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日記のはずが、「死の欲動」に関する考察となった(2023/05/01)

 Twitterのアカウントが凍結されてから一か月弱が経とうとしている。(原因不明!イーロンを許すな…)毎日様々なことを経験して、私自身は日々微小ながら成長していっていると信じたいところだが、発見を毎日文字に起こしていた当時と異なり 現在は衝動的にキーボードをたたく際以外 文字が現れるタイミングは頭の中の思考中に留まっている。これを繰り返し、現在進行形で脳みそのアイデアがぽろぽろと零れ落ちて行っているのではないか、という不安と焦燥に駆られ続けている。(正直なことを言えば、Twitterを常時開いてツイートを行っている頃でもすべてのアイデアを発現しきれていたとは考えづらいが…)

 4月の14日から数日間のみ日記をつけているのが発掘(大仰)されたので、明日にでも投稿できればと考えている。毎日なにかを続けるのが非常に苦手であるがゆえに日記も続かないが、これを毎日やれ!と自分に課した途端にその課題から色が失われ 魅力を勝手に失ってしまうので仕方がない。散文的に、気まぐれに これはたぶん「人間らしい」行動であろう..

 講義は毎日非常に面白くて、私は常に何も知らないということを痛感させられる。本日は、2-3年前に大々的にヒット(?)したYOASOBIの「夜に駆ける」を講義内で視聴した。「夜に駆ける」は『タナトスの誘惑』という小説が原作になっている。題名中の「タナトス」とは死の欲動を扇動する、つまりエロスと対を成す存在であり、神経内科医 精神学者フロイトは人間には前述両方の欲動が存在する、と提唱した。
 生の欲動と言えば性的な興奮に代表される本能的且つその場限りの欲求であり、私は生殖行為・自慰行為そのものを指しているのだと解釈している。(私は芸術は自慰行為の一環なのではないか、という論を支持している。この論に関しては今後言及したい)
 死の欲動と言えば「繰り返し」が共通のテーマになっており、言語化、子供を育てること、そこから派生し人形遊び、等が死の欲動に該当するであろう。音楽を繰り返し聴くことも広義的には死の欲動なのかもしれない。

 前書きが長くなったが、ここで私が言及したいのは「私自身が、常に死の欲動に駆られて生を続けているのではないか」ということである。(読者の皆様におかれては 急な個人的な話へのシフトチェンジに関し ここで興味を失わないで…!と声を大にして願いたいところである..)
 死の欲動に代表される傾向は、先述の通りだが 言語化(活字を求める傾向)、人間ではなく その客体として存在する人形(≒子供)への愛情、音楽視聴への依存など 様々な行動の繰り返しと言える。私は今述べたすべての行為・言動に非常に長い時間をかけているように記憶しているのだ…

 幼少期から、狂ったように人形遊びをしていた。私は人形があればほかに何も要らず、ご飯すら後回しにする勢いで人形しか目に映らない生活をしていた。具体的な遊びの内容は非常に典型的で、それぞれの人形にキャラクターを付し 人形同士でコミュニケーションをさせるというものだった。唯一特徴的な点と言えば、毎回「家」を作ることに執着していたことくらいだろうか。彼らの生活を覗き見ることを求め、ベッドなどの家具を作ったこともあったと記憶している。
 私の狂気的な人形依存は中学受験塾に通い始める小学校4年生まで続き、その後は貪るように、まさに本能的欲求を満たすように本を読んだ。勿論それ以前も読書は大好きで、母曰く話し言葉の獲得は非常に早かったとのこと。実を言うと文字を書くことは得意ではなかったのだが、読むのも非常に早く(時期も速度もはやかった)受験期はトイレ休憩の際に本を持っていくという徹底っぷりだった。ただし、読書をするとその世界が見えて(容易に想像できるようになって)きて そればかりをしてしまう、というような話はよくあるが、私は本の世界を想像するというよりかは とにかく読んで、読んで、読む という感覚だった。あえて言葉にするとすれば 読書によって引き出される想像世界に色が付くことがあまりなかった、というような印象だろうか。
 中学三年生辺りまでは本の虫だった。基本的に、どこに行くにも本を持参し 隙があれば読んでいた。中学三年生の時、経済の授業に心底惚れたことがきっかけになって 勉強時間が格段に増加した。そこで現れるのが音楽である。私は東京の人間然として、毎日チャンネルを81.3MHz、j-waveに合わせ 夕方はピストン西沢のグルーヴライン、夕ご飯と風呂を挟んで夜はsonar musicを聴きまくった。勉強をしながらの、あの重たい機械から流れてくる音は格別で、私は同時に勉強と音楽の虜になった。成績が死ぬほど上がって、そのぶん睡眠時間が格段に減った。プラマイゼロというやつだ。話を戻すが、次の依存先は音楽となった。音楽は芸術なので 死の欲動とは異なるのでは、という想定反論に関しては、作曲に関わる人間からすれば生の欲動という側面を否めないものの 聴く側としては「言語化」「繰り返し」という死の欲動的側面が非常に大きいことは容易に想像がつくだろう、ということで却下しておく。音楽に付されるその言葉は私を突き刺し続け、その音楽を一日中リピートすることなんて日常茶飯事だった。現在に至っても、(大学に友達がいないことも手伝って)講義中以外常に音楽を聴いている。昨年度の私のspotify総再生時間は、驚異の70000分である______

私はとにかく繰り返しという行為が好きで、その中でも「言語」「人形」「音楽」に心惹かれ続けている。読者お察しの通り私はASD(アスペルガー症候群)の傾向があるという検査結果を受けているが、議論をそちらの精神環境まで拡張させる気力が残っていないので勘弁してほしい。とにかく、私自身が常に死の欲動に突き動かされているがゆえに 生の欲動に対する抵抗が他者よりも大きいのではないか、という可能性を検討しているわけである。簡単なところで言えば、性欲への理解が全くなく、大学入学以降特に 他者とコミュニケーションをとる際に少々困難を感じている。

議論がだんだんと大きくなり 非常に散文的なってしまったことが気にくわないが、これも「人間らしさ」であろうか… 死の欲動に関して滔々と述べたものが生きた人間に関し言及するのは烏滸がましいだろうか。

疲れたので寝る。今後は
・アスペルガー症候群の人々と「死の欲動」の関連性
・芸術が「生の欲動」「死の欲動」どちらに割り当てられるのか
・三大欲求と呼ばれる欲求と、「生の欲動」「死の欲動」との関係
等について考えていきたい。

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