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【小説】月の告白に耳を背けて目を覚ます


前話





 落ちてきた月が破壊した土地の大きさはどれくらいなのだろう。白月症を恐れた人々が寄り付かなくなったため、その大きさは測られていない。いくつもの街を破壊したのだから並大抵のものではないだろう。平らな命の砂漠はどこまでも続いているように感じられるが、彼女と歩いていればその時間はあっという間に過ぎた。

「イオリが行きたい場所ってどこ?」
 隣を歩く彼女の方を見て、彼女は僕よりいくつも背が低いことに気づいた。
「どこだと思う?」
 すんなりと答えると思っていたのか、彼女は顔をきょとんとさせた。すぐに視線を空に向けてそうだなあと言葉にしたのち、「海外とか?」と言った。白い砂漠を反射して、彼女の瞳は鉱石のように輝いて見えた。
「月が落ちてきたことを知らない国はどう? そうすれば、誰にも怯えられることなく過ごせる。変な目でも見られないだろう」
「飛行機に乗せてもらえるかな。病気を持ってるのに。ここだけに留めておかないと、全員が色を失ってしまう」
「色が無くても覚えているから大丈夫って言ったのはイオリじゃなかった?」
「だからって、持っている人から奪うのは違うよ」
 彼女は少し口角をあげた。悪さを企む子供みたいな笑みを浮かべて、「意地悪だったね」と言う声は、少し上ずっていた。

 久しぶりに会った彼女と話したいことはたくさんあった。月が落ちて、みんないなくなって、君を待ち続けた二年間。君のことを考えなかった時間が無いとは言い切れないのは、君が僕を随分と待たせてしまったせいということにして許してくれないだろうか。
 彼女のいなかった時間の話をしていれば、白い砂漠は終わりを迎えた。随分と向こうにぽつぽつと建物が見え始めると、到着まではあっという間だった。そこには、僕がこれまで訪れた町々とは違って、多くの人が暮らしている。月が落ちる前と何ら変わりない街並みだ。砂漠とコンクリートの地面という境しかないのに、この一歩で何が違うというのだろうか。皆が恐れる砂漠との間に壁も無ければ、街の人たちは既に白月症にかかっている。だけれどこの一歩に、目には見えない大きな壁を乗り越えるほどの労力がかかっているように思えた。

 そんな街で暮らす彼らが驚いていたのは、僕たちが取り残された街からやってきたからだ。
「丘区にずっと住んでいたのかい」
 腰の曲がった老婆だけが声を掛けてくれた。しわだらけの顔で僕と彼女を見やるが、すぐに視線を落としてベンチに腰掛けてしまった。
「丘区に人がいただなんて。お前さんは神様か何かだろう。私たちを迎えに来たんだ。色を失って街は酷く冷たくなってしまった。もう次の冬を乗り越えられるか分からない。砂漠に近い街ほど物資も食料も届かず、体の肉を削って生き延びるしかない。とうとう迎えが来てしまった。どうか、連れて行くなら私一人にしておくれ」

 老婆はずっと俯いたままで、言葉を吐き捨てるようだった。抑揚のない言葉を紡ぐ声は掠れ、消えてしまいそうだ。
「故郷の丘区を捨てて来たものの、あの街が恋しくて一番近いこの街で暮らしてもう二年。二年も置いてけぼりにすればお怒りを買うだろう。どうか、どうか私だけにしておくれ」
 色素の抜けた髪が頭皮を隠すことはしない。俯いたままの老婆はぶつぶつと同じような言葉を並べ、許しを乞うた。老婆には一体どう見えているのだろう。二年間も街から出なかった僕はわがままな子供みたいなものなのに。
僕はしわくちゃの老婆の手を握った。けれどなんと声を掛けて良いのか分からず、言葉を探し続けた。僕は神様じゃない、まだ街で生活をしていただけの人だ。二年間も暮らしていただなんて言っても信じてもらえないかもしれないけれど。
 屈んで顔を上げると、俯いていた老婆の顔が見えた。薄く開かれた瞼の奥に、灰色がかった瞳が見える。潤んだ瞳は揺れて、目尻からしわに沿って滲み落ちていく。
「……あったかいねえ」
 老婆に掛ける言葉を見つけられないまま、僕たちは街を出た。ここではない、もっと離れた街に向かう必要がある。

