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雪の変幻


京都にもかなりの雪が降り、雪の銀閣寺の写真がSNSにアップされていました。
それと同時に思い出したのは、10年前に書いた「雪の変幻」という文章です。



  雪の変幻               『御幸町御池下ル』より

冬の京都に帰るのは三十年ぶりだった。新幹線から降りてホームに立つと、即座に冷たい空気が顔をつつみ、足元から冷えが伝わってくる。「底冷えがきついから」とずっと冬の帰郷を避けてきたはずなのに、生まれ育って身体で憶えたこの感覚が懐かしい。寒さが身にしむと、気持ちがきゅっと引き締まる。雪は降っていないが、雪曇りの空が町全体を覆っている。比叡山も東山も、昏(くら)く沈んでいる。


あれはいくつの時だっただろう、雪の銀閣寺を見たのは―。

ふいに昔の記憶がよみがえる。そうだ、確か中学一年のときで、朝からの雪がいっそう激しく降る午後のことだった。雪の少ない土地柄なのに、その日は朝から振り方が違っていた。いつもならふうわりと空を舞うようにして落ちてくる牡丹雪が、風のせいもあって斜めから降りしきり、いつ止むのかも分からない。そのとき突然、自宅で療養をしていた祖父が、銀閣寺を見に行きたいと言い出した。

その二年前に脳梗塞で倒れた祖父は、家の前をほんの五十メートルくらい、祖母の肩を借りて歩けるようになっていたが、外出らしい外出をしたことはなかった。だからこの希(ねが)いは、ずいぶん無謀なことに思えて驚いた。祖母もためらい、何とか祖父に諦めてもらおうとあれこれ言ったが、祖父の意思はかたく、結局タクシーを呼んで行くことになった。当時住んでいた下鴨から東山の銀閣寺へ、車はまるで雪の中を潜るようにして走っていく。同じ左京区でも西よりの我が家から銀閣寺まではだいぶ離れていた。北白川から東山寄りの坂道を上がっていくと、人かげも車もなく私たちだけになった。


タクシーに待ってもらって入口で拝観料を払うと、銀閣(観音堂)のある中庭へ急いだ。祖父は後半生をずっと和服で通したから、トンビを羽織っていたはずだ。祖母も一生「洋装」をすることがなかったから、着物用のコートを着てショールをしていたのだろう。そして私はおそらく紺色のオーバーにマフラーに手袋。だけど寒かった。しんしんと寒かった。

本堂の軒を借りて雪を避けながら、三人でひたすら銀閣を見た。池のむこうに佇む銀閣は錆色に黒く沈み、その周りを牡丹雪が斜めに降りしきる。周りの山も草木も、眠るように身を丸めていた。実際には雪の降る音もあっただろうが、音が一つもなかった、と思うのはのちにそのシーンを思い浮かべてのことだ。どこかこの世のものとは思えない景色。美しさの極みにはもはや人は存在しないのだろうか、そのように思わせる美しさだった。侘しくも寂しい風景である。そう、確かに、風景も人も―。七十歳代の祖父と、六十歳代の祖母、それに中学一年の、まだほとんど子どもの領分にいた私、三人のそれぞれが雪と銀閣を見つめていたのだから。

やがて、これ以上は祖父の身体に障るから、と祖母が言い、促されるようにしてタクシーまで引き返した。

記憶はそこで途切れている。

    *

祖父が亡くなったのはそれから二年後の昭和四十三年のことである。一時は健康もずいぶん回復していたのに、祖父はその数ヶ月前から少しずつ衰弱しはじめ、私が学校に行っている間に祖母にだけ看取られてひっそりと息を引き取った。春休みに入るまぎわだった。医者であったのに大の入院嫌いで、倒れてからも極力入院を避け、祖母にのみ看病されての数年間だった。

それまで親戚のお葬式に参列したことはあっても、自分の家からお葬式が出るのははじめてだった。何もかも知らないことずくめでマゴマゴしたが、一番驚いたのは、毎日祖父の看病に明け暮れていた祖母が、弔問の方々にその繰り言はいっさい言わず、代わりに十年も前の、勤めていた病院を祖父が辞めたことばかりを、堰を切るように話し始めたことだ。

 ―今までそういう話が出たのを聞いたことがなかったのに、病院を辞めたことが祖父にとっても祖母にとってもそんな一大事だったのだろうか?

