二浪。
生まれて初めての覚悟を決めてからの1年は、未だに人生で1番暗く、苦しく、そして何より成長した時間だった思う。
二浪することが決まった。
東大や医学部ならそこそこある話だと思うけれど、私立の文系志望の女子が二年浪人することは割と稀なこと。
2年目に選んだ予備校は、大手ではなく、しかし強制自習という制度があり散々怠けた私には向いている塾だった。
4月、高校の同期が2年生になり新歓をしていた頃、一浪時代の仲間が入学式を済ませて新歓されていた頃。
私は長い長いマラソンのスタートラインに立った。ずっとその日が来るのが怖かった。もう逃げられない、もう自分には、後にも先にも道がない。
怖くて怖くて毎日泣いた。
そうして始まった日々は想像の50倍過酷だった。
私立文系専門の予備校で、授業は週に3回。
あとは英、社、国それぞれの小テストが週に一回ずつ。
それ以外の時間はただただ、授業の予習復習と小テストの勉強をするだけ。
それを一年間、受験までひたすら続ける。
それぞれの授業にレベル別のクラス分けがされて、数カ月に一回大きなテストをしてそれでクラスが決まる。
社会は1と2、英語は1〜6、国語は1〜4。
一応周りより一年長く勉強していたから、最初は全部1クラスだった。
これをとにかくキープしよう。
それが私の目標だった。
塾は9時-22時まで、そのうち19時までは強制自習と言って特別な用事でもない限り帰ってはいけない。
休憩時間も昼30分、夜30分の計1時間のみ。
ひたすらの勉強。
ただただ、苦しかった。
だけど1番何が苦しいかというと、"人"だった。
一浪時代、楽しかった友人たちとの時間。
でも、今年はそれじゃないけない。
楽しんじゃいけない。
こんな過酷な日々の中、ただ1人で机に向かうなんて本当に死にたくなる。
周りが少しずつ、輪を広め始めた。
私も入りたかった。声をかけたかった。友達を作りたかった。去年みたいに。
でも、それじゃ何も変わらない。
だって、人こそまるで違うけど、
そうやって仲良くなっていく周りの景色は1年前と同じだった。
あまりにも、同じだった。
デジャブってこういうことをいうの?と思うほどに。
一浪時代、そうやって群れた人達の中で第一志望に受かった人は少なかった。私自身、それで散々だったから。
今年は自分と向き合わなくてはいけない。
とはいえ、長く隔離された環境で生きていると、次第に話しかけてきてくれる子達もできてなんだかんだで仲良くなった。
これも今だから思うけど、最終的に女子はだいたい話すことになったから、誰とも口を利かず・・というのは現実的に無理だったように思う。
前の予備校と違うところは、休み時間が限られていたからある程度自制が利いたところだろうか、話が盛り上がる頃には休憩が終わり机に向かわなければならない。
そうやって、逃避しそうになる度、受験生だという現実を突きつけられた。
夏頃までは、メンタルも、勉強もちょうどよかった。毎週、月から金まで朝から晩まで勉強して、休憩時間と帰り道だけは友達と過ごす。バランスがよかった。
バランスが崩れたのは夏明け。2年目だから、9月からの時間の短さと、自分の実力と、浪人の壁と。その全てをより明確に理解していて怖くて怖くて怖くて堪らなかった。
受からない未来だけが、不合格の文字だけが鮮明に呼び起こされる。焦れば焦るほど、勉強が手につかなくなった。
不安が、集中を妨げてるようにすら思った。
塾の友人たちはいい子達でとても大好きだったけど、思い返すとこの頃から少しずつ距離をおいていたのかもしれない。
友人が悪いのではなく、私が流されてしまうから。
友人と過ごす時間が楽しいほど、去年を繰り返しているようで、結果も繰り返してしまうのではないかと。思わずにはいられなかった。
だから、避けるわけでもなく、ただ自らは歩み寄らず。
話しかけられたら話して、そうでなければ自分からは行かず。
そうやって少しでも、このデジャヴのような日々を少しでも去年と変えようと必死だった。