「ねえ、イオリ。君はどこへ向かっているの?」
 隣を歩く彼女はしびれを切らしたように声を張った。一緒に行きたいところがあると言って歩き続け、日は二回昇って三回落ちた。辿り着いた街で借りることのできた部屋は一人用だったけれど、睡眠をとる必要のない自分がいれば一人分でも問題ないという彼女の言葉で宿泊を決めた。柔らかいベッドに体を倒すと、ゆっくりと瞼が落ちていく。体から力が抜けば、すぐに眠りにつけそうだ。
「そろそろ教えて貰わないと、私の機嫌が持たないかも」
「機嫌が悪くなったら、また月の遺産が落ちて来る?」
「次は街二つ三つでは済まないかもね」
 冗談風に言う彼女の瞳は笑っていたけれど、きっと彼女ならできないことは無いのかもしれない。僕にとっては特別な存在だけれど、他の誰かから見ればどこにでもいる一人の女の子だ。街を破壊出来るだなんて考え付くこともないだろう。

「結局、月の遺産とか、月とかって、なんなんだろう」
 富や金、権力もすべて手に入れることが出来る月の遺産と、街を破壊する月。月の遺産は月の欠片だと彼女は言ったけれど、だとしたら、月と月の遺産は同じものだということではないのだろうか。
「これはね、難しい話になる」
 視線を向けるとばちりと目が合った。小さく頷くと、彼女はその続きを教えてくれた。

「私が住んでいるのはイオリ達が言う月だし、私たちにとっても月だよ。でも月は、そこにいる一番偉い人の名前でもあるんだ。月は銀河系を練り歩いて全てを見てきた。行く先々で善を与えた月はある星では富を、ある星では力を受けた。それら全てを受け取った月が生み出したのが、あの場所なんだ」
 そう言って伸ばした人差し指の先には、欠けた月が浮かんでいる。
「月はそこに生命を宿し、組織を作り上げた。組織は月がいなくなった後もあの場所を守るために必要だった。私もそれの一部。あの場所に危険を及ぼそうとするものが現れたときに、撃退するための兵器だった」
「月の遺産は? 月の遺産と呼ばれていたあの人は誰なの?」
「あれは、正真正銘月の遺産だよ。月自身が宇宙の塵になってしまっても、かき集めた富や力が消えてしまわないように、それらを凝縮して生み出した命。月自身が塵になった今、月の遺産は月の代わりなんだ。決して死ぬことのない、月が遺したもの」
 富や力を受けた月が作り出した生命、それが月の遺産。自身が持っているものを使って生命を生み出す……、富や力を凝縮して命を生み出す仕組みは分からないが、そこを問えば今以上に難しい話になるのだろう。

「きっといつか理解できる日が来るよ。私だってこの話をすぐに理解できたわけじゃない。何日も何日も教え込まれてようやく覚えたんだから。それよりも、この話で私の質問をなかったことにされていないか心配だよ」

 月は今もわずかに瞬いている。月が明るく見えるのは太陽の光を反射しているからだが、彼女の話を聞いた後では、自ら発光しているのではと思えてしまう。
「別に逸らすつもりはなかったんだけど……。目的地はまだ分からない」
「分からない?」
「場所というよりも、人を探している。両親と、あと晴臣」
 今でも鮮明に思い出すことが出来る。依織、早く出よう、こんなとこ。はっきりとそう言った晴臣の声も、顔も、その腕を振り払った時に一瞬見えた感情も。

 あのあと皆はちゃんと街から出ることが出来たのだろうか。人混みに押しつぶされていないだろうか。命の砂漠で果ててしまっていないだろうか。僕らがその命を踏んでしまったと、誰も言わないだろうか。
「街に残り続ける理由は無くなったし。あの時は街に残ると意地を張って、心配をかけた。いろんなこと、謝りたくて」
「そういうことね。だったら、早く見つけないと。向こうも寂しがっているんじゃない?」
「どうだろう、もう僕のことなんて忘れてしまっているかもしれない」
「イオリが覚えているのに、向こうが覚えていないわけがないでしょう?」



