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【小説】君の花弁とぼくの足音


前話




 潮の匂いに足を速めると、一気に視界が広がった。

 ずっと南に歩き続けて、どれくらい経っただろうか。明確な目的地を決めないまま、ただ君の面影だけを探して歩いていた。

 南には海がある。家族とも、晴臣とも行ったことのある海だ。大きな海と小さな海があって、人は大きな海に集まる。大きな海には焼きそば屋があるし、浮き輪を貸してくれる店もあった。泳げないけれど海に来たがる晴臣は真っ先に浮き輪を腰に下ろして、いつでも遊べると準備満々の顔で僕を見ていた。この海に晴臣はいない。晴臣どころか、その海には誰もいないのだ。

 人が去った街の海は酷く閑散としている。砂浜に打ち付ける波の音は絶えず聞こえているが、それがより静けさを際立たせているようだ。

 僕が辿り着いたのは大きな海ではなく、小さな海だった。一度晴臣と来たことはあるけれど、その時は分厚い雲で覆われていて海は暗い灰色だった。帰り際に降ってきた雨が酷く冷たかったのは、冬が近かったからだ。失恋した晴臣を慰めるために訪れるにしては冷たすぎたかもしれないが、帰りの電車で、
「冬の砂って冷たいのな。夏は歩けないくらい熱いのに」
と、どこか嬉しそうに笑みを浮かべていた。夏のことを思い出しているのかと思いながら、たしかに、と一言だけ返す。電車の揺られる音だけが聞こえる場所で、同じ目的地を目指していた。電車だって、もう走っていない。

 大きな海からそれほど遠くない位置にある小さな海は、取り残されてしまった場所のように思えた。本当は一つだったけれど、地形の変化や浸食によって周囲の砂浜が削られてしまい、孤立してしまった小さな海。正確に言うならば小さな砂浜かもしれないが、ずっとそう呼んできた呼称を今更変える気にはなれなかった。もう、僕だけが分かればそれでいいから。

 ──私が死んだら、遺体は海に流してくれていいから。

 小さな海は誰にも見られないようにこじんまりとしているから、葬儀を行うにはぴったりかもしれない。夢の中から彼女を連れ出せれば、ここで弔うことが出来ただろう。

 人は昔海の中で暮らしていたから死んだら海に還す、という文化が根付いた地域の話をしてくれたことがある。

 月と名乗った彼女は、空から落ちてきたのであればぴったりな名前で、そういえば彼女が現れてからあの場所で月を見ていない気がする。そもそも夜に出歩くことがほとんどなかったから月を見ること自体少なかったのだが、夜、目を覚ますと海の底にいるような感覚に陥るのは、そういうことだと思う。

 彼女がしてくれたのは、彼女の故郷ではない何処かの話だと言う。月には海が無いから遺体を流せないよ、と妙に誇らしげな彼女は続けた。

「遺体には白装束を着せて、髪には灰を擦り込む。見た目が悪いと起きたときにびっくりするからちゃんと化粧をしてあげて。心臓が止まって十日後に海に流せば、死者は帰るべき場所に帰ることが出来るんだよ」

 ずっとここで生活しているのに知らなかったの? と付け加えた彼女の口角はきゅっと上がっていた。たまにいたずら気に笑う彼女を見ると、初めて来た時よりもよく笑うようになったと思う。

 暮らしていても知らないことはたくさんあるしなあ。彼女が言う〝ここ〟というのが一体どこのことを差しているのか、明確な答えが分からないうちはその話題を深堀りすることはできなさそうだ。そもそも、ここが地球なのかも分からない。

「イオリは、海、見たことある?」

 指先で水面に触れながら、ついでのように問うてくる。視線は下に向けられ、そこに何かあるのかと同じように視線を落とすが、空に浮かぶ雲が薄く反射しているだけで何も見えなかった。彼女が落ちてきたことで誕生したこの湖に、魚が生息できるはずはない。

「ねえ、イオリ?」
「あるよ。海」
 彼女の瞳が大きくなる。
「海だよね、見たことあるよ」
「嘘だ」
「なんで嘘を吐く必要があるの?」
「だってここに海は無いじゃない」

 じっと鋭い視線を向けられ、体が強張る。変に動きを取ると動揺していると取られかねないので、後ずさることが無くて良かった。

 何とか踏みとどまった地面に指先を食い込ませてから、「君が知らないだけだよ」と声を振り絞る。

「君はまだここに来たばかりだから知らないだろうけど、ちゃんと海はあるよ」
「ないわよ、私知ってるんだから。ずーっと森が続いているだけで、水なんて湖くらいしかないじゃない」
「君が知らない海があるんだよ」
「じゃあ連れて行ってよ、お暇でしょう?」

 えっと、と口に出すのも憚れるほど見つめられ、彼女の視線は月の光ほど優しくはなかった。
 夢の中で海を見たことは無かった。そもそも、村の人たちが〝海〟という単語を発しているのを聞いたことが無い。絵本に海の描写はあったので海自体は存在するのだろうが、人にとって身近な存在ではないのだろう。カナタは海を見たことが無いと言っていた。海に対してそれほど興味を持っているようにも見えなかったので、そもそも縁が無いのだろう。

 僕は夢を見ている時にこの場所に来ることが出来る、しかし、ここにいる人にとってこれは夢ではないのだ。下手に口にすると、僕は今夢を見ている状態であることがバレてしまいかねない。面倒を避けるためには、それを隠し通すことが賢明だろう。

 もし歩いて見に行くとすれば、どれほどの時間が掛かるのだろうか。どの方向にあるのかさえ分からない海に行くには、まず地図を手に入れるところから始めなければならない。

「また今度ね。今日はもう日が暮れる」
「じゃあ明日?」
「明日はカナタと予定が」
「じゃあその次」
「料理当番だ」
「いつなら空いてるの?」
 さあ、と首を傾げると、彼女は頬を膨らませていた。
「海に行くのには時間が掛かるから、簡単には連れていけないよ。相当大切な用事がないと」
「じゃあ私が死んだら、ちゃんと海に連れて行ってね。相当大切な用事、だよ」

 ──私が死んだら、遺体は海に流してくれていいから。
 結局彼女を海に連れて行ってはいない。相当大切な用事であっても、夢の中へ行くことが出来なければどうしようもないのだ。もうあの故郷に帰ることは出来ないし、彼女が僕の目の前に現れることも無い。どこに行ってしまったから分からない彼女の遺体は、海の藻屑にもなれないまま朽ちていくのだろうか。

 砂浜に足を落とす。小さく砂が擦れる音がするだけで、眠った彼女が目を覚ますには音が足りない。眠ったままでは海に入っても帰るべき場所へ帰ることができないから、その場所の砂浜には硝子が交じっているらしい。歩く度に音を立てて死者を起こすのだと言う。人が多ければ多いほど良いとされるので、参列者で埋め尽くされるのだ。

 彼女を起こさなければならないのに、ここでは起きてくれないかもしれない。それでは、彼女は帰ることができない。

「私が死んだときは、君一人でいいからね。帰る前に海の藻屑になった方が、みんな安心するでしょ」

 海の藻屑にすらなれない君は、この世界にいるのだろうか。




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