秋からはたった1時間の休み時間すら、友人たちとは過ごさず、テキストを眺める日々だった。
苦しかったけど、辛かったけど、
そういう時自分の背中を押す手段はとても醜い手段で。
自習時間に抜けだして遊びにいくクラスメイトたちを横目に、本当はとても楽しそうで、とても羨ましかったけど、
「私はあなたたちの未来を知ってる。あなたたちは去年の私。浪人は楽しむと失敗するようにできている。
もう、いいんだ。もう、十分だよ。ここで楽しくなくていい。私は大学で、楽しむんだ。
だからわたしはあなたたちが遊んでる間、勉強する。」
そう思うしか、もう頑張れなかった。
昔はみんなうまくいけばいいよね!なんて能天気なこと思ってたけど、そんなに現実甘くない。この一年で、現実を見るようになった。夢を見なくなった。
こう考える自分が嫌だなと思ったし、醜いとも思った。
でも、とっくに限界だった。
何より、心が限界だった。
受験に受かったことがないから、受かる未来を想像できなかったし、あの日、一浪最後の受験の前日、自分に心の底から絶望してしまったから。
受かるためにやっているのに、受かる気がしなかった。
インスタグラムも、Twitterも消した。
キラキラした日々を送る高校や一浪時代の友人たちを見れなかった。
無視したりするわけじゃないし挨拶とか少し話したりもしてたけど、明らかに夏までよりもクラスメイトたちから距離をおいていた。
もう、誰が何をやったとか、何ができた、できなかったとか何も聞きたくなかった。自分しか見えなかったし、見たくなかった。
11月頃、過去問ができなくて泣いてる子を見て、慰めたりもらい泣きしてる子達もいたけどわたしは全くしなかった。
むしろ、バカにしていたのだと思う。
それくらいでなんだ、一浪して受験に落ちた時の絶望に比べたら過去問ができないくらいなんてことない。慰めるのもバカバカしい。
一浪時代、私や周りが友達を作ったり群れたりしている中、ただ1人、寡黙に机に向き合う茶髪の男の子がいた。
私は彼のことを気に入っていて、見かけると時々話しかけた。思い返せば、彼は一年目から浪人の厳しさをちゃんとわかっていたように思う。
自分から誰かに話しかけたりしないけど、話しかけるといつも少し嬉しそうにした。我慢して、我慢して、我慢して。自分と戦っているようで。
物静かで影も薄かったけれど、私には誰よりも眩しく見えた。
二浪の一年間、私は彼の背中を追っていたように思う。彼のように黙々と。淡々と。自分と向き合う。
だって、受験は個人戦だ。
みんな受かればもちろんいい。
でもそんな保証はどこにもない。
受かる人は受かるし落ちる人は落ちる。
むしろ、どちらかと言えば、仲良くなって現実から逃げるほどみんな上手く行かなくなる。
だから、みんな受かるならそれでいい。
でも、みんなが受かれないのなら、自分が受かりたい。
そう、思うようになった。
一浪時代までの自分とはまるで違う考え方だったけれど、本来受験生はそういうものなのかもしれない。
彼が冬、受験前に言っていた言葉を、夏以降私は何度も何度も思い出していた。
「もう、受験直前なのに、できなすぎて何したらいいかわからないよ」
という私に彼が言った言葉。
「今からできることなんていくらでもあるでしょ」
当たり前のようで、簡単な言葉のようで。
でも浪人生にとって、この言葉は簡単には出てこない。
一年やってきて、直前になって、それでもやれることはいくらでもあるなんて。
ちゃんとやってきた人間だけが言える言葉だな、と思う。
ーーーー受験における奇跡は、現役生だけのためにある。
これは2年浪人して思ったこと。
現役では実力の少し上に手が届くような奇跡が起こることもある。
でも浪人したら、まずそんな奇跡なんて起きない。
なんなら、現役でいけた大学よりも下の大学しか受からないことだってある。
要は、実力勝負。
センター試験を終えた頃、強制自習が解除された。