 街を歩いて行く。緑が生い茂り、空まで伸びる建物が並ぶ。月が落ちて更地になった場所があるとは思えないほど、多くの人が行き交う街がそこにはあった。
 両親と晴臣を探すのは、昔庭にいた蟻を探すよりも難しい。まだ日本に居ればいいが、海外に出ていれば捜索範囲はぐっと大きくなる。街の隅から隅まで練り歩いたとしても、見つけられるかは分からない。途方もない時間が掛かる道のりでも、彼女がいてくれれば乗り越えられると思った。
 両親と晴臣が彼女を見れば、どう思うだろうか。彼女は一体、どう見えるだろうか。普通の女の子に見えても、特別な女の子に見えても、どちらでも僕は嬉しくなる気がしている。

「あんた、イオリっていうのかい」
 道を聞いた老人にそう聞かれ、僕は頷いた。彼女が呼んだ名前を聞いていたのだろう。老人は驚きと疑いの交じったような目で僕を見つめ、言いづらそうに口元に手を当てた。
「イオリっていう息子がいたやらどうのこうの言っていたような……でももう二年前のことになるし……」
 指に弾かれた声はくぐもっていたけれど、それだけで十分だった。どくりと跳ねた心臓の勢いのまま言葉を発する。
「それ! 教えてください!」
 二年前に引っ越してきた人たちがいる、二組の家族。一つは夫婦で、もう一つは夫婦と子供が一人。夫婦には子どもがいたが、月の墜落以降消息が分からなくなってしまった。丘区から来たという。
 間違いないと思った。隣にいた彼女と目を合わせれば、強く頷いてくれた。確信に変わり、老人から聞いた住所を目指す。向かう足は速くなる。隣を歩く彼女もそれに合わせてくれた。

 もし会えたら、一番に何を言うべきだろうか。再会に相応しい言葉をきっと考えるべきかもしれないけれど、頭の中を巡るのは月が落ちる以前の思い出ばかりだ。
 角を曲がった先に、家が二軒並んでいる。前から空き家になっていた場所を借りて入居したらしい。一つの家には車が停まっている。
 呼吸を整えようと大きく息を吸い込む。脈打っていた心臓はある一定までは静まったけれど、それ以上は落ち着かせられなかった。ぎりぎりごまかしの効く程度にまで落ち着かせて、家に向かう。
 話し声が聞こえる。門扉は少し開いており、その先に人影が見える。声の主を確認しようと顔を覗かせると、向こうも僕に気づいて、そして目が合った。

「……──依織?」

 ふと、転んでしまった僕に手を差し伸べてくれた晴臣の顔を、思い出した。他の子よりも背が小さくて追いかけっこで負けてばかりだった幼い頃、懸命に動かした足が絡んで転んでしまった。その時に一番に駆け寄って来てくれたのは晴臣だった。晴臣に続いて他の子も駆け寄って来てくれたけれど、他の子の表情を覚えていないくらい晴臣を見ていた。
 久しぶりに見た晴臣を見て子供のころを思い出すなんて、二年のうちに彼は幼くなってしまったかのようだ。わずかに変わった雰囲気は、染めていた髪色が黒く見えたたからだろうか。少し伸びた髪に癖は残っておらず、生まれたての子供のように柔らかく揺れていた。

 晴臣、と彼の名前を呼んだ。
 伸びてきた髪を切ることはあったけれど、視界をうろつく黒い線が邪魔だったからという理由だっただけで、整えようと思ったことは一度もなかった。部屋に籠っていた時は鏡を見て自分で切っていたけれど、一人になってからは鏡も見ずに髪を切ることばかりだった。今の姿は、かつての面影を少しでも残してくれているのだろうか。今になってそんな不安がよぎったが、そういえば彼は僕の名前を呼んでくれていたことを思い出した。
「依織……、依織、だよな?」
「……うん、そうだよ」
 晴臣の影に隠れていたもう一人の人物の顔が見えた。口元の手を当てて顔の半分は見えなかったけれど、その目と目が合って確信した。
 口元を隠す手は震えているように見えた。どこへ向けるべきか迷うように空をさまよった後、手の平の向こうで僕の名前を呼んだ。
「依織っ……」
 細めた瞳から涙が溢れ、手の平の隙間に消えていく。晴臣を押しのけ、門扉を勢いよく開けて、母さんは飛びついてきた。気づいた時には母さんの泣き声が耳元で聞こえてくる。髪がくすぐったかったけれど、振り払わずにそれを見ていた。ぼやけた髪の向こうに、晴臣が見える。

