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【小説】潮騒と残滓に苛まれる季


前話





 ただ、真っ直ぐな道が伸びていた。まだ残っている僕の足跡を辿って歩いて行けば、いずれ街に着く。月が落ちて出来上がった大きな砂漠の下には、まだ見つかっていない多くの命が埋まっている。手の付けられていない今、それらが回収されることは無いのだろう。

 人から人へ移り行く感染症、白月症。あらゆるものの色を認識できなくなる病を恐れ、丘区を中心にして人は外へと消えていってしまった。
 誰も、色を失いたくなかった。鮮やかな世界を手放したくなかった。それは至極当たり前の考えで、両親も晴臣も、今はずっと遠くの街へ逃げている事だろう。

 けれど僕は今、丘区へ向かっている。
 ずっと探している人がいる。彼女が何処にいるのかは分からない。人がいなくなった街を訪れたり、記憶の中を巡ったり、海の中を見てみたりもしたけれど、どこにも彼女はいなかった。

 彼女は、月だった。空から落ちてきて街を破壊した月が、彼女なのだ。
 街を出てから、白月症は僕の体を蝕んでいき、白と黒の世界が広がるようになった。目の前の砂漠だって本当は、赤レンガや茶色の壁で色づいているのかもしれない。白いだけのそれらが元は立派な街だったなんて、白月症の人にはもうわからなくなってしまった。
 けれどもそれが、僕の足を止める理由にはならない。

 久しぶりに帰ってきた街は静かで、僕の帰還を迎えてくれるものは何もいない。建物に草が覆いかぶさってしまえば少しは街の変化を感じられたのに、月の落下で草木は消滅してしまった。時が止まったように残り続けている街並みは、帰ってきた僕をどんな目で見ているのだろうか。

 挨拶をしても、帰ってくる言葉はない。彼女を探すために街を出てようやく帰ってきたと思えば、持ち帰ったものは何もない。むしろ片腕を失った。色も見えなくなった。得られたものなど一つもなかった。そんな僕を、街はどういう気持ちで迎え入れるのだろうか。

 静かな街は、僕の知らない街のように見えた。色を失ったからだ。明るい色の壁も、眩しいような空も、街を照らす太陽も、白黒テレビを見ているかのように現実味が無い。水墨画のように滲んでしまっていないのが唯一の救いだ。まだはっきりと見える線を睨みつけて、かつて見えていた色を思い浮かべる。大丈夫、まだ見えている。
 そうやって、ゆっくりと街に色付けをしていく。

 誰もいなかった家の廊下には埃一つ溜まっていなかった。誰もいなかったからなのか、それとも消えたくない街が掃除してくれていたのか、僕は後者の方が良いと思った。
 何も変わっていない部屋に少しだけ心が揺れる。ソファの位置、残された食材、カーテンの開け具合、少しでも変わっていれば彼女がここに来ていた証になるのに。位置が変わっていて怖いだなんてことは少しも思わない、この際幽霊でも何でも構わないから。そう期待しても、どうやら彼女は何もしてくれないらしい。

 ここに来るまでずっと考えていたことがある。もし彼女が月の墜落と一緒にこの地球に落ちてきたのであれば、一体どこに隠れるのだろうか、と。たとえ僕が彼女のことを待っていたとしても、地球が自分を受け入れてくれるだろうかと心配していた彼女がすいすいと姿を現すだろうか。世界から取り残されたと言い放った彼女が、僕の言葉一つで、植え付けられた言葉を簡単に抜き取ることが出来るのだろうか。僕の言葉に安心できるような力があれば良かったのだが、とてもそんな影響力のあるものではないと分かっている。

 一つだけ、彼女が隠れる場所に心当たりがあった。誰もいない場所。地球ほど大きくなくて、でも同じ人間が生活していて、静かな場所。僕と彼女が出会った夢の村。もう何年も前に行けなくなってしまったその場所に、彼女がいる気がしてならなかった。

