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【小説】白の街に浮かぶ足跡を辿る


前話





 海を離れてしばらくが経った。鼻の奥に残っていた潮の匂いは消え、視界を覆う緑が肌に触れて痛い。ちくちくと肌を刺す枝を何度も折りながら、先を進んでいく。

 月の落下で更地になった街を抜ければ、切り取られた森が立ちふさがった。まるで月が手でそこだけ削り取ってしまったみたいに、弧を描いた森の縁が絵画のように現実味のないものに見えた。

 僕は、自分の街を出た。もしかしたら彼女がいるかもしれない場所を目指して、手当たり次第に行くしかなかった。海も、森も、街も、全て、もう探す場所が無くなってしまうほど、隅々まで。でも、どうしてか僕は、彼女はそう遠くにはいないような気がいていた。

 だから、これ以上の遠くへ向かうつもりはない。ここにいなければ、引き返すだけだ。彼女がいるかもしれない極限で、彼女を探すのだ。

「珍しい、人がいるもんなんだな」

 そう言った声に顔を向ければ、まだかろうじて頭の黒が目立つ男性がいた。太い木を背もたれにして、つむじをこちらに向けている。もうずっと切られていないのだろう髪はだらしなく垂れ、その中に木の葉が隠れている。
 男は返事を待つことなく次の言葉を放つ。おそらく、僕の言葉は欠片も待っていない。

「もう消えちまったかと思った。もう俺だけかと。月が落ちててっきり滅亡したかと。そうか、生きているのか。人が。いや、俺は生きている。俺は、人か?」

 ぶつぶつと、しかししっかりと耳に届く声で話す男は、爪の隙間に入り込んだ泥を懸命に搔き出しているように見える、でも、僕の見間違いでなければ、男に爪は少しもない。

「おい、お前はどこに行く?」
 視線を落としたまま、男は僕に問うた。きっと、僕に言ったのだと思う。
「この先にある街に。白い街」
 そう言うと、男は盛大につばを吐き出しながら笑った。変わらず男の顔は見えないけれど、髪の隙間から見えた唇はひび割れて痛々しい。
「変わったやつだ。あの街に行く奴なんていねえよ」
「……この先を行けば、辿り着く?」
「ずっと、ずっと真っ直ぐだ。そうしたら着く」
 分かった、そう返事をして去ろうとした時、男は僕に声を掛ける。振り返っても男と視線は合わないけれど、男の手には枯れた茶色の葉が握られていた。

「これがどんな色だったか忘れちまったんだ。目も眩むような色だったことだけは覚えている。でも、その名前が出てこない。お前には、これが何色か分かるか?」
 もうすぐ土に還る葉は、懸命にその形を保っているようだった。男が少しでも力を込めれば、はらはらと風に乗って地面に落ちるだろう。

「緑だよ」

 夏の空の下で輝く緑色の葉を、まだ僕は、色鮮やかに思い出すことが出来る。
 ありがとう、と震えた男の声は、すぐに思い出せなくなった。



 木々の向こうから風が吹きつけるようになってきた。明るくなった先を目指して森を抜ければ、その街は静かに僕を待っていた。月が落ちてからその影響を強く受けた街の一つ、皚々がいがいたる街と呼ばれたこの場所に来たのは初めてだ。

 皚々たる、それは、雪や霜で辺りが真っ白に見えるさまのこと。まだ雪の降る季節ではないのに、そう思わせる風貌をしたこの場所に、もう人はいない。

 遥か高くまで伸びているはずの空に色はない。鮮やかな青も、柔らかな白も、ただの影のようにぼんやりとしか認識することが出来ない。
 かつては高層ビルに人が集まり、道路を車が行き交っていたはずなのに、どれもが放置されたまま残されている。このまま、誰にも手を差し伸べられることなく街は灰となるのだ。

 あまりの白さに、思わず息をのむ。色のない街は今にも消えてしまいそうで、淡く、掴めない。一歩先に踏み入ればもう二度と戻ることが出来ないような色に少し躊躇うが、ここで立ち止まっている暇があるわけではないので、白い地面を踏む。そんな白い道は、掴みどころなく柔らかいように感じた。

 白月症で色を無くしたのは、人だけではない。それは植物や動物にも現れ、緑豊かな街からはいとも容易く色が奪われた。緑と人が共存する街、かつてそんなキャッチコピーで観光地としてにぎわっていたここも、今やただの灰街だ。人目を引くような色はどこにもない。

