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後だしライナーノーツ#1 坂本慎太郎「物語のように」- 未来への希望、または諦め

 ここ数年(いや、もはや思い出せないがひょっとしたらもっともっと長い間)、人々は落胆し続けてきた。彼らが過ごしてきた日々は、差別/疫病/貧困であり、はたまた暴露/中傷/詮索、あるいは、フェイクニュース/デマゴーグ、そして戦争だった。

 最近では、比喩でなく単語そのままの意味で「ディストピア」化しているとまで形容される現代の日常において、たとえ毎日笑顔と希望に溢れ生きている人を見つけられたとしても、その口元は四角い不織布ーあるいはウレタン繊維の場合もあるーに覆われて、視認することが出来ないだろう。

 坂本慎太郎が前作「できれば愛を」を発売してから、およそ6年もの時間が過ぎていた。坂本がソロ活動を開始してからもっとも長いスパンをおいてのリリースとなった今作を最初に聞き終えたとき、シンプルにこう思った。

「これを聞いた皆はどう思うのだろう?」

 本作の発売からすでに約半年も過ぎているわけだが、今年が終わる前にはっきりさせておきたい。

 "このアルバムは一体何だったのか?"


 坂本は今作のリリースにあたって、いくつかのメディアによるインタビューで「突き抜けるような」「スカッとした」音楽を作りたかった、と再三繰り返した。

「とにかく、この数年で世の中の閉塞感が更に強まっているのを感じていて、それを突き抜けるようなものをやりたいなっていう思いがずっとあって。真面目に考え込んでいるものより、〈明るい〉っていうとちょっと違うかもしれないけど、スカッとした音楽をやりたかったんです」
ーMikiki 「坂本慎太郎が語る『物語のように』のロックンロールサウンドと歌詞」より:  https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/31831 

 なるほど、以前の坂本作品を耳にしたことがある人からすれば、これは一聴して分かる違いと言っていい。リード・トラック「物語のように」は、洒脱かつミニマルなフレージングでソロ・アーティストとしての坂本の評価を確立したファースト・アルバム「幻とのつきあい方」のサウンドに立ち返ったかと思わせるような、軽妙なポップ・ソングだ。「君には時間がある」では、これまでの坂本作品では全くと言っていいほどイメージになかったサーフ・ロック的アプローチが大胆に導入され、「悲しい用事」はこれまた新味のノスタルジックなロカビリー・バラード風に仕上げられた。アルバム全体の印象としても、ディスコやAOR的な「リズム」と「ダンス」といった70年代の乾いたグルーヴ感覚に接近を続けてきたこれまでの方向性からは一転し、例えばガットギター1本の弾き語りライブでも成立しそうな、ある種フォーキーでメロディアス(≒ポップ)な曲が並んでいる。2014年の前々作「ナマで踊ろう」のジャケット・アートワークが、キノコ雲をバックに座ったまま白骨化した坂本自身であったことを踏まえても、その一変には思わず目を見張りたくなる。

 坂本は筆者の周りでも非常に人気の高い(?)アーティストの1人で、本作を聞いた友人たちもやはり「軽く」て「ポップ」になっている、という印象を口にする人が多かった。SNS上のコメントや各種レビューも、その予想外なサウンドの明るさと軽やかさに言及するものが多かったように思う。前作から今作の間に発売された何枚かの作品ーシングル「小舟/未来の人へ(feat. ゑでゐ鼓雨麿)」、4曲入りEP「好きっていう気持ち」ーがまだ前作に共通する「ヌケの悪い」ムードを纏っていたこともあり、その転換は余計に鮮烈に響いたのだ。事実、これらの曲は「物語のように」の中に1つも収録されていない。


