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【小説】湖の森の水姫と靑日凪


前話




 僕が最初に月を観測したのは、六年間背負ってきたランドセルをそろそろ手放そうとしていた頃だった。従兄から譲ってもらったランドセルは、同級生が背負うピカピカのランドセルと比べるとくすんで見えたが、新品だと汚すまいと丁寧に扱いたくなって背負うことも憚られる気がするので、僕にはこれが丁度良かった。くすんでいることを笑う同級生もいなかったので、僕とランドセルは何事もなく卒業することが出来た。

 月を観測したのは僕だけで、両親や晴臣だってそのことを知らない。未だに知らない彼らは、二度目の月の墜落でようやく事実となって記憶に刻まれたのだ。

 それが当然と言えば当然で、なぜなら、月が落ちたのは現実世界ではないからだ。それを人は夢の世界と言うのだろう。学校へ行き、ご飯を食べ、風呂に入り、眠った後に僕が行きつくのは、僕しか知らない秘密の世界。物心ついたときからその村の子供の僕は、そこにもう一つの存在を持っている。
 だから、両親と晴臣に知る由もないのだ。

 僕の故郷は、森に囲まれた自然豊かな場所にある。朝は霧が深く、長針が上を差すまで太陽の日は浴びられない。夕焼けは早く、村に闇が落ちれば水の底のように静まり返る。

 学校や自宅での喧騒で疲れた耳を癒すには最適で、嫌なことがあった時はここに帰りたくて仕方が無いと感じるくらいだ。木々の隙間から青い空をぼんやりと見ているだけで、心のわだかまりが取れる感覚がする。

「おいイオリ、早く行こうぜ」

 風の音を覆い隠す声の主は、いつも僕の世界に入り込む。常に走り回っているカナタはそこに僕を加えようといつも腕を引っ張ろうとしてくるのだ。物心ついた時から変わらない運動神経の良さは、大きくなるごとに僕とカナタの差を見せつけてくる。

「行くって、どこに?」
「いや、特には決まってないけど。えーっと、じゃあ、北の山。あの辺まだ行ってないから」
「北上しちゃだめだって言われてなかったっけ。北には鬼がいるから」
「あんなん信じてんのか? 大人の言うことなんて、でたらめばっかだぜ。湖にも魔物が棲んでるって言うくせに水汲みに行かせるだろ? 本当にいたら子供を一人で行かせたりするもんかよ」

 珍しく御尤もなことを言うカナタに感心していると、「あんだよ、その顔」と、頬を軽く叩かれてしまった。爪を噛む癖のおかげで傷つかずに済んだ頬をさすりながらカナタに目をやると、期待するように両こぶしを握っている。カナタと殴り合って勝てる未来は僕には無い。

「悪いけど、行くんなら別の子と行ってきたら」
 彼から視線を外し、足元に置いていたかごを掴み上げる。

「ちぇ、寂しい奴だな。一人でいたら、魔物に食われちまうぞ」
「食われるかもな」
 かごを背負ったところで、ようやく彼はそれに気づいたらしい。彼もかつてはこれを背負って、水を求めて道を歩いたことがある。肩に食い込む紐がどれだけの痛みなのかを知っている彼はすぐに顔を歪めた。

「あ、そ、うか、今日か」
「誰かさんが泥まみれになって帰ってきたから、水の減りが早いんだと」
 ぐ、と喉で何かが潰れたような音がした。カナタに目を向けると、素知らぬ顔で唇を尖らせている。

 生活ができるほどの水が湧かないこの地では、なによりも水が貴重だ。そんな中泥だらけでカナタが帰ってくれば、村の人は怒鳴り声をあげる。どうしてこんなに泥だらけなんだ、家にも上げられないじゃないか、水不足で死んでしまいたいのか、ありとあらゆる言葉を浴びせる大人に囲まれて、カナタはしばらく子猫のように丸まっていた。それが、今にはもう山へ行こうと言うのだ。

 水を汲みに行くのはイオリくんなのよ。
 そう言って叱った母親の言葉も忘れてしまっていたらしい。

「イオリはいつまで水汲み当番なわけ?」
「知らない。僕より年下はここにはいないから」
「そういう場合ってどうなるんだ? 一番上に回るのか?」
「一番上だとシノさんになるけど、あのよぼよぼが水を背負って十キロを歩けると?」
「無理だな。普通に一キロを歩くこともできねえ」

 カナタの表情に笑みが戻ったのを確認し、僕は湖に向かうことにした。
 水汲みには一人で行かなくてはならない、誰がそんなことを決めたのだろうか。魔物がいるのであれば大人数で行けば良いものを、わざわざ一人で行くよう言ってくる。やはりカナタの言う通り、湖の魔物は大人の作り話なのかもしれない。だとしたら、湖の魔物はだれが何のために作ったのだろうか。

 全員でかごを持って水を汲みに行けばいいのに、そう何度も口にしたけれど、大人は僕の言葉に頷くことは無かった。カナタが水汲み当番だったころ、水汲みのたびに一人で行きたくないと泣き喚いていた。その姿を見ているのが苦痛で、僕も一緒に行きたいと言ったが行かせてくれなかったのだ。

 効率の悪いこれはしきたりなのか何なのか、この村に帰ることができなくなってからもそのわけを知る機会は訪れなかった。大きくなれば分かるのかと思ったけれど、そんなことは無かったらしい。
 頭の固い大人が、自分たちがしてきたことを後世に伝えているだけだ。それは、ただの伝言ゲーム。