「いおりっ、いおり、良かった……ああ、ああ、生きてる、いおりだ」
 背中で感じる母さんの手は小さかった。二年で大きくなった母さんの体に押し倒されそうになったけれど、ずっと歩いて鍛えられた足で踏ん張る。シルエットが変わってしまった理由が僕である可能性を拭いきれないから、冗談でもからかって笑わせようとすることはできなかった。そもそも、冗談で人を笑わせられる僕ではなかった。
 どうしようかと迷っていた手を母さんの背中に回して、控えめに手を添える。
「……母さん、ただいま」
 母さんの心臓の音と共に高まっていく温度に、ずっと触れていたかった。歩き続けて疲れた身体から力が抜けていきそうだったけれど、まだ体を休める時ではない。

 僕を抱きしめていた母さんは何かに気づき、体を離した。隠し通すことのできるものではない。母さんは何度も僕の左側を触った。何度触っても、そこに左腕は無いのだ。
「……腕を、無くしたんだ」
「……どうして、そんな」
「大丈夫だよ、腕だけだから。他は何ともない」
「どうして、そんな。まさか、変なこと考えていたんじゃ」
 僕の二の腕を強く握る母さんはぐいと顔を近づけ、問い詰めるような勢いがあった。嘘を言わずに告げてしまえば、母さんを辛い思いにさせるだけだろう。違うと答えようとした時、声を被せてきたのは彼女だった。
「違います。依織さんは、私を助けるために海に飛び込んでくださったんです」
 彼女らしからぬ丁寧な言葉だった。凛とした声を放つ彼女は強いまなざしで母さんを見ていた。
「あなたは……?」
 今存在に気づいたらしい母さんに、彼女は躊躇うことなく答えた。
「依織さんとここまで一緒に来ました。ミヅキと言います」


 通されたリビングは、以前住んでいた家よりも広い。手つかずの空き家が綺麗な状態で見つけられたのは運が良かったと、コーヒーを出してくれた母さんが教えてくれた。
「ここは月が落ちた場所からは大分離れているけど、白月症を怖がって家を出て行った人がちらほらいるみたい。きっともう戻ってこないだろうからって、近所の人がここを勧めてくれたの」
 晴臣の家族と一緒に避難してきた母さんたちが目指していたのは知り合いの住むもっと遠くの街だったけれど、これ以上歩くこともできなくなったためここに決めたらしい。この二年間、この家の様子を見に来る人もいなかったので、ここで住み続けても問題は無いのだろう。

 コーヒーを出された彼女はそれを受け取ると、「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。ゆっくりと口につけると、それを流し込む。
「美味しいです、お母様が煎れられたんですか?」
「あら、分かるかしら」
 少し嬉しそうに口元を隠す。
「前にこの家に住んでいた人がコーヒー好きだったみたいで、色々残っていたの。捨てるのももったいないから使ってみたら、案外楽しくてね。ハマっちゃったわ」
 楽しそうに話す母さんとすぐに打ち解け、彼女──ミヅキと名乗った──は今日初めて会ったとは思えないほど会話を弾ませていた。

 母さんの隣に座った晴臣はコーヒーに砂糖とミルクをこれでもかと入れ、それを飲んでも尚苦そうに顔をしかめていた。それ以上いれると体に悪そうだと思いながらじっと見ていると、視線をあげた晴臣と目が合った。
「……動きづらいか? それ」
 指されたのは左腕だと気付く。
「いや、慣れればそんなことはない。リュックは少し背負いづらいしすぐにずれて来るけど、前で止めておけば問題ないし。……不便ではあるけど、動きづらさはないかな」
「腕が無くなっても生活に何の問題もないってことは無いもんな、さすがに」
 うん、とだけ発してコーヒーを飲む。きっと聞きたいことは山ほどあるはずだ。しかしそれを聞いてこないのは、晴臣の中でまだ受け止めきれていないものがあるのかもしれない。晴臣の中で、僕は生きていたのだろうか。