 話は変わるが、映画音楽の技法に「音と画の対位法」と呼ばれるものがある。今や様々な映画のシーンに組み込まれているが、黒澤明の「野良犬」や「天国と地獄」がその使用の典型例として有名だ。平たく言えば、残虐なシーンや鬼気迫るようなストーリーの山場で、登場人物の心情やその場の状況にそぐわない穏やかな曲調のサウンドトラックを使用し、その相乗効果が逆説的に場面の印象を高める、というものだ。「時計仕掛けのオレンジ」では、ギャングたちが作家に暴力をはたらくシーンがあるが、老人に容赦ない攻撃を加えながらマルコム・マクダウェル扮するアレックスが「雨に唄えば」を口ずさむ(大声で歌っているというのが正しいか)のも、「音と画の対位法」の一例と言える。

 上記の技法は、映像がなくともポップス音楽そのものに当てはめることが出来る。例えばJ-POPでも「明るい曲調だけど歌詞は失恋で悲しむ歌」なんてものは珍しくない。だが、言うまでもなく肝要なのは、音と詞が対位しているという事実そのものではなく、その組み合わせいかんによって楽曲の中で両者のコントラストがどのぐらい高まり、結果としてより強い印象をもたらしうるのか、ということだ。

 そういった意味で、もともと坂本は「音と詞の対位法」の使用に秀でたセンスを持つ音楽家だ。それこそ、ゆらゆら帝国最後にして最高の名曲と評価される「空洞です」にしたって、どこか間抜けなギターとコンガのイントロと、その後に突然繰り出される諦めの極致に達したような詞の高低差に人々は思わず耳を傾けざるを得なかったのだろうし、ソロ活動開始後も、そのサウンドと詞のアンビヴァレンスにはある種一貫したものがあった。優れたソングライターであると同時に優れたリリシストであるからこそ、それが実現し得たとも言えるだろう。

 しかし、それが本作「物語のように」においてはどうだろう。そのサウンドスケープは先述したように穏やかかつ軽やかな雰囲気を纏うと同時に、「死」「マヌケ」「他人」「カルト」「義務」などのあからさまにネガティブで深刻なワード群は、明らかな意識性を持って回避・排除されている。代わりに内包されたのは、「『僕』から見た『目の前にいる(もしくは、いた)君』との淡いリレーション」と、それに対する慕情ともいえる心象風景だ。「音と詞の対位関係の希薄化」ー それこそが、一聴して本作が「ポップ」で「明るい」と言われる所以なのではないか。

 ここで1つの疑問が浮かんでくる。上述したように「対位性」が楽曲の印象をより豊かにするものだとすれば、「音と詞の対位性」が希薄となった本作は「特に印象に残らない」作品だと言ってのけてしまうことも可能なのではないか?坂本は、この暗くて閉塞した日常からの脱却手段として、ただただポップで毒のない作品を作りたかったのだろうか?本心はもちろん当人にしか分からないことだが ー 筆者の見解は「NO」だ。

 なぜならば、本作においても引き続き"「対位性」は保たれている"からである。

 と言ってもそれは、音と詞の対位ではない。それは、「楽曲」と「世界」の対位なのである。このライナーノーツの冒頭に戻ろう。疫病、失政、暗殺、核ミサイル、デマ、中傷 ー によって、我々は落胆し続け、もはや誰もがこれらの問題と無関係でいることなど出来なくなってしまった。それでも坂本は、「物語のように 恋をしようよ」と歌ってみせた。あまりにも過酷で残虐なこの世界で本作は、「天国と地獄」におけるシューベルトの美しい旋律のように、鮮やかさと虚しさの両方を持って響く。坂本は本作において、そのアンビヴァレンスな感覚をより高い次元でアウトプットし、我々が生きる日常の閉塞感を浮き彫りにしてみせたのだ。


 「これを聞いた皆はどう思うのだろう?」

 このアルバムは、本当にただの「スカッとした」アルバムなのか?ー 最初に聞き終えたときに感じたこの違和感を、筆者はまだ拭いきれていない。だからこそ、他の人がどう感じたのかが気になったのだ。このアルバムにあまり手が伸びないのは、この作品をピュアな心で楽しめる日常には、まだほど遠い気がしているからなのかもしれない。要するに、聞くのが少し怖いのだ。

                                                                                    2022年 11月 Yosuke Takai


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