 その日、僕は月を目前で観測した。

 水を汲むために覗き込んだ湖の水面に、一つの光が浮かび上がった。まさか湖の魔物かと体が強張ったけれど、すぐに、それは水面下にいるのではなく、水面に映った何かだということに気づいた。

 顔をあげれば、眩む光に目が痛む。刺すような白を避けるために瞼を強く瞑った直後、突き上げるように地面が揺れた。耐えられない痛みにのた打ち回る地面にしがみ付き、真横の湖に迫られながら鎮まる時を待つ。何度も襲ってくる湖の水は波のようだった。

 森から飛び立つ鳥も静かになった頃、ようやく手の力を緩める。強張っていた体をほぐしながら顔をあげれば、辺りは先ほど変わりなかった。ただ、少し視界が歪んでいる。水面に映った景色のように柔らかく揺れる景色は絵画のようだった。しばらく見つめていると、それは治まってくる。

 湖に目を向けると、底にいた魚たちが水面に顔を出していた。見たことのない色の魚たちの形は僕が知っているものと変わらず、その中に魔物と言っても差し支えないような魚はいなかった。

 空を横断した光が何だったのか、村へ帰る途中で知ることになる。
 村まであともう少しだという辺りで最後の力を振り絞り駆け出した途端、目の前の視界が開けた。この先はずっと森が続くはずなのだが、そこには大きな湖が広がっていた。無かったはずの穴に、無かったはずの水が満ちている。
 向こう岸には小さく動く人の姿があった。おそらく、村の人たちだろう。耳を澄まさずとも、カナタの声が聞こえた気がした。

 カナタの声は、僕の鼓膜の一部を刺激しただけだった。
 大部分を占めていたのは、目の前で僕を見ている彼女の声だった。

「ふふ、変な顔」

 水に飢えていた人々が湖の誕生を喜んでいた頃、僕は湖に浮かぶ彼女から目が離せなかった。

 湖に浮かぶ小島のような場所に座る彼女は、白いベールで身を包み、手元の水で音を立てて遊んでいた。ささやかな風が彼女の髪とベールを揺らし、隙間から覗く女性の体が陶器のように白く、精巧に作られた芸術品のように思えた。

 彫刻にも似た彼女だったが、波を作るその手がそれを否定する。滑らかに動く腕は作り物なんかではなく、彼女が生き物であることを証明していた。

 僕の返事を待つ目には温もりがあった。瞳は水の光を反射して輝いており、それは暗闇の中でも光を放つ宝石のような印象を受ける。

「……何がさ」
「そのお顔。すごく驚いたような顔で私を見ていた」
「そりゃあ。君がいるから」
「あら、私がいたらおかしい?」
「いや、おかしくはないけど、……やっぱりおかしいかも」

 そう答えると、彼女の笑い声が風に乗って鼓膜をくすぐる。聞き覚えのある声色は何かに引っかかることなく脳に落ち、すとんと受け入れられた。当たり前と言えば当たり前なのだけれど、あまりにもすんなりと受け入れることができてしまったことに少し驚いている。

 後に、口元に手を当てて笑うのは癖だと知った。舞う姿は童話に出てくるお姫様のように優雅だが、歩き慣れていないような足取りは子供の姿を思わせる。なだらかではない地面に何度も爪先を引っ掛けるたびに、派手に転んでしまわないかと冷や冷やしてしまう。

「ずっと私のことを見ているけれど、お尻に魚でもついてる?」
「ついてないけど。ここに魚いないだろ」
「でも、すごく私のことを見ているじゃない」

 じっと見つめる瞳は、水を反射して淡い青色をしているが、彼女の瞳は透き通る白だ。白と言うには似つかわしくないだろう、その向こうが見えてしまうほどの透明。しかしその先に覗いているのは赤でも黒でもないのだから、美しさを寄せ集めた陶器に思えてならない。彼女の瞳は、見るその時々で色を変えていた。

「一緒に遊びたいなら、そう言えばいいのに」

 白い歯を手で隠して笑う彼女が跳ねれば、水面が揺れる。彼女を中心に伸びる波紋は、僕に届くころには息を失ってしまった。

 ふわりと舞うベールは、彼女の肌を隠すには大分至らない。
 ベールの隙間から覗く〝女性の肌〟が見えてしまうと、どうしても彼女のことを見ることが出来なくなるから、彼女には僕の服を着せることにした。

「なに? この服。私には似合わないよ」

 彼女はあまり気に入らなかったみたいだけれど、僕はよく似合っていると思う。現実世界にもボーイッシュな服装をした女性はいるから、おかしな格好と言うわけでもない。

 少し不満げだったけれど、これ以外に僕がここで彼女に渡せるものは何もない。彼女の期待に答えられないのは心苦しかった。彼女は服を着たくないと言っていたのに、それを無理やり来てほしいと頼んだのは僕だから。頼む側としては、それを受け入れてくれるのだから相手の要望にそれなりに答えたいのが本心だ。
 出会ったのが夢の中でなければ、彼女の要望に答えられたのに。

「ねえ、そういえば、君の名前って何て言うの?」

 少し大きめの服の裾を回していた彼女はぴたりと動きを止めて、僕の瞳を見つめる。きゅっと上がった口角が浮かぶ表情は、それはそれは楽しそうだった。

「月。月だよ」
 ──落ちてきたのが、月だと知った。


 夢の村にはもう行くことが出来ない。何度、何度眠っても、どれだけ祈っても、夢を見ないまま朝を迎えてしまう。
 彼女が──、月が、なくなってしまったあの日から。

 まるで月とあの村が繋がっているように、一緒に消えてしまったのだ。




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