推し疲れ

推し疲れている。

そもそもわたしは推しが多い。
「推しに多いとかあるの?1人じゃないの?」と疑問に思う方もいるらしい。それは「推し」という言葉を使っているからおかしなことになっているだけ。推しという言葉はあまり好きではないが、言い表すのに最適であるから使っている。わたしにとっては「好きな人」だ。
「好きな人こそ1人では…?」と書いていて思った。好きな人。いろんな意味の好きがあるんだから、好きな人でいい。けどやっぱり推しの方がわかりやすいので、ここでは推しでいかせてもらう。前置きが長くなりすぎた。

推し疲れているのだ。最推しにリアコ的な、ガチ恋的な感情を抱いてしまっている。いい歳して。そんな推しに、最近ちらほらファンが付き始めている。とても良いことだ。推しはまだまだこれからの人である。ファンが増え、人気が上がり、活動の後押しになることはとても良いことだ。「とにかく愛されたい」と公言しているので、推しにとってもうれしい現象であるはずだ。

オキニとかTOとか、そういうのを口にする人ではない。だが通っていると客側でなんとなくわかったりする。(厳密には「わかったつもりになってしまっている」であるが)
推しは匂わせとか私信とか、きっとしていないはず。匂わせっぽいこととか、私信っぽいことが目についてしまう。あくまでも「っぽいこと」なんだが。考えすぎか。かわいいあの娘がオキニなのか。
わたしは推し疲れている。

こんな思考で現場に出向くのは誰の特にもなっていない。わたしは自己顕示欲や、承認欲求のために現場に行っていないはずだ。推しの活動をただ追いたいだけだったはず。楽しいを浴びに行っていただけだったはず。いつからこんな風になってしまったのか。純粋に楽しめていた頃に戻れるのか…

吐き出す場所がここしかなかったので、読み答えのないことをわざわざnoteに書いている。この気持ちを吐き出すにあたって、現状について考えてみた。

「推しとかライブとか嫉妬とかガチ恋とか知らんけど、ほかにやるべきことがあるだろう」

わたしは無宗教ではあるが、運命とか、縁とか、目に見えない「なにか特別なもの」があると思っているタイプだ。神様か誰かわからないが、わたしを現実に引きずり戻した。確かにそうだ。まさにこれ。やるべきことをやっていないのだ。わたしにも自尊心はあるので、それが何かは明記しない。こんな状態の人間に推される推しもなかなか可哀想だ。もっと推されてうれしい人間にならねば。
こういう思考になる点からして、わたしの執着心はそう簡単には剥がれないらしいことがわかる。

最推しにラブな感情を持っている一方、ほかにも推しがいる。ほかのジャンルにもいる。それを同じアカウントで呟いているので、最推しにとっては不愉快なのかもしれない。専用アカの人を贔屓したりするのかな。最近対応悪いな。嫌われたのかな。彼女できたのかな。今までしてなかった腕時計とかしてるな。プレゼントかな。こんな被害妄想も推し疲れているからだ。疲れたら休む。当たり前のことをしていないから疲労が蓄積するばかり。休もう。でも現場には行く。矛盾している。我慢と休むは別だ。ライブはたのしい。ライブに行きたい。敢えてジャンルは伏せるが、どんなジャンルでもライブはたのしい。よね?

吐き出したら少し楽になった。わざわざ人様の目に付くところに書き連ねる必要があるのか。やはり自己顕示欲や承認欲求のためだったのか?同じような気持ちを抱えてる人はいるのだろうか。群れるのが嫌いなので仲間はいらないのだが、こういう悶々としたものを持つ人の冷却剤にでもなれたら幸いです。そういう目的でもないんだけど。

とにかく結論としては「やるべきことをやれ」なので、そっちに力を注いでいきたい。1人のファンがちょっと来なくなったって、推しの生活には何も支障がないのだ。わたしの生活に支障がきたす方が意味不明だ。やるべきことをやる。わたしは、やるべきことをやる。そして推しに、「推されてうれしいな」と思われる人間になる。




追記
わたしは「推し」が人生の基盤になってしまっていることに気がついた。
いいことか悪いことかは人それぞれの意見としてあるだろうけど、わたしはこれに危機感を覚えた。
自分が中心の人生に修正していきたい。
わざわざ好きな人を嫌いになる、なんてことはしないけど。
吐き出すことで気付けることがあることも学んだ。
ありがとう、推し。



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