 この症状は現在、特定の街にだけ現れている。先ほどまで歩いていた森の緑は青々と映えていたし、実際振り返れば空も緑も目も眩むほどの色彩を放って僕を見下ろしている。白月症の境、くっきりと線は残されているけれど、その数センチの差に何があるのかは分からない。

 白月症は、発症しているものと接触することで感染する。確定とは言えないその噂に怯えた人々は、この街から去って行った。僕の街から人が出て行ったのと同じように。触れることで必ず感染するとはまだ言えないので、そんな噂で自分の育った街のことを捨てていく人は薄情だと思う。しかし、確実に白月症は広まりつつあるから、そんなことを信じるなとは言い切れなかった。

 この街に入れば、きっと僕にも明確にその症状が現れ始めるだろう。今日まで症状が悪化することなく過ごせていたのは幸運だ。次第に全てがこの街のように見えるのだと思うと、少し怖い。

 他の街よりも早くに色を失ってしまった街。変わってしまったのはこの街であって、僕自身は何も変わっていない。でも、この世界で唯一色を持つ僕は仲間外れだ。僕だけが色を持っている、はずれ者。息を止めてじっと僕を見つめる街からの視線は冷たい。よそ者を警戒しているのか、それとも、色を狙っているのか。

 誰もいないはずの街には、冷たい視線が張り巡らされている。それは内側にも、外側にも。あの街はもう駄目だ、終わりだ、と再建の期待すら放棄された視線は、この街からより強く色を失わせたのかもしれない。

 人がいた形跡だけが残る街がこれ以上進むことは無く、置いて行かれ続ける街となる。発展のしない街は色のないまま時間が止まり、時が経ってから再び発見された時にこの形を保っていれば、遺跡として再び人目を浴びることになるかもしれない。しかしそれも微々たる可能性だ。この街はもう捨てられた。世界から取り残されてしまったのだ。


「私がこれまで君に隠していたことを一つ、教えよう」
 まるで得意げに披露するかのような前振りで告げられたのは、本当か嘘か分かりかねる抽象的なことだったという記憶がある。
 彼女の言葉を待ってじっと黙っていると、「反応はなし?」と小首を傾げられた。

「もっとこう、何々? って、興味湧かない?」
「反応は聞いてからしようと思ってた」
「駄目だなあ。私がより話したくなるように場を盛り上げないと。そうじゃないと、もし仮に、万が一私の話が面白くなかった時に私が滑ったみたいになるじゃない」
「…………事前に確定演出が欲しいの?」

 何とか絞り出した最適解を口にするが、彼女はきょとんとした顔で僕を見つめるだけだった。本当に分かっていないのかおとぼけなのか、彼女のぽかんとした表情を見ているとその答えは聞かずとも分かった。

「で、隠し事ってなに?」
「違う違う、もっとさぁ」
「……気になるなー、隠し事。なんだろう、気になる気になる」
 明らかに棒読みだったことは自覚している。彼女は満足そうに笑みを浮かべながら、──しかしすぐに、視線を落としてこう言った。

「私は、世界に取り残されてしまったんだ」



 ──イオリ、


 ふと、懐かしい声がした。慌てて辺りを見回すけれど、声の主は見当たらない。
 ──イオリ。
 また声が聞こえた。耳をくすぐるその声は、すぐ近くから聞こえている。
 ここにいるんだ、君が。やっぱりこの街に。取り残されてしまった街に、同じく取り残されてしまった君がいる。

 彼女はあの日、その言葉の意味を教えてくれなかった。どれだけ問い詰めても、「また今度ね」とはぐらかされてしまう。その言葉に何か深い意味があったのならば、僕はこんなに君を探すのを苦労していなかったかもしれない。

 月が落ちて来た理由、それすらもその言葉に隠されているような気がしてきた。彼女が月だから、きっと、全てを知っている。

 何度も名前を呼ぶ声の方へ足を進めるが、声は一向に近くならない。ずっと一定の距離で、耳元で囁き続ける。でも、どこかにいるはずなんだ。だって、彼女の声が聞こえているから。きっと、どこかに。

 ふと視線を落とす。背後を見やれば、白い道に僕の足跡が残っていた。再び視線を戻す。そこに足跡は無い。僕以外の足跡は、どこにもないのだ。

 そして僕は気づいてしまった。彼女の声はずっと、一定の間隔で聞こえ続けている。まるで録音されたテープを何度も繰り返しているような感覚。僕の耳に刻み込まれた彼女の声が、動き出したのだ。だた、それだけだった。




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