次第に試験が始まるからだ。
その日、私は泣きそうになった。
まだ何も始まってないけど、本番はこれからだけど、ここまで長かったと思った。
去年の何倍も長く、でもあっという間にすぎる真っ暗な日々。
でも何より、甘ったれてた自分が大きく成長した時間。
現実を目の当たりにして少しドライにもなったけど。
友人たちの間で、「自習来た時はお昼一緒に食べようね」なんて声も上がっていた。
この日は、たまにはちゃんと来て、そんな時間を取るのもアリだと思っていた。
でも、私はこの日以降、一度も塾にはいかなかった。
誰にも会いたくなかった。
誰とも受験の話をしたくなかったし、結果とか手応えをでかい声で言うデリカシーのない人もいる。
そう思ったら、家から出られなかった。
直前の直前になって、現実逃避もした。
ずっと我慢してたドラマを見たり、漫画を読んだり。
1週間くらいの間、勉強をほとんどせず現実から逃れた時期があった。
赤本を開いては、怖くて泣いた。
夜布団に入っては、怖くて泣いた。
夢は受験の夢ばかりで。
毎朝5時くらいから1時間おきに目が覚めた。
そうこうしているうちに、大学受験が始まった。
2年目の受験する大学は、塾の先生との面談もして決めた。
第一志望は去年に引き続き早稲田だったけど、今年は慶應も受けてみよう、なんて思い小論文の授業も受けていた。
文章を書くのは好きで、小論文は先生にもよく褒められた。
特に自由に物語を書いたりするのは書いていても楽しかった。
昔から空想癖だったことがよかったのかな笑
二浪目の得意科目は最初から最後までずっと一番上のクラスだった英語と、現代文と小論文。
古典もさほど苦手ではなかった。
けれど、日本史は結局最後の最後まで本当に苦手で、どうしても戦国とか幕末とか自分が好きな時代のものは覚えて、文化史とか明治時代とかの内容が苦手で仕方がなかった。
日本史だけは2つしかないクラスを行ったり来たりしていた。
だから先生には、小論も英語もそこそこ得意、日本史が極度に苦手ならば、SFCを受けてみるのもいいのではないかと言われた。
言われて初めて知ったのだが、SFCは英語と小論文が受験科目で日本史がいつも足を引っ張る私には意外とあっているかもしれないと思い、受験することにした。
唯一の懸念は、場所が湘南台にあること。
私は湘南育ちで、ずっとその近辺に住んでいたから、大学は都内がいいなあなんて憧れもあった。
(今思えば、毎日通勤と同時刻に満員列車に乗るなんて私にはぜったい不可能、絶対不登校になっていたはず。。。笑)
二浪で受けた全ての大学が、
慶應(文、環境情報)、早稲田(社、文、文化構想、教育)、青学(人間科学部)、立教(文)、法政(人間環境、文)
の10個。
昔は大学にも、学歴にもなんのこだわりもなかった私が二浪の一年間で、二浪したからにはMARCH以上が絶対だ!なんて思うようになっていた。
(※ここら辺から各大学をランク付けするような描写が続きますが、あくまで一般論かつ受験生視点かつ筆者の主観ですのでご了承ください。どの大学、どの学部もそれぞれにそれぞれの魅力があります。本当に。)
人はどうしても周りからの目を気にしてしまう生き物かつプライドの高い生き物なのだな、と言うのも痛感。
本当は怖かった。
滑り止めが法政...もっとちゃんと、自分が受かる大学を受けるべきじゃないか?法政は私の滑り止めなのか...???
そんなことも思いましたが、親的にも、行く気のない大学を滑り止めといって受けても仕方ない、と言う方針で怖くてたまらなかったけれど納得はしてしまったため何が何でも受かるしかない!と言い聞かせていた。
そもそも2年も浪人したのだから、何が何でも早慶!!!!と思っていたのだけれど、どうしても全て落ちると言う想像ばかりが脳内を埋め尽くしていた。
まさに情緒不安定だった。
早慶!いや全落ちしたらどうしよう、そしたら人生どうしたらいいんだろう...いや早慶うかる!
