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【小説】無垢の砂漠と君に似た月

 月の遺産を聞いたことがあるか。

 月面探索を達成した宇宙飛行士でさえ見つけることのできなかったそれが一体どこに残されているのか、まだ誰も知らない。
 誰が、何を残したのか、何のために。
 世紀の大発見ともされるであろう月の遺産は、僕にとってはあまりに陳腐なもので、水に捨ててしまった。あの日の僕が欲しかったのはそんな眩しいものではなくて、二人で切り分けたショート―ケーキの片方みたいに、小さくてあたたかいものだった。半分になったいちごを見つめて笑うような人だった。
 月の遺産は既に失われた。だからあの日、世界に月が落ちてきたのだ。


 誰も起こしてくれない朝が来た。
 喚く目覚ましの音は日に日に小さくなっていく。一度も目覚ましの音は調節していないから、その事実は僕が目覚ましの音に慣れてきてしまったことを告げていた。カーテンの隙間から差し込む日の光が瞼を刺しても、まだ昇りきっていない太陽は僕を起こすにはまだ足りない。

《昨晩から降り続いた雨は今朝には晴れて、青い空が広がっています》

 つけたままのラジオから流れる聞き慣れたパーソナリティーの声が、今朝の天気を伝えている。眠るとき、雨粒が窓を叩く音を聞いていた覚えがあるが、心地よくて大して不快とは感じなかった。雷が鳴っていれば話は別だったかもしれない。

《明後日までは快晴が続き、三連休は絶好の外出日和でしょう。私は明日、友人と遊園地に遊びに行く予定ですが、どうにも絶叫系が苦手なんですよね》

 そう言えば以前にもそんなことを言っていたなと思いつつ、ラジオに近づく。灰色にくすんだラジオは祖父から貰ったもので、これだけは月が落ちる前と変わらない。

「もうちょっと働いてもらうからな」

 ノイズだらけのラジオの電源を落とせば、何も言わなくなる。ぽつりと静かが落ちた部屋。昨日のうちに準備しておいたリュックにラジオを下げて、家を出た。差し込む光は目を刺しても、月に触れた僕にとってはただの白でしかない。

「どれだけ色がついていても、光が無ければ意味がない」
「暗闇では赤も青も黒も見分けがつかない」

 テレビの向こうで話す誰かの言葉が過ぎる。その言葉で、どれだけの色覚に障害を訴える人が救われたのだろうか。とても数えられないほどの人がいるとは思えないのは、彼から感じられる胡散臭さからかもしれない。

 妙に専門家ぶっている男は専門家で、彼の話を真剣な表情で聞く人は一般人だ。どれだけ聞いても、“それだけの話”を聞いている時間は大変無駄だった。知識をため込めば色を取り戻せるわけではない、誰もが知っているはずなのに、色で失った隙間を何かで埋めたくて仕方が無いのだ。

《月の墜落から二年、現在も色覚喪失を訴える人は増加しています》

 原因不明の色覚障害が人々を襲う直前、浜南市-はまなみし-に月が落ちた。午前十時十分、時計屋に飾られた時計の時間を狙ったのは偶然か、まるで今の時刻を紛らわせるためかのように、その時間に月はやってきた。浜南市と周辺の街を更地にした月は、今も見つかっていない。月が落ちた街は瓦礫の山となり、色覚を失った者には砂漠に見えるという。生命の源のような砂漠だととある専門家は言った、その砂漠の下には、今も多くの命だったものが埋まっている。

 当初は精神的ショックから色覚に異常が出てきているのだと言われていた。それは、壊滅した街やそれに隣接する街、丘区に住んでいた者たちばかりが症状を訴えていたからだ。
 しかし、ラジオが教えてくれた通り、色覚異常を訴える人は増えている。それは、伝染するのだ。人から人へ、そして、街へ。皚々たる街と呼ばれる場所は、既に色を失っている。色覚正常者さえ、その街は白く見えるのだ。

 白月症-はくげつしょう-とは、誰が言ったのだろうか。
 色のない状態でも、昼間に見える白い月は以前と変わらない姿で見ることができるから、だそうだ。空を見上げるが、今は新月だった。落ちてきても尚、空には以前と変わらない丸いままの月が浮かんでいる。落ちてきたのは本当に月だったのかと疑われるが、どうやら落ちたのは月の一部らしい。
 けれど、落ちてきたはずの月を発見することは出来ていないから、落ちてきた月が空へと戻って行ったと言った方が、人類には良い気がする。次また落ちてくる可能性がある、日本人は危機感を持った方が良いのだ。

 肩に食い込むリュックの紐を持ち上げながら、有川浩の『塩の街』を思い出す。
「これを背負いながら東京を目指すのは、流石に馬鹿げている気がするな」
 そう独り言ちても、誰かが助けてくれるわけではない。
 バックパッカーは道で車に拾ってもらいながら旅をするが、この街では車どころか、もう人を見かけることすらなくなった。浜南市の隣である、ここ潮沼市-しおぬまし-も月の墜落の影響を存分に受け、ほとんどが更地となった。ほとんど、と言うのは、不思議なことに、丘区の一部は墜落前と同じような町並みを残しているのだ。