 現実から逃れられる唯一の場所が、夢の世界だった。毎日そこに逃げ込んでは静かに暮らして、幼馴染と一緒に遊んでいた。難しい勉強も、嫌いなものを食べろと言う大人もそこにはいない。僕はその場所を、一番素直に生きられる場所だと思っていた。
 その場所に月が落ちてきたことで、ぼくの居場所は一変した。突然現れた彼女と話していくうちに、僕の居場所は彼女がいてこそになったのだ。彼女がいる場所が、僕の落ち着ける場所になってしまった。

 彼女が月に帰ってしまえば、そこはただの夢の中に過ぎなくなる。見ては消えていく儚い夢、自由に話すことを許されない夢と同じなのだ。
 つまり僕が夢の村に行けなくなったのは、拠り所だった彼女がいなくなってしまったからだと推測した。
 もし彼女がそこにいるのであれば、僕はまたあの場所で彼女に会える気がした。もう行けないと思っていたあの場所を強く思って、瞼を閉じる。僕が過ごした小さな村、林を抜けた先にある大きな湖、その中心に彼女がいるはずだ。



 いつの間にか聞こえ出していた鳥の声を探して、瞼を開ける。明るさに慣れず白いだけの世界は徐々に姿を現してくる。霧が晴れるように視界が鮮明になっていく。
 目の前には、久しく見ていなかったあの湖があった。風で波打つ水面を追って視線をあげれば、湖の中央に浮かんでいる小さな島が見える。彼女はいつもそこで座って僕を迎えてくれたけれど、今その場所に彼女はいなかった。

 辺りを見回せば、ここが確かに夢の中だと分かった。久しぶりに見た湖は変わらずに存在していた。頬をつねってみたけれど痛みはあり、これが嘘ではないことを教えてくれる。

 夢だけど、夢じゃない。僕の意識と痛覚が現実と同じように存在する場所。かつての僕の居場所であり、心の拠り所だった。彼女がいなくなってしまったあの日から僕はこの場所に来れていなかったが、僕以外の誰かは変わらずこの村で過ごしているのだろうか。

 ここは、僕だけが見ている夢なのだと思っていた。誰もが眠っている時に見る夢だとしたら、僕が見ている夢に他の人が入ってくることは出来ないはずだし、彼らに意思が生まれるはずがないのだ。けれど村で共に過ごしていた幼馴染は決して僕の幻想ではなくて、カナタという少年は現実に存在していた。眠ることで共通の夢を見て、この村で出会い、同じ時間を過ごしていたのだ。
 この場所はもしかしたら、現実世界で居場所を見失っている人が辿り着く場所なのかもしれない。両親に見捨てられたカナタは寂しさを埋めるために、夢を通してここにやってきた。一体何が、僕やカナタをここに惹きつけたのだろうか。そして、どうしてこの休息の地に、月が落ちてきたのだろうか。

 彼女がいないことを確認してから、大きく息を吸い込んだ。
 彼女を呼ぶ。
 森の木々の隙間を通り、声がすり抜けていく感覚がする。まるで声に僕の意識が乗っているようだ。だからだろうか、この森の向こうに彼女がいると直感で分かった。

 一瞬だけ見えた森の奥の風景、眩しいほどに輝く海と砂浜が広がるその場所は、彼女が教えてくれた場所によく似ていた。
 死者を海へ送る砂浜。その場所では死者を海へ還すのだが、ちゃんと還るべき場所へ向かうには、死者を起こす必要がある。そのために、死者を送るものたちは、硝子を交らせた砂浜を歩くのだ。森の先にある砂浜が眩しいのは、きっとそこにガラスが交じっているからだと思った。

 気づけば僕の足は動き出していた。湖には目もくれず、海を目指して森を走る。僕は彼女に会うために湖に来たけれど、そこに彼女がいなければ湖に興味はない。靴は履いていなかった、お構いなしに森を駆けた。枝が足に刺さって痛んだが、足を止めた一瞬のうちに彼女が消えてしまうかもしれないと思うと、悠長に止まってなんかいられなかった。
 今を逃せば、もう二度と彼女には会えないかもしれない。もう後悔なんてしたくなかったから。