 母さんと彼女の話に区切りが付いたところで、母さんの視線は僕に向けられた。
「依織、ちゃんとご飯は食べてたの?」
 電源が落ちるように、母さんの顔から笑顔が消えた。真っ直ぐに向けられた視線は痛く鋭い。白髪の交じったような髪が気になったけれど、母さんの質問に答える。
「食べてたよ、なんとか。動かなければ一日一食で行けるし、お店にインスタント麺とかたくさんあったから、飢え死にはしなかった」
「それはちゃんと食べてるとは言わないよ」

 ため息を吐いた母さんはソファに体を預ける。大きな体をしっかりと包み込むソファは、母さんの形で少し凹んでいた。
「……色々聞きたいことはたくさんあるはずなのに、いざ戻ってくるとなんにも思い浮かばないわ。生きて会えただけで、それだけで安心するんだもの」
「……本当に、心配かけてごめん」
「ううん」母さんは首を横に振る。

「晴臣くんから聞いたの。連れて行こうとしたけど、連れて行けなかったって。依織は自分の意思で丘区に残ったんだって。月が近くに落ちてきて危険なのに、どうしてそんなに丘区に残りたかったのかは分からないけれど、逃げたくても逃げられなかったよりは良かったって思ったの」
 隣に座る晴臣は、じっと僕のことを見ていた。ねえ? と掛けられた声に晴臣は口を開く。「なんで残るんだろうって最初は思ったよ。次また何かが飛んできても可笑しくなかったのに、依織は街を離れたがらなかったから。皆が街から出ようとしてるのに、それを逆走して、依織が何を考えているのか分からなかった」
 今でも鮮明に思い出せる。腕を振り払った時の、晴臣の表情。
「これは依織の母さんにも言ってないけど、もしかしたらここで死んでも良いって思ってたんじゃないかって、思ったんだ。依織があの時何を考えていたかは分からないし、どれだけ重荷を抱えていたのかも知らない。でも、何か負担になるようなことがあって、それに押し潰されそうになっていたのなら、こういう行動に出ても可笑しくないのかなって……」

 真っ直ぐに向けられた晴臣の目が、きゅっと細くなる。弧を描いた晴臣の笑顔は、昔と何も変わっていない。
「でもこうして戻って来てくれたから、そんなことは無かったんだなって安心した。もちろん生きてたことにもな。帰って来てくれてありがとう、依織」
 隣にいる母も僕のことを見ていた。穏やかな笑みを浮かべる二人に見つめられ、胸が熱くなる。素直な子供ではなかった、暴言を吐くこともあった、話しかけられても無視をすることばかりだった。だからこんな風に帰りを待ってくれる人がいてくれたことを実感して、言葉が出なくなる。

 熱くなった胸に体が熱され、涙が溢れそうになった。それを懸命にこらえ、僕は頭を下げた。
「心配かけて、ごめんなさい」
 月が落ちる前も、月が落ちた後も、そして今も。与えられてばかりだった。

 学校に行けず、部屋に引きこもる日々。光なんて必要なくて、一日中遮光カーテンで包まれた部屋が僕の居場所だった。眠った夢の先にいた彼女が僕の光だと思っていた。強く輝く光を求めて、毎晩眠っていた。
 けれど、大切なものはもっと近くにもあった。扉の向こうから声が聞こえてくるのはいつも夕飯前だった。午後六時。昼寝をしていてもいつもその時間に目を覚ましていた。晴臣がやってくるのは部活を終えた後の午後八時。テレビもゲームも全てを消していたけれど、晴臣の声を聞いた後、すぐにゲームの電源を入れた。
 気づくことが出来たのは、彼女のおかげだ。彼女を待ち続け、探しに行き、そして見つけたあの時まで。行く先々で人々と出会い、巡る中で、僕はずっと一人ではなかったことに気づいたのだ。

「──あと、ずっとありがとう」
 言えなかった感謝を、伝えたかった。二人ともを抱きしめられる腕は無かったから、一人ずつ抱擁を交わした。一度も交わしたことのなかった母さんと晴臣の体が、こんなにも大きくて、温かいことを初めて知った。離れていく温もりを惜しく感じながら二人と向き合う。頬を濡らす母と、笑みを浮かべる晴臣、久しぶりに会った二人は、何も変わっていなかった。変わらず僕と向き合ってくれる。

