの忠告に耳を傾けることもせず、ギンは虫を追い回したり、わたしの横で寝転んで自分の身体を舐めたりしている。
少しするとくうくうと小さな寝息を立てて寝てしまった。

妄想と現実を行ったり来たり。 
30分くらいそうしていただろうか。

「にゃぁ」と小さくギンが鳴いた。
わたしの背中を前足でポコポコと二回叩き
鈴の音の様にコロコロと喉を鳴らす。

手に微かな振動。引っ張られる感触。さっきまで地蔵の様に動かなかった浮きが上下左右に生き物みたいに揺れていた。

「わっ…?あ、きた?きたぁ!!かかった…!」

わたしはその場に立ち上がり、竿を離すまいとまだ見ぬ大魚に全力で抗う。

「サメ子ちゃん、リール!リールを回すの!」
「落ち着け。おっちゃんが網、構えてっから!」

釣り堀にいつもいる中年のおじさんや派手な服装のお姉さんがわたしの両側に駆け寄ってきた。

たまに見かける長距離トラックの運転手さん。
無精髭を生やしたパチンコライターのおじさん。
甘いタバコの匂いがするスナックのママさん。
送電鉄塔の部品交換をしてるマッチョな兄さん。
レンタカーの清掃業をしてるおじいちゃん。
釣り堀の受付のおじさんも。

釣り堀にいた全員が、持っていた釣り竿を放り投げてわたしのもとに駆け寄ってくる。

「今日こそ大物釣るわよ。」
「サメ子ちゃん、落ち着け。深呼吸!」
「岬ばあが見てるぞ。頑張れ。」

みんなの声援を 後光が差すように背中に浴びる。

「えぇっ、ふふっ。はい!」

深呼吸して右手と両足に力を入れる。
釣り竿を握る手とは裏腹に
ほっぺたと目尻がくすぐったくなる。

飴玉を味わうようにゆっくりと。

わたしは赤いリールを回してみる。

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