 先に見えた光が大きくなり、僕を包み込んだ。目を刺すような白にまた辺りは見えなくなってしまったけれど、そこに立つ一人の人物の姿をはっきりと認めることが出来た。

 久しぶりに見た君は、半透明だった。まるで君は既に死んでいて、幽霊になって僕の前に現れたかのように思われて、胸がざわついた。
 海を見つめていた彼女と、ゆっくりと視線が交わる。唇が優しく弧を描いたのを見て、彼女が生きていることに安堵した。

 ようやく見つけた。ずっと探していた彼女が、目の前にいる。
 ここは彼女が教えてくれた砂浜に似ているけれど、歩いてもしゃりしゃりと鳴くことは無かった。わずかに音が聞こえるだけで、砂浜を歩いても足裏が痛むことは無い。

「ねえ」
 そう声を掛けると、彼女はきゅっと口角をあげた。
「ねえ」
 笑みを濃くした彼女に歩み寄る。
「ねえ」
 風が髪をなびかせると、懐かしい匂いを運んできた。

「ねえ、君の声を聞かせて」

 ずっと、君の声が聞きたかった。君を探して、君の声を求めて、またあの時のように、僕のことを笑ってくれたって構わない。たった一言で救われる心があることを、僕は知っている。どうか、どうか。君が幽霊ではないことを、君の言葉で証明してくれないだろうか。
 どこよりも色鮮やかで、眩しい世界で、君の声を聞きたかった。白は輝き、黒は淡み、潮の匂いが僕たちを包み込む。

「──馬鹿だね、君は」
 久しぶりに聞いた彼女の声は優しくて、温かかった。言葉はともかく、彼女の言葉はすとんと心の底まで落ちて、枯れた湖を簡単に潤していく。
「……ようやく、ようやく会えた。ずっと探していたんだ」
「知っているよ、見ていたからね。どれくらい私のことを探していたんだっけ」
「探し始めたのはまだ数カ月の話だよ。でも、月が落ちたあの日から、君のことをずっと待っていた」
 彼女は少し言葉を詰まらせると、それを取り除くように笑って見せた。
「ごめんね、約束、守れなくて」
 絞り出したような声と一緒に、彼女の表情が曇っていく。決してそんな顔をさせたかったわけではなかったから、心が強く締め付けられるのを避けることが出来なかった。そんなに待っているなんて律儀なものだね、そう笑ってくれれば良かったのに。彼女は僕の言葉をまっすぐに受け止めてしまった。

「やっぱり、警備が厳しくて抜け出すことが出来なかったんだ。抜け出そうとすればすぐに捕まってしまって、全然隙が無い。まあ最初から抜け出せるだなんて思ってはいなかったんだけどね。イオリには申し訳ないけれど」
「君なら守ってくれると、信じていたから」
「期待に答えられなくてごめんね」
「そんなことない。君はちゃんと、地球に落ちて来てくれたじゃないか」
 僕以外の街を破壊した月。それは彼女以外の何物でもない。
「僕の街だけが被害を受けなかったのは、君が、そこに僕がいると知っていたからなんでしょう。そうじゃないと、あんなに綺麗に僕の街だけが残されるものか。月が落ちてきたときすぐに分かったよ。君が約束を守ってくれたんだって。だから、ずっと待っていたんだ」

 じっと見つめる彼女の瞳に色は無かった。青でも、黄でも、赤でもない。無色というのが一番近い気がしている。白月症を患った僕に今、それが正しい認識かなんて分からないけれど、今の彼女には無色が一番合っていると思った。だってこんなにも、彼女が何を考えているのか分からないから。
「どこにも行かず、あの場所でずっと待っていた。絶対に君が来てくれると信じていたから。君はふらっと現れて、挨拶をするような気軽さで僕の名前を呼んでくれるって、そう思っていたからずっと待っていたんだ。でも、君は全然来てくれなかった。ずっと待っていたのに。二年間も待っていたんだ」

