恋愛学は災厄のあとに

毎年4月20日は、恋愛論や恋愛小説を読むようにしている。追憶と戒めといったところか。そのプロセスのうちに、この日は恋愛学者になる日というわけだ。

で、今年読んだのは、ずっと数年前に100ページほど読みさして積読だった、いとうせいこう『我々の恋愛』。二人でするはずの恋愛に我々とは! 設定がもう面白い。2001年、「二十世紀の恋愛を振り返る十五ヵ国会議」に出席した恋愛学者が、その場で表彰された二十世紀にふさわしい恋愛エピソードをドキュメント形式にまとめ、それに自身のある女性との私信を断章形式に織り交ぜて成り立っているのが、『我々の恋愛』というテクストになる。そのエピソードと私信からは、恋愛の話題を通して歴史がさりげなく回顧されていく仕組みになっている。つまり、20世紀の歴史と、現在の21世紀の歴史とが恋愛という器を通してリンクしていくのである。

実は、ドキュメントに書かれた恋愛エピソードのクライマックスは、1995年1月17日の前日である1月16日、そして私信のやりとりのクライマックスは2001年9月11日の日付に収斂するようになっている。どちらの日付も、現実の世界で何が起こったのかは言うまでもなく明らかだ。だからこの小説は、恋愛を描くことでその二つの事件を確かめるようなつくりになっている。ここは、評価が難しい。ドキュメントのエピソードと私信のやりとりは、それぞれ別々の出来事となっていて、比喩や象徴といったエクリチュールの次元では通底しているように読めるのだが、事実としてはその二つの恋愛の出来事はあまり重ね合わされているようには見えない。それぞれの恋愛の背後に絡む形で書き込まれた二〇世紀日本の歴史も、ほんのさわり程度で、あまり喚起力をもっているようには見えない。

だがしかし、小説のジャンルといった面では、確かに時代を捉えているようにおもえる。90年代を描いたドキュメントでは、主な視点人物である華島の恋人となる美和にまつわる、「もう一人の自分」といった分身や解離のモチーフが書かれる。これは90年代の時代の知の枠組みである心理学的なものの気分をよく捉えているし、文学史的な記憶に引き付けるならば、春樹文学が書くようなテーマを扱っているといえる。好みはわかれるだろうが、華島と美和のデートの舞台となる新宿の描写はよく雰囲気を伝えている。

一方、小説全体で描かれる、ネズミやハムスターといった小動物に災厄を象徴させる細部では、たとえば同様の狙いとモチーフを扱った奥泉光『東京自叙伝』を想起させるし、その意味では『我々の恋愛』は震災後文学の系譜に連なる小説ともいえる。

なにより、そもそもこの小説はエンタメ小説として一級品だ。華島の勤める「あらはばきランド」のアトラクションである「レイン・レイン」のスタッフの連中はクセの強い人物ばかりで、彼らの起こす言動はいちいち声を上げて笑ってしまう。妄想、噂。おしゃべりを通して華島と美和の恋愛に勝手に介入していく彼らの存在をして、小説のタイトルは「我々の恋愛」と名付けられる。恋愛も、実は二人だけの世界で完結するものではなく、おせっかいな周囲の存在が、たちまち世界をカーニバル的な哄笑の場に変えてしまう。

あらぬ間に増殖する妄想や噂が物語の推進力となり、ついには物語のジャンルの壁を壊し、不分明になっていく作風は、もとよりいとうせいこうが特異とする筆致だ。これは、小学生のあいだでの情報ネットワークで増殖するゲームソフトをめぐる都市伝説を扱った『ノーライフキング』から、津波に流されたDJが想像のラジオだけで人々をつないでいく『想像ラジオ』、小説を禁止された未来の世界で随筆を書くうちに、妄想や不確かな記憶が絡み合いジャンルを越えた語りの作品を生み出していく『小説禁止令に賛同する』など、いとう作品はそうしたまさに「怪文書」的な想像と力が支配する世界をよく描く。『我々の恋愛』のドキュメントや私信もまた、そのような妄想や噂が物語を動かし、ついには破局的な世界に突入する点で、いとうワールドの系譜を継承している。

恋愛学者のレポートを読むうちに、読者もまたいつの間にか彼らの想像力に付き合わされる格好になる。そのとき、私もまた、恋愛学者になっている。滑稽な世界観を学問という枠組みに託す。それでいて、小説。ふたつのジャンルは読むことのうちにおいて混在していく。これが恋愛学の迷宮のような入り口かとおもう。


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