「依織が帰ってきたから、お父さんにも連絡を入れておかないとね」
「そういえば、父さん見ないね。仕事?」
「ええ、そうよ。──月災害の復興作業に」
 彼女を探す中で色んな街を見てきた僕には、その内容をするりと理解することが出来た。
 月が落ちたことにより、浜南市周辺は壊滅的な姿となったが、被害を受けたのはそれらではない。月の墜落と共に現れた色覚異常を発症させる白月症。人は色覚を失い、街は自身の色を失う。白月症に感染した街からは人が消え、患った人々は病人扱いされるようになった。そんな街や人を救済するために立ち上げられた団体に父さんは所属し、各地を飛び回っているそうだ。

「丘区は立入禁止区域になっているから、それ以外の場所を回っているの。白月症の感染は止まらないけれど、罹ったことで差別されることが無いようにがんばっているのよ」

 部屋に引きこもるようになってから、父さんの声を聞くことはぐんと減った。父さんは毎日僕に声を掛けに来ることはしなかったから。普段からあまり話さない物静かな人だったというのもあるかもしれない。最後に見た父さんは、母さんの手を握って街から逃げ出しているところ。あの細い体では人波に揉まれてしまわないだろうかと思った記憶がある。
「半年に一回は帰ってくるから、次は来月かしらね。お父さん、帰ってきたらどんな顔するかしら」

 二階には三つ部屋があり、好きな部屋を使ってよいと案内された。
「ミヅキちゃんも来てくれてありがとう。依織一人だったらここには来てくれなかったかもしれないから」
「いえ、私は何も」
 謙遜する彼女は彼女らしくなかったが、何も言わなかった。荷物を置くために部屋に入る前、「じゃ」と向けられた声もまだ彼女のものではなかった。目の前にいるのは僕だけなのに、なんだか余所行きのような気がして少し寂しくなった。

 ここまで歩いてくるのは疲れたでしょうと、温かいお風呂と食事を用意してくれた。久しぶりに食べる母さんのご飯に懐かしいと感じるほど、時間は経っているのだと改めて思った。
 布団に入ると体が沈み、すぐに眠りにつけそうだった。疲れた身体が綺麗にされている布団の匂いに包まれて、温かさが身に染みる。これからずっと母さんと晴臣の近くで過ごしていけたら、あの頃の暮らし以上のものが戻ってくるのだ。部屋から出られる僕は、今の僕の姿で、この暖かさにずっと浸っていたかった。

 ここに来る前から決めていたことがある。両親と晴臣を見つけたら、また街を離れること。皆の顔を確認できればそれで良かった。迷惑をかけてばかりだった僕が、一緒に暮らして良いとは思えないのだ。自分の意思で街に残り、心配をかけ続けた。母さんたちは歓迎してくれるかもしれないけれど、それでは僕が納得できないのだ。
 彼女が一緒に居てくれるから、もう弱虫の僕ではない。母さんや晴臣は僕を大事にしてくれた、そうしていないと消えてしまいそうだと思われていたのだろう。けれど僕は大事にしたい人を見つけ、その人と一緒に居たいと思った。母さんや晴臣がくれた優しさを、今度は僕があげる番になりたいのだ。二人に返して恩返しすることは出来ないけれど、僕の意志は固まっていたから。


「ずっと一緒にいたら喜んでくれるんじゃないの? なのにどうして、すぐに帰るだなんて」
 数日だけの滞在にすると彼女に伝えたのは、ここに到着する二日前だった。
「なんというか、やっぱり、居ずらくなるかなと思って……。街に残ったのは僕の意志だし、今更帰ってきたらやっぱり一人では無理だったかって呆れられそうで……」
「そんなことないでしょう、むしろ二年間の間生きていてくれて良かった! ってなるのが普通じゃないの?」
「そうかもしれないけど……、でも、正直なところ、あまり期待したくないんだ。期待しすぎると、期待通りじゃなかったときに辛くなるから。一緒に暮らすのには、まだ時間が掛かると思う」
「だったら余計に、一緒に居た方が良いんじゃないの?」
「それはそうなんだけどね、……それ以上に、色んなところに行きたいって思うんだ。ようやく部屋から出られたから。今じゃないといけない場所があるだろうから」