 言うつもりのなかった言葉が、次々と口からこぼれていく。念願の再会で彼女に伝えたいことはたくさんあったはずなのに。君を探して色んな街を歩いたこと、残された人々に出会ったこと、遂には片腕を無くしたこと。でもそれらは決して無駄ではなかった。それらがあったからこの場所に来ることが出来て、彼女を見つけることが出来たのに。それでも言葉になるのは、彼女を責めるような言葉ばかりだ。
 心の底で僕は、彼女を恨んでいたのだろうか。

「何度眠ってもこの場所には来れなかった。いろんなものを失ってからここだと気付かせて連れて来るなんて、まるで僕で遊んでいるみたいじゃないか。いつ気付くだろうかと、君は笑いながら僕を見ていたの? 僕はずっと君は探していたのに、君は決して、僕に会いたいとは思っていてくれてなかったの?」
「そういうわけじゃない」
 飛び出した矢が喉に刺さったような衝撃だった。溢れようとしていた言葉が、矢につっかえて渋滞を起こしている。
 分かっていたはずなのに、彼女の言葉がないと信じられないのだろうか。
「そんな簡単に、出られるわけが無いよ。やァこんにちはって。……月から抜け出すってそんな簡単なことじゃないから。小さい頃からずっと月という檻に閉じ込められて、窓から見える青い星を眺めていることしかできなかった。あれは何と聞いても教えてくれる人はいなかったし、お前はそんなものを見るんじゃないと窓を閉められることもあった。それが何なのかは分からなかったけれど、初めてそれを見た時、綺麗だと思った。暗闇の中でも、眠ろうとしても、ずっと頭の中に残り続けていた青い星。どれだけ酷い仕打ちを受けても、青い星を思い出すだけですべてどうでもよく感じられた。それをずっと見ていられるのなら、どこでなにがどうなっても良かった。体が千切れても、穴が空いても。大きくなってからそれが脅威の星だと教えられても、美しい星だということは変わらなかった」

 風になびく髪に目もくれず、僕の視線は彼女の瞳に吸い込まれていた。水よりも透明で、闇よりも深かった。

「君には分かる? 希望を破壊しろと言われた私の気持ちが。私はずっとセナセを──地球を壊すためだけに育てられた兵器だったんだよ。地球への憧れも、それを見ていたいが為に耐えてきた痛みも、全部無駄だった。私が我慢してきたせいで、憧れは消えてしまう。私のせいで。私が、壊すから」
 何かを思い出すように視線をあげて、ぽつぽつと言葉を落としていく。同じように視線を向ければ、空には月が浮かんでいた。朝に見られる白い月。
「私は確かに君と約束をした。君の元へ向かうと。でも、私が地球に来るということがどういうことか、分かっていたの? 分かっていなかったから、街が破壊されたんだ。家族も友人もみんないなくなって、独りぼっちになってしまった。知らなかったんだよね? 私が静かに地球に落ちて来るって、能天気な脳で考えていたんでしょう?」

 彼女は奥歯を噛み締めていた。歯の隙間から息を吐き出しては吸い込み、堪えるように見開いていた瞳をぎゅっとすぼめる。それは酷く苦しそうに見えたのに僕の目を惹きつけるばかりで、気の利いた言葉一つ吐き出させてくれない。

「これが精いっぱいだったんだ。イオリの街だけを破壊しないことだけが。月の遺産の言葉で私は月から地球へと落ちてきた。君が住んでいる丘区めがけて。進路はどうあがいても変えられない。月の遺産の言葉は絶対だから、言ったよね、月の遺産を手にすれば全てを手に入れたも同然だって。その言葉の通り、月の遺産自身も強い力を持っている。誰であろうとも逆らうことは出来ない。だから私は、丘区に落ちるしかなかった。威力を最小限に抑え込んで、丘区を、イオリが暮らしてきた街を守ることだけが、私にできる最大の反抗だった。それを聞いても、私は君に会いたいと思っていなかったって、まだ思う?」
「……君を責めたいわけじゃなかったんだ。君なら約束を守ってくれると思っていた、だから、裏切られたことが悲しくて。……ごめん」
「どんな顔で君に会えばよかったのかな」