 丘区、僕が暮らす街。
 この辺りだけは当時と変わらない町並みで、星が綺麗に見える天文館もバラのトンネルが名物の植物園も、人がいなくなっただけで僕の知っている場所であることには変わりない。ただ、顔をあげれば、丘区を囲っていた山が消えている。空と地面の境目が平坦なのは、いかにも砂漠と感じられた。その現実感のなさが、逆に落ち着いていられたのだ。月の墜落で誰もがこの街を去ってしまった。

 こんな風になってしまったら、みんな、そりゃあ離れちまうよな。

 そう思えば、一人も耐えられたのだ。そういう理由があれば、仕方が無いと。何もなしに街を去っていくことがあれば、あの時の僕であればその人のことを二度と見たくないと思ったかもしれない。

 それなのに。
「依織、早く出よう、こんなとこ」
 腕を引っ張る晴臣は、簡単に振り払うことができた。反射的に、衝動的に、気づいたときには、僕は「誰が出るか」と言葉を吐き捨てて、晴臣に背を向けていた。待てという言葉は人混みに交じって、軽い両肩を何度も手で掃いて、誰もいない家の中でテレビを見ていた。見慣れた街から離れていく人の背中の中に、晴臣もいるのだろうけど、欠片も視界に入ってこなかった。
 もう、生きているのかどうかも分からないな、これじゃあ。

 思い出せば、今でも沸々と腹が沸いてくる感覚がある。
 第一声で、どうして街を出ようと言えたのか。生まれたときから暮らしてきた街はこうして残っているのに。離れてしまえば、砂漠となった他の街と同じじゃないか。人のいない街はどうしても前に進めない。そこだけ時間が切り取られたかのような静かな街では、息をするもの苦しくなる。

 だから、そんな街を置いて行くことができなかった。……のかもしれない。僕らだけが前に行けることを、ここから去れることを。僕らにはできて、街にはできない。人一人と比べれば何倍も大きな街は、場所を選べないから、砂漠の中で生き続けるしかない。人がいなくなれば、息をすることも苦しくなるというのに。息ができなければ、いずれ死んでしまう、何もかも。
 まだ青く見えていた空を見上げながら感じる穏やかな風だけが、街がまだ死んでいないことを教えてくれた。それだけで、十分だった。

 そう思い続けていれば、僕がずっとこの街で暮らし続けていただろう。ある日の夢に出てきた“月の遺産”はそんな僕を見て、けらけらと笑っていた。

 ──君しかいない街なんて、死んでいるも同然ね。

 月を呼んだ元凶、天の羽衣にも新婦が被るベールにも似たそれをひらりと空に泳がせる彼女は、僕が水に捨てたはずだった。僕が願ったものとは程遠く、醜く、腹黒い。闇と光の違いも区別できなくなった人間が作り出した偽物みたいで、見ていられなかった。何かを考える余裕もなかった僕には、それが月の遺産であると気付けなかった。

 だから、月が落ちてきたのだ。
 遺産を取り返しに来た月が地球にやってきた結果、白い砂漠が生まれた。遺産を捨てたことによる犠牲だと、歪に笑う彼女が言ったのだ。

 月を嘆き、月を憂い、月を弔え。人々はそうして街を去った。しかし、与えた最後の希望を踏みにじった君にその権利はない。ここで一人、死んだ街と同化していくのだ。

 けたけたと笑う声を振り払っても、それは霧のようにどこかしこから生まれてくる。鼓膜を振動させずに頭へ直接入り込んできたときには、気が狂いそうになった。お前が入ってきていい場所ではないのに。月の遺産ごときで。そんなことを口にすれば、僕はちゃんと砂漠の一部になれただろうか。

 この街から出なかったのは、この街を殺すことで、“君”と過ごした時間まで手放してしまうことになってしまうような気がしたからだ。夢で何度も出会った月は、この場所で眠ることで会うことができた。月はもう死んでしまったけれど、それでも、ここが思い出の場所であることには変わりない。

 月は一度、既に落ちていた。僕の夢の中で。
 死んでしまった月は一体どこへ行ったのだろうか。彼女は柔らかな笑みで僕を見た後、くすくすと笑ったのだ。「お顔」だなんて言い方、まるで子供みたいじゃないか。

 月を、探しに行こう。
 ふとそう思い立ったのがつい先日のこと。僕の視界が色鮮やかだったころにいたのは月だった。月を見つけることができれば、きっと僕は色を取り戻すことができるだろう。そして、街はこれからも息をし続けることができるようになる。
 夢で会っていた人を現実で探すなんて、まるで小説みたいだ。けれど、このまま街にいても死んでしまうだけなら、彼女を求めて体がぼろぼろになったって構わない。でもきっと、月は死んでいない。月は、彼女は、まだいるはずだから。根拠のない自信が、僕の足を強く進めさせる。


 君に似た、月であって月ではないもの。
 月の遺産が、笑っていた。けたけたと、それはそれは楽しそうに。




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