 身支度を整えて階下に降りると、キッチンから物音が聞こえてくる。皿と皿が重なる音は、部屋に引きこもっていた時のことを思い出す。誰とも顔を合わせたくなかった時、トイレに行くのは深夜だけだった。たまにふと気づいて朝方にトイレに向かうと、まだ日も昇っていない時間帯なのに、キッチンの方から音が聞こえてきた。誰もいないと思っていた僕は驚いて、ゆっくりと音の方へ顔を覗かせる。僕が食べた後の夕飯の片づけをしてくれる母さんは少しだけ笑みを浮かべているように見えて、こそこそと部屋から出てきている自分に恥ずかしくなった。
 素直になれれば良かったのに、僕は部屋から出られなかった。けれど今日は、迷うことなく扉を開けられた。扉がこんなにも軽かったことを知った。

「おはよう、母さん」
「あら依織、おはよう。早いのね」
「……うん」
 今日にも家を出る予定だと早く伝えるべきだと思ったけれど、母さんの穏やかな表情を見て喉が詰まる。後に回せば回すほど言い出しづらくなってしまうのは分かっているから、わざと咳をしてから勢いを殺さないまま、「母さん、今日もう出るよ」と言った。
 穏やかだった母さんの表情が、すぐに曇っていく。
 遅れて階段を下りてきたのが誰なのかは振り返らずとも分かった。よいしょと声を漏らした彼女は荷物を玄関に置くと、「おはようございます」と言ってリビングに入ってきて、母さんの表情を見て足を止めた。目が合った彼女に小さく頷くと、彼女は理解したように目を伏せた。

「……え、出るって、どういうこと?」
 ゆっくりと母さんの口から出てきた言葉は途切れ途切れだ。平然を装おうとしているように見えたけれど、母さんの言葉は震えている。
「その荷物は、何? あの部屋、使っていいのよ……?」
「ありがとう、やっぱり布団で寝るのって大事だね、体が楽になった」一息ついて。「……ただ、長くはいないって決めていたから」
 開けたままの口を強く結び、溢れそうになるものを必死にこらえる母さんの表情は、見てはいけないもののような気がした。見たくなかった、というのが正しいのかもしれない。
「……気を遣っているの? 部屋は空いているから、いてもいいのよ」
「うん……でも、僕は、外にいたいんだ。ようやく外に出られたから。これまで見れなかった分、いろんな場所に行って、いろんな世界を見たい」

 たとえ色を失ってしまっても、外の世界は明るくて広い。ようやく踏み出すことが出来た世界は、もう二度とあの暗い部屋に帰りたいと思わせないほど僕を惹きつける。そして、きっとここが、僕が憧れ続けた場所なのだと気付いた。

「……僕はずっと部屋に引きこもっていた。母さんが話しかけても返事しなかったし、晴臣が来てくれても相手にしなかった。月が落ちて、丘区だけが残って。正直、ずっと部屋にいた時間は楽しくなんかなかったけど、あの街が無くなるのは嫌だったんだ。どうせ僕は生きていても何の価値もない。迷惑や心配をかけてばかりのどうしようもないクズだと言われても否定できない。僕一人だけでも残って、街を生かし続けたいと思ったんだ。街はすごく静かだったよ。ご飯を用意してくれる人もいないし、話しかけてくれる人もいない。その時になって、母さんや晴臣の優しさを知ったんだ。それから僕は人を探すために色んな街を訪れて、同じように街に残っている人に会ってきた。失くしたものは大きいけれど、その分気付いたこともあった。母さんと晴臣の存在があったから、僕はここまで会いに来られたんだ」

 昔の僕では辿り着けなかった思いを重ねていく。あの時に気づかなくて良かった。もしかしたら、当時捻くれていた僕は何もできない出来損ないだと言って余計に抜け出せなくなっていたかもしれないから。
 月が落ちてきたことで、怖くて出られなかった外は、月が落ちてきた異常の街に変わった。誰もが平然と歩いていた道路も、当たり前に見てきた風景もすべて変わり果て、「僕だけが怖かった外」は「誰にとっても恐ろしい場所」になったのだ。
 立っている場所が同じになった。街を離れていく人々を見て、途端に恐ろしくなったのは、この街から人がいなくなってしまうことだった。いなくなってしまった彼女を待っていた僕にとって、街から離れることはしたくなかった。

