【小説】櫻の木の下に埋まる君
前話
「あの頃は、もっと」
その先の言葉は空気に溶けて、再度口にされることもなかった。
祖父の視線の先には、花を咲かせない桜の木が空に広がっている。数年前から花を咲かせることのなくなった花は、今年切り落とされる予定だ。それが決まって以降、祖父はいつも縁側に座っている。
桜の木は、曽祖父が生まれたときに植えられたものらしい。祖父も小さい頃は桜の木に登って遊んでいたらしいが、今はただ見つめているだけだ。
「おじいちゃん」
名前を呼べばゆっくりとこちらに顔を向ける祖父は、もう笑っていない。
「なんだ」桜を見つめていた視線は消えてしまった。氷のように冷たい視線は、濁った瞳のせいかもしれない。「馬鹿みたいな面下げやがって」
「ご飯できたよ」
祖父の言葉を無視して告げれば、しばらくきっと睨みつけられる。近眼と老眼なのに一切眼鏡を掛けようとしない祖父に眼鏡を贈っても、埃を被るだけだ。まだ小さい従弟は祖父を怖がっているが、いずれ慣れることだろう。
「そうめんならいらん」
そう言って昨日も何も食べなかった祖父は、再び桜に目を向ける。その時の視線はいつも僕たちを見つめる鋭いものではなく、垂れ目から優しさを感じられる柔らかいものだった。
半年前から食の細くなった祖父は徐々に体重を落とし、見れば分かるほどやせ細った。周りの人が心配の声を掛ければ余計に物を口にしなくなり、次第にそれを口にするのは禁句のようになった。
祖父が食べたくなった時に飯を用意する、無理やり食べさせることが出来ない僕たちには、それくらいしかできない。日に日にやせ細っていく祖父は次第にやつれ、一人で歩くことすらできなくなった日には、母は仕事を辞めた。辞めたのがちょうど春休みだったこともあり、毎日母がいるのが少し悔しかったことを覚えている。母がいなくとも祖父はいるのだけれど、祖父はほとんど布団に寝たきりだったので、なにをしても咎められることは無かっただろう。
母が買い物に行っている時、布団にいるばかりだった祖父が居間に入ってきて、泥棒かと思ってしまった。
「依織、裏庭を掃除しろ」
それだけ告げた祖父は、どうやらトイレのついでに声を掛けたようだった。
日の入らない裏庭は、建物と裏の林に挟まれているので薄暗い。夏の日に涼むにはぴったりだが、それでもわざわざここにいようとは思えないほど、何かが出そうで嫌だった。昔はバーベキューをここでしていたようだけれど、声をあげていた叔父が海外赴任してからはなくなったらしい。
草の生い茂った裏庭に足場はなく、作られた石の道も埋まってしまっている。どこに蛇がいてもおかしくないこの場所の、どこを掃除しろというのだろうか。孫に頼む手伝いとはとても思えない有様だ。林に続く道も埋まり、物置もしばらく使われていない。長年手の付けられていない裏庭は、もう庭とは呼べないほど裏の林と馴染んできている。
その中で目を惹いたのは、緑の中で咲く桜だった。小さな桜は生い茂る緑に半分埋もれていて、ただ白い花が咲いているのかと思った。よく見ればそれは桜で、表の庭にある桜の木よりも小さいものだから、桜だと思えなかった。桜の木は大きい、というイメージが焼き付いていたのだ。
「こんなところで咲いても誰にも見られないのに」
誰に言うでもなく、愚痴をこぼすように言う。
持ってきた鎌で草を刈り取って行く。根を残しておくとすぐに生えてきてしまうが、見栄えが少しでも変わっていれば文句は言われまい。そもそも、これを一日で綺麗にするのは無理だろう。
半分ほど草を刈り取ったあたりで、桜の木の下に行き当たった。僕の背丈よりも少し大きいくらいの桜の木と、目線が近い気がする。木に目なんてないのだが、目前に見える木の枝が、そんな気持ちにさせるのだ。
生えている雑草に隠れていた木の根元には、小さな木製看板が立てられていた。小学生が工作の時間に作ったようなサイズの木製看板は時間が経っているのか、端の木が朽ちていたり穴が開いていたりしている。木に彫られている文字も、そのせいでだいぶ読みにくくなっている。
「……、坂田、いおり」