 お互いにどこかへ投げ捨てるような言葉だった。視線は合わず、どこか気まずさを覚えた。どの言葉を彼女に送るべきか頭を巡らせたけれど、真っ白な言葉がぐるぐると回るだけだ。

「イオリが言ってくれた言葉、嬉しかったんだ。地球に来てほしいって、言ってくれたこと。月では兵器として育てられて、誰も優しさなんて向けてくれなかったから。温かいと思った。イオリがいる場所にいたいと思った。抜け出すならついでに、月にできる限りの報復をして困らせてやろうって考えて、月が所有する月の遺産を、君の元へ送り込んだ。月は困っていたよ、私が逃げ出そうとしていることに目もくれなくなるほど」
 はあ、と分かりやすいため息を吐いた。「全部、君のせいで無駄になっちゃったけどね。月の遺産を手放してしまうだなんて、少しも考えていなかったから」
「……ごめん、それは、本当に」
「世界を手に入れたも同然の力だよ? 何でも何度でも願いを叶えてくれるんだよ? 持っていても君に害を与えることなんて絶対にないのに、どうして捨ててしまったのさ。おかげで月は月の遺産を取り戻して、私を兵器として地球に送り込んだ。地球に落ちてきたのは、私の意志じゃないんだ。君の願いを元に、月の遺産が現実を動かしただけ。君が願わなければ、街があんな風になることもなかったのに……」

 ふっと落ちて開いた瞼の向こうの瞳が、赤く色づいているように見えた。
 それは、一瞬だった。

「月の遺産は私の欠片。人の希望だった。全ての災厄を排除する月の秘宝。それを手に入れれば街も色も失うことなんてなかったのに、どうして捨ててしまったんだい?」

 心臓を羽で触れられたような心地悪さだった。声色、口調、表情、その全てが、もう二度と見たくなかった月の遺産を思い出させた。肺を握られたかのように、息を吸っても苦しくてたまらない。しまいに酸欠で倒れてしまわないかと煽られる不安が、より呼吸を荒くさせる。

 ──違う、大丈夫。目の前にいるのは月の遺産なんかじゃない。ここで引き下がれば、一生後悔する。

「……僕が欲しいのは月の遺産でも秘宝でもない。どれだけ月の欠片が落ちてきても、僕はその中から君を見つけ出せる。あの月の遺産は君じゃなかった、それだけだよ」
「代償に人は色を失った。街を失った。それでも構わないと? 私が必ず帰ってくる保証なんて、月の遺産の偉大さを体感したことのなかった君にはあるわけないのに。色は希望だ。色がなければ、世界はすごくつまらなくくすんで見える」
「色が無くても、覚えてるから、青空も、街の風景も、全部。僕の街は消えていないから、まだあるからそこで暮らし続けた」
「いずれ忘れるよ。全部色褪せていく」
「……大切なものは、色が褪せても残り続けるんだよ。君のことを忘れることが出来ればこんなに苦しむことは無かったと思う。ずっと君を待って、親も晴臣も街から出て行って、左腕を無くすことも無かった。そこまでしてでも手に入れたいものがあったんだ。昨日のことのようにもずっと昔のようにも思える君といた時間を、もう一度過ごしたかったんだ」
「……私は君が思うほど優しくないし、空に浮かぶ月のように美しくない。私は地球の脅威なんだ。君の街を破壊しかねない。美しさに惹かれて近づいたら、ぼん、って簡単に吹き飛ぶことになるかもしれない。そんな兵器と一緒に居て、君は怖くないの?」
「怖くないよ。兵器としての君を見ているわけではないから。僕が君と出会った時、君は一人の人だった。僕の顔を見て変な顔って言った、普通の女の子だったから。今更兵器だって言われても、信じてやらないよ」
 何さそれ、呆れたような声だった。

 兵器としての彼女のことなんて知らない。そのことを知ったからと言って彼女の印象は変わらないし、探している理由が消えてしまうことはない。
 彼女は何かを恐れている気がした。それは自身が兵器であることに怯えているような、諦めに近い恐怖。その事実は覆らない。けれど──。
 僕にとって君は、君にとっての青い星だから。