それの繰り返し。
初日は、法政だった。割と緊張知らずで、試験会場についても、試験中でも寝るくらい緊張感のないタイプだった。
けれど、さすがの2年目。前の日はなかなか寝付けず、3度目の冬の朝の空気を嗅ぎながら初戦へ向かった。
一科目めの英語の試験が始まったと同時に問題用紙をめくったが、英語が全く入ってこなかった。焦った。難しいのか、緊張しているのか。
そこで、問題用紙を一度閉じて目を閉じて深呼吸してみた。
もう一度問題用紙を開いてみたら、ちゃんと読める英語だった。
そこからは流れるように立教、青学が終わり、早慶の試験になった。
正直、MARCHの段階で、手応えなんてものはなく、できた気も出来なかった気もしなかった。
早稲田の初日、昼休みに最初の試験結果、法政の合否が出た。
本当は、試験が終わってからみようと思ったけれど、気になって仕方がなく「落ちてても大丈夫。。」と言い聞かせて、結果を見た。
結果は”合格”だった。
初めて、寒いとかではなく、感動で手が震えた。
涙が出た。
会場だったから必死に隠したけれど、二浪にして初めて見た大学の合格だった。
人間というのは欲張りなもので、合格が出るまでは受けた大学どこでも行きたいと思っていたのに法政に受かったら、でもやっぱり早慶や青学立教の合格欲しいななんて思っていた。
立教は結局、現役から二浪まで一度も受からなかった。
純粋にむずかしかったし、縁がなかったのかもしれない。
綺麗な洋風のキャンパス。姉が通っていて、The キャンパスライフ!というイメージの象徴だったけれど。
早慶の試験も残りわずかになった頃、青学にも合格した。
青学は全体的に試験内容が基礎的で、易しく感じる分、高得点争いが予想されたからそこそこ手応えはあったけれど落ちたと思っていた。
渋谷、青山という立地神!な青学。去年までは落ちまくってたから、嬉しかった。
でも、やはり、受かるたびにさらに欲が出る。
最後は早慶の合格が欲しい、そう思っていた。
結局、3年連続、最後の試験は2/22の早稲田の社学。
でもこの年だけは何かが違った。
終わった瞬間、いや、終わる前から。
試験が終わる10分前くらいから、終わる、終わる、終わる、終わる、終わる。
ついに、終わるんだ。。。。
そう思っていた。
終わりのベルがなった。
校舎の外に出た。何年ぶりだろう。
肺の奥底から、空気を吸えた。
景色が、眼に映るもの全てがカラフルに見えた。
長かった。長かった。。。
弱い自分のせい、両親にも負担をかけた。
でも、本当に、辛かった。
苦しかった。息ができなかった。
何者でもない自分が辛かった。
自分が大嫌いだった。
心の底から、何度も消えたいと思った。
これまでずっと、自分はやればなんでもできるーくらいに思っていて、
でもそもそも”やる”ってことがどれだけ難しいか。
自分がどれだけ弱くて小さくて、何もないかを知った日々だった。
同時に、それでも、現役から合わせて3年間。
初めは望んですらいなかった受験に、ここまで頑張ってこれた。
耐えた。
ここまでよく粘った。
頑張ったなあ、お疲れ自分。
あの日、自分に絶望したあの日以来、初めて自分を少しだけ認めてあげた瞬間だった。
舞台が大好きだった私は、親にも許可をもらい、最終日、早稲田の試験が終わった後、その足で舞台を観に行った。
舞台が始まるまでの空き時間で、家族にラインをした。
無事に終わりました、という報告と2年間浪人させてくれてありがとう、という感謝を。
それに対して、母から来たラインを読んで、静かに泣いた。
長文のメッセージの一番最後は、
「ここまで頑張って来たあなたを誇りに思います。頑張ってくれてありがとう。」
だった。
浪人生活の中で手に入れたものは、現実の厳しさと努力と結果と成長と。
そして親への感謝。
そういう意味では、あの時、私は同世代よりも少し大人になったのではないかと思う。
結果として、早稲田は教育学部の補欠になったのみで、全然受からなかった。
全体的にも微妙だったし、結局日本史がダメだったように思う。
私の進学先は慶應義塾大学環境情報学部になった。
合格を見たときは、姉も一緒にいて、2人して大絶叫。震えながら親に電話をかけた。
早慶。嬉しかった。
とはいえ、当時は結局また湘南かぁ笑、都内進出図れず・・と思ったりもしたけれど、今の自分にとって、ここ以上の大学はないと思えるほど最高の環境になっている。
これについては、また追々記していきます。
2年間の浪人時代、特に二浪時代は、20年間で一番自分に絶望し自分に何も期待できなくなった。
けれど、ここまでやってきた、それがまた0から自分を構成する基盤になった。
あの時代がなかったら、現役で例え同じ大学、学部に入っていても今の私はなかったに違いない。
2年人よりも遅く大学に入ったことで、葛藤したことはいくつもあって(これも追々)、けれど、やっぱりあの日々無くして今のこの日々は訪れなかった。
人生は歯車だ。
きっかけ、タイミング、出会い、環境、、、、
いろんな要素が組み合わさって初めて、”今”がある。
だからこそ、あの日々は私にとって、辛く苦しく、けれど、
とても愛しい日々なのです。
改めて思います。
私、浪人して、よかったなあ
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こんばんは!2回目です!二浪篇!
いかがだったでしょうか....!!!!!!
まず前回と今回で私の受験生活をざっくり書いてみました。
うん、長い!!!!!!!!
7000字書いてます笑
レポートの7000字って地獄なのにこーゆーのはかけちゃうよね🤔謎
Yui☺︎