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「把握」の「把握」と引き寄せの法則

先日、書こうと思ってから公開まで20分くらいで書いた記事が思いがけずポンポンポンと通知が来てびっくりする経験をした。たぶん自分史上イチバンの通知の初速だった。(ありがたや)

でも、なんでこんなにポチッ、ポチッといいねが来たのだろう。

「わかるわかる」となったのか。
あるいは、
「あるある」となったのか。(一緒では?)

いずれにせよ、こういうまぐれ当たりみたいなことは何度かある。軽い気持ちでやっているから緊張なんかしていないし力んでもいない。

スポーツとか音楽関係の偉人の話でもこういった話を聞くしバズったひとのなかにはこういう話をする人もいる。狙ってやっているひともいれば、できるためのノウハウなんかもあるらしい。先日のは完全にまぐれだ。

なんの考えも準備もなしに再現しようとしても駄目なことはわかっている。最近まですごい才能があるとか完全に運次第だと思っていたが「引き寄せの法則」というものについて考えを巡らせているからだろうか。

正しい心構えで正しくノウハウを学び正しく使いこなす練習をして正しく身につけることは決してずる賢い選択ではなく、交通ルールを学ぶのと同じくらい大切なことなのではないかと考え始めている。

学びも記事にすれば、書くことによって理解が深まるだろうか。理解が足りないことが明らかになることで学びに繋がることもあるかもしれない。今回は実験的に「把握」の「把握」を試みてみることにしたい。

「把握」ってなんだ?

前回の記事のラストの方でも触れた話題だが、松下幸之助の言葉に出会ったことで思考の手順を決められそうな気がしている。

これまではただ漠然と「うーんうーん」と考えていた。掴みどころのないままにあれこれ考えて、書いては消して書いては消してを繰り返すことで自分自身の考えがどういうものであるのかを考えていた。漠然と考え、箇条書きにするように脈略もなくあっち飛びこっち飛びする自分のなかに浮かんできたものを捕まえるのに必死だった。

考えたハナからそれに対する反論や強化の考えが浮かんであたまのなかがこんがらがって「わからん!」となっていた。だから言語化している最中でさえその先のことやいま書いている部分の先でそれに対する反対意見も書いていこうとしていて、話がまとまらなくてずっとこまっていた。

自分の癖みたいなものをマガジンに収録する記事を書きはじめて理解できてきた。それに対する解決案を分からないなりに仮定しやってみたりもしていた。効率は悪いが好き勝手に書いてからいらない部分を削っていくのがいちばんいい。箸休めに別記事を書いてみることもやってみた。それなりに効果はあるので何がいいのかを分析する段階にはきていないものの、感覚でやっていたことを頭でわかろうとすることで理解の領域が広がったり深まっていることを実感できている。フィードバックしながらやっていくよりほかにぼく専用のやり方は作れないんじゃないかと思っている。

ここに他人のやり方や科学的だったり技術的なノウハウを学び取り入れ自分になじませていくことでさらに広がるし深まるんだろうと思った。そしてこのサイクルこそが「把握する」ということなのではないだろうか。この一連の流れを繰り返すことが、松下幸之助のいっていたことなのではないのか。

松下幸之助の言葉にある「把握」は「心構え・基本姿勢」と言い換えられています。
解説の部分にある『知識を使いこなす』と『物事を(覚えるのでなく)悟る』という2つの課題を合わせて考えると「心技体」という概念が浮かび上がってきます。

ぼくはいま何かが、何かがわかりそうです。当たり前のことを改めてわかろうとしているだけなので、ぼくだけが分かっていない可能性もありますが、もしかすると「把握」という行為には「順序」というものがあって、まずは「心構え・基本姿勢」を知ること、次に「知識」を使いこなせるように実践をし、「分析」や「想像」を経て再び実践し「覚えるのではなく悟る」という領域にまで自身になじませる。この一連の流れを繰り返すことで「理解」が更に「深まったり」「広がったり」する。そこでまた自分にはない「情報」や「視点」や「論点」というものに触れ「把握」を試みながらはじめの「把握」にフィードバックしていく。それをどんどんどんどん繰り返していくことで、広く大きく物事を多面的、複合的、複層的に理解することが可能なのではないだろうか。