彫られている文字を睨みつけながら、認識できたものを口にして、そこで気づいた。朽ちた木製看板に彫られていたのは、僕の名前だった。さらに端にも数字が掘られているように見えたが、流石にその数字までは読めなかった。しかし、なんとなくだが僕の誕生日な気がする。
掃除も途中で終えて祖父の部屋に入ると、妙に涼しい部屋で目を瞑っていた。声を掛ければ祖父は目を開き、静かにこちらを向く。
「後ろの木って、僕と同い年なの?」
「…………さくらか」
祖父は、優しい目で僕を見ていた。さくらは、祖母の名前だ。
帰ってきた母に聞けば、僕が生まれた年に植えられた桜の木で、祖父が植えてくれたらしい。名前の漢字が決まる前に植えたものだから、木製看板に彫られた名前はひらがなになってしまったらしく、「この家にいおりは一人しかいないから分かるだろう」と祖父は言ったという。
寝たきりの祖父の体調が少し良くなってきたころ、毎日縁側に座って日向ぼっこをする姿を見ることが多くなった。花を咲かせない桜の木を見上げる祖父の瞳は、だいぶ濁ってきている。
「おじいちゃん、ご飯持ってきたよ」
お盆に乗せた昼ごはんを横に置くが、目を向けることは無い。耳も遠くなっている傾向があり、もうそろそろかもしれないと家族は口をそろえていた。
同じように桜を見上げる。木の枝だけの木の向こうに見える青い空が美しい。ここに花が咲いていれば、もっと心惹く景色だっただろうに。
「裏庭の桜ってさ」返事がくるとは思わない。「僕と同い年だけどあんまり背丈変わらないんだね」
そう思っていたから、祖父の声は僕の耳を通り抜けていった。え、いま、なんて言った? そう聞き返しても祖父は何も言わず、箸を握ってご飯を口に運ぶ。ゆっくりと、言葉を噛み砕くように。もう何度聞き返しても口にすることができないように、執拗に咀嚼しているように思えた。
春が来た。そうしてその花びらが目の前をうろつくたびに、あの日の祖父の言葉を思い出そうとするけれど、どれだけ考えてもその先がはっきりと聞こえることは無い。そもそも聞いていない声なのだからいつまで経っても分かるはずはないのだけれど、心のどこかで聞こえるのではと思ってしまう。
「桜の木の下には、死体が埋まっているんだよ」
言葉の割に楽しげに話す彼女は、水面に浮かぶ桜の花びらを摘まみ上げた。どこからか舞い込んできた花弁は、湖を淡い色に染めていく。
「桜の木は死体から栄養を吸収して、美しく咲くんだよ。栄養を吸えば吸うほど大きく育つんだ、あの木とかね」
彼女の人差し指の先には、木々から頭一つ飛び出した桜の木があった。樹齢がどれほどなのか分からないほど太い幹を持つ桜の木には、毎年溢れるほどの花が咲く。
「そんな物騒なこと」
「あるわけない、って言いたげだね」言葉を被せた彼女はいたずら気に笑う。「でも実際、あの桜の木の近くには昔ヘムさんがいたんでしょう? もう亡くなったけれど」
「桜の木はヘムさんが亡くなる前から大きいよ」
「ヘムさんがそこで暮らしていたということはその前から人がいて、亡くなった人もいるだろう。彼らが土に還るとしたら、どこに埋められると思う? せっかくだから桜の木の近くにしようかって思わない?」
「家の近くには埋めたくないなあ」
そう言うと、「薄情者!」と吐き捨てるように言われた。薄情も何も本当のことを言っただけだ。実際墓は人里から少し離れた場所に作られることが多いから、僕の言っていることに頷く人は他にもいるはずだ。
「大きな桜の木の近くでは人間が暮らしていることが多いんだって。別に、私が埋めているわけではないから、それについて私に言及されても困るよ。君の方がよく分かるんじゃない? 大きな桜の木を思い出してみてよ。近くで誰かが亡くなっているだろう?」
一番に思い浮かんだのは、祖父の庭の桜の木だった。切り落としが決まっていた桜の木。寿命だったのか、それとも栄養が足りなかったのか。
もしかしたら、「死んだらここに埋めてくれ」なんてことを祖父は言ったのかもしれない。まさかとは思い続けているが、桜の季節になればふと思い出す。次第に、あの時のことを考えれば考えるほど、祖父がそう言っているように思えてきて、そうしてあげられなかったことを悔やむ自分がいた。
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