「僕はもう大丈夫だって伝えたくて。部屋に籠っていた僕はもういないんだって」
 話している間に母さんはついに涙を流してしまったけれど、話し終えた僕に母さんが向けたのはこれでもかという歪な笑顔だった。
「……そう。なら、良かった」
 握りしめたエプロンには深いしわが入っている。小さく震える体を押さえるように俯いたとき、透明な雫がフローリングへ落ちていった。
「……帰って来てくれただけで十分だもの。会いに来てくれてありがとう、本当に、依織がいてくれるだけで、良かっ……」
 母の言葉は、嗚咽に変わる。口を手で押さえているけれど、その声が掻き消されることは無い。溢れる涙は指を伝って隙間から染み込み、母さんの声がわずかにおぼれたように聞こえる。
「……元気でいてくれたら、それでいいのよ。いいの。いてくれるだけで、嬉しいの……」
 ゆっくりと膝から崩れていった母さんに駆け寄ると、濡れた手が僕の腕を掴んだ。無い腕をかすめた時、母さんの体がぴくりと止まったが、一瞬のことだった。
「母さん、ごめん。何も返せない僕で、ごめん……。また会いに来るから、絶対に」
「……うん……いつでも、いつでも待っているから……。いつでも帰って来てね……」

 部屋から出てこなかった時間、月が落ちてからみんなと一緒に居なかった時間、それは二年どころではない。その間にできた隙間や障壁を乗り越えるには、時間が掛かるだろう。今は、それを乗り越える時ではない。ゆっくりと時間をかけて、母さんと向き合うべきだと思った。急に一緒に居るんじゃなくて、少しずつ、少しずつ、互いの心が驚かないように。

 家を出ると、門扉には晴臣が立っていた。母さんの泣く声が聞こえ、中には入ってこなかったらしい。
「もうちょっといればいいのに」
「……うん、でも、自分でちゃんと歩かなきゃって思うから。母さんや晴臣に甘えてしまうと、また家から出なくなっちゃうかもしれないし」
 笑い交じりに言ってみたけれど、晴臣は静かに僕を見つめているだけだった。痒くもない後頭部を掻いて、挨拶でもしようと思っていると、晴臣は「あーあ」と声をあげた。門扉が揺れて軋む。
「見ないうちに変わったな、依織。彼女まで連れて帰って来て、追い越された気分だ」
「彼女じゃないよ」
「へーへーそうですか」
 楽しげに口角をあげたあと、門扉を開いて手のひらを伸ばす。その姿は主人を見送る執事のように見えた。
「会いに来るなんて言うな。また帰って来いよ。その時までに、話したい事たくさん用意しておくから」
 たまに言葉は本心を見せてしまう。まだ受け止めきれない今を愛おしいと思える日が来るまで、僕はこの場所を訪れるだろう。
「うん、ありがとう」
 手のひらを叩くと、乾いた音がした。



 白月症はついに僕を食べきった。白黒の風景は水墨画のようだったけれど、滲んでいても掠れていても、記憶を巡れば色鮮やかな風景に補完することが出来た。
 あの花はピンクで、あの犬は黒色、あの人の髪は青色だ。
 いいえ、紫色の花と茶色の犬と黒色の髪よ。
 色は全て彼女が教えてくれた。母さんの髪が実は、艶のある黒に金色のメッシュが入っていたのだということも、彼女が教えてくれた。随分とお洒落なお母さんねと笑った彼女を見て、白髪が交じっていると思ったのは僕の思い込みだったことに気づいた。

「そういえば、どうしてミヅキだと名乗ったの?」
「名前があった方が良いでしょう? ツキって入ってるから私らしいかと思って」

 月は空から落ちてきた。けれどそれが人の姿をした女の子だというのは、嘘かもしれない。
 眠りについたときに訪れることのできる小さな夢の村。現実世界を窮屈と感じている者が辿り着く場所なのであれば、月は現実世界ではどこにいたのだろうか。教えていないはずのミヅキと同じ名前を名乗った彼女が、もしかしたら夢の村の月なのだろうか──そう考えたけれど、それ以上は考えなかった。だって彼女は、ミヅキと似ても似つかないから。

「ねえ、依織。この後はどこを目指すの? 依織が行くところなら、私、どこまでもついて行ってあげるわ」


 もう夢を見なくても、月が見える。



めくるめく季節の淡夢  Fin.

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