「──僕と君が出会った意味は変わらないよ。僕は兵器の君を見ているんじゃない。一人の人として、君を見ているんだ。悪意が無いなんてことは分かってる。だって君は、僕の街を破壊しなかったって言ったじゃないか! 本当に恐ろしい奴で、脅威になるなら、そんな手加減なんてしないはずだろう! 君は君の意志で落ちて来たんじゃない! 環境が悪かっただけなんだ、周りの人の影響を受けてしまうから。でも今は違う。君の周りには、君を悪意にしようとする人は一人もいない。君は、君が生きたいように生きられる。怖いなら僕が引っ張ってあげるから。僕はそのために、ずっと君を探していた!」

 彼女がいれば、僕はどこまでも歩いて行ける。彼女は、本当の僕を知らないはずだ。学校に行けず、遮光カーテンで遮られた部屋に引きこもり、心配してくれる両親や晴臣に顔を見せず、挙句この街に残ると我儘をつき通した。どこまでも迷惑で手の掛かる人間だっただろう。
 でも、そんな過去なんてもうどうでもいいのだ。僕がこれから見るのは、過去ではなく未来だ。これからまだまだ先に続いていく未来に彼女がいてくれたら、暗い過去をも明るくしてくれる光になるだろう。
 彼女にとって、僕がそんな存在になれたら、それが最大の恩返しになると思ったから。
 当時苦しめられた事実に、過去になってまで縛られるなんてごめんだ。

「──一緒に来てほしいんだ。君がいてくれないと、もう、何も楽しいなんて思えないから」
 衝動的に彼女に歩み寄る。彼女がどんなことを考えていようとも、その手を掴んで離してはいけないと思ったから。揺れる髪の間から見えた瞳は青く澄んでいた。色が見えなくなっても、はっきりとそれを認識することが出来た。

 刹那、海が大きな波を立て始めた。彼女の声を掻き消してしまうほどの轟音に包まれ、砂浜を覆い尽くす大きな影に変わった。背中から迫る波に一つも表情を変えない彼女が波を引き連れているような感覚に陥る。強く目を瞑り、流されまいと体に力を込めたが、それが僕の体を押し倒すことは無かった。
 目を開ければ、辺りの風景が一変していた。美しい砂浜は無くなっていた。遠くにぽつりと聳える街を見て、ここが月が落ちて崩れた街であることに気づいた。

 慌てて彼女を探した。どこを見ても白い砂漠が広がっているだけで、彼女の姿はどこにもない。夢が覚めてしまったのだろうか、まだ、掴めていないのに。

「ここだよ」
 背後からの声に振り返ると、後ろ手を組む彼女が僕を見ていた。
「月の遺産は簡単に手放したのに、私のことは諦めてくれないんだ」
「ずっと君を探していたから。……見た目も声も君に似ていたのに、月の遺産は酷く恐ろしい奴だったよ」
「……本当に、どうしようもない馬鹿だね」
「何度も言うよ。僕が欲しかったのは月の遺産なんていうちっぽけなものじゃなくて、君だから。君じゃないなら何もいらない」
「そんなこと言ったら、月に怒られるよ」

 ふわりと表情を緩ませた彼女は、穏やかな笑みを浮かべた。浮かぶ瞳が潤んでいる事にも気づいていたけれど、そのことが嬉しかったから、何も言わなかった。
「別にいいよ」
 軽くなった心で大きく息を吸ってから、彼女に歩み寄る。
「君ってやつはさ。私のために街も色を失ったんだよ? 随分私に惚れているんだね」
「そうかもしれない」
「それは困っちゃうなぁ。……君はこれからどうするの」
「行きたいところがあるんだ。君が一緒に来てくれたら、すごく心強い」
「じゃあ、一緒に行こう。君がくれた言葉、忘れないよ。新しい場所でも生きていけそうって思ったから。それに、君の努力が報われないと、無くした片腕も寂しそうだ」
 彼女を目の前にしても、やはり色は戻らなかった。透明な瞳でじっと僕を見つめながら、差し出した手をゆっくりと掴んでくれた。
「……ありがとう、私を探してくれて」




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