だからこそ松下幸之助は「私の第一声としては、「人間把握ですよ」
と言い「お互いに把握し合うんですよ」と続け「人間が人間自身を「こういうもんだ」といって把握しないといけない。そこからいっさいが始まるわけです」と加えたのではないだろうか。

「把握」を「把握」し、自己を「把握」し、互いを「把握」し、人間自身を「把握」し、現代社会を「把握」し、歴史を「把握」し、成功と失敗のケーススタディを「把握」「実践」し、深めながら広げながら重ねていくことの大切さを語っているのだとしたら、このマガジンを書き進めていく日々のどこかで「人間を考える」を拝読できたらと思います。

「把握」の「把握」の「復習」

「把握」という行為を「把握」しようと試みるだけでこんなにも時間と労力を使うとは思わなかった。しかもまだ全貌が見えた気がしない。時間をかけて一生挑んでいくしかないかもしれない。
誰かを「把握」すること、恋や愛を「把握」すること、善と悪を「把握」することも一筋縄にはいかないことが確定路線だ。
厄介なことに手を出してしまった気がするがワクワクしている。この先のどこかで、わかった気になって傲るのもだめってことは理解している。問題は自分が傲っていることに気づけるかどうかだ。

数多くの先人が言うように「人生ずっと勉強だよ」ってことならば、人間である以上ぼくのヒューマンエラーはゼロにできない。常に正解を選べる自信もない。理路整然と怨親平等で善人で公平である自信もない。言葉足らずにもなるだろうし、思い込みでやらかすこともあるだろう。いままでもあったことだ。失敗を重ねてきた先で藁にもすがる思いで掴んでいる。この先、いい道に行くためにもいまがいい道であればいいのだが、わからない。わからないから立ち止まるのか? いや、立ち止まれない。食べなきゃいけないし払わなきゃいけない。霞を食って生きていくわけにはいかないからだ。やるよりほかに道がないのだから、やる。それだけだ。
こうして物事を把握する作業をしながら自己把握することを試みつつ、把握するために必要な「復習」についてもやっていくことにしよう。と、いうわけで脳内の点と点をつなげる作業、復習ことおさらい! をやります。

◆この世は万事「心技体」の考え方が根底にあるのかも?
◆引き寄せの法則とは努力の心技体の解説文なのかもしれない。
◆心の心技体、技の心技体、体の心技体があるのかもしれない。

◆把握はすべての「心」に入るかな?
◆把握の為の心技体は松下幸之助の言葉にあった。
◆把握には段階があり、続けると広く深く把握する可能性がありそう。
◆把握には伝聞や一見、思い込みやバイアスによる判断の誤りもありそう。
◆把握のサイクルを能動的に好意的にできると強そう。

◆脱力はすべての「体」に入るかな?
◆脱力の為の心技体がありそう?
◆脱力の段階もあって、続けると常時最適な力加減を得られそう。
◆脱力はすべての「心」にも入りそう。気負う・弛んでるなどあるので。

◆悟空は「脱力」の人かな。
◆ベジータは「分析」もしくは「把握」の人かも?

復習を試みてみました。個人的には「復習」の効果はあったような気がしています。まだまだ自分の頭の中を文章として理路整然と分かりやすく語ることができている実感が無いし自分でも時々なにを書いているんだと思いながら消したり書いたり手探り状態なので、こうして箇条書きで自分のあたまのなかを整理するのはひとついい試みな気がしました。
まだまだ読みづらいしよくわからないことを書いていると思いますが、次回もお付き合い頂ければ幸いです。ちなみに次回もたぶん「把握」に関する記事になります。それでは次回、「把握」と「十人十色」と引き寄せの法則。でお会いしましょう。

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