当時、祖父の人生を理解するには子ども過ぎていたが、それでも祖母が話すのを切れ切れに聞いて、おおよそを知る事ができた。大きな総合病院に勤めていた祖父が、人事か何か政治的なことから、定年を待たずに突然退職したこと。それが祖父の人生をガラリと変えたこと―。

退職の直後、自宅で開業し始めた頃のことは少し記憶に残っている。東京で暮らしていた私が両親の離婚をきっかけに京都に引きとられて、二年もしないうちだった。小学校に上がる直前だったが、ある日突然、器具を消毒する大きな機械が搬入された。玄関と台所を結ぶ板の間が仕切られ、その仕切りには小さなガラス窓が取り付けられて「薬局」になった。私にとっては賑やかで騒々しい出来事だったが、祖母にとってはそうではなかったらしい。今でこそ分かるが、祖父はそれを機に社会と決別したと言ってもよかったし、収入も激減したのだから。


開業と言っても患者さんがまばらだったのは、祖父があまり健康に恵まれなかったことと、当時珍しく保健医療制度に反対していたことによるらしい。葬儀の折、祖母は口にこそ出さなかったが、開業の五、六年後に引っ越して下鴨に移ったことも、それから祖父が倒れて長い闘病生活(祖母にしてみれば介護生活)が始まったことも、祖父が病院を辞めたことに端を発しているような口ぶりだった。

祖父は産婦人科の、特に不妊治療を専門とする医者だった。父が後年、「おじいちゃんが生きていた頃の不妊治療って、今どきとは違ってずいぶん原始的だったと思うよ」と話し、私もそれにうなずいたことがあるけれど、そう話していたのも今から二十年以上前のことである。しかし祖父は当時なりに、不妊治療に全力をもって当たっていた。

しかも祖父は、保険の適応内でのみ治療をするのでは不妊治療など無理だと考えていた。今でも不妊治療は保険外になることが多いらしいが、祖父は保険適応にこだわらず独自の診療方針を取ることに決めていた。当然治療費も高くついただろうが、それは祖父の懐に入るお金ではなかった。だからその方針を理解して、なおも祖父の治療を受けたいというごく僅かな患者さんしか来なかったが、中には長年通っているうちに子宝に恵まれたという人もいて感謝されていた。高校のとき同級生から「うちのお母さん、おじいさんが病院にいはったころずっと診てもらっていて、それで私が生まれたんえ」と言われたときは、とても嬉しかったし、誇らしかった。

それに第一、私自身もたいへんな難産の末、祖父の手による帝王切開でとり上げられたのだ。高校生になってからかつて祖父がいた病院に行くと、古くからいる看護婦さん(と当時は言っていた)に「あなたが生まれたときはほんとうにたいへんだったのよ」とよく言われた。ずっと後になって母が「あのとき、お花畑が見えてその先にある川を渡ろうと思ったら、呼び戻されて気がついたの」と言ったことからも当時のことはうかがえるだろう。幸いその後は順調に育ったが、祖父にとっては嫁と孫を死から奪還したとも言える行為だった。

そのような難産の末に生まれたこともあり、祖父は私をとても可愛がってくれた。明治の人にしては珍しく身長が百八十センチ近くあった祖父は、恰幅がよく威厳もあったため、「エラい先生」と懼おそれられてもいたし、昔の男の人にありがちなように、これといった愛情表現をしたわけではなかったけれど、私はそのような頓着をせず、おじいちゃま、おじいちゃまと言っては懐いていた。幼稚園の年長さん時代から祖父はほとんど家にいたわけで、午前中数人の患者さんの治療に当たると、午後からはゆっくりとしていた。私にしてみれば祖父は恰好の遊び相手であり、小学校に入ってからは勉強の分からないことを教えてもらえる存在でもあった。祖父は通風で足が悪く、よく痛いと言っていた。

祖父は映画が好きでたまに河原町三条の朝日会館へ観に行こうとするのだが、それに気づくと私は慌てて祖父を追いかける。家の前で「おじいちゃま、どこへ行くの? 映画だったら私も行く!」と言ってきかない。「大人の映画だからだめ」と言っても私は「連れて行って」と連呼する。トンビを着てステッキをつく大男と幼稚園児の豆粒のような私が通りで押し問答をする光景には、近所の人も微笑まずにはいられなかったと、後に祖母がよく言っていた。懐かしい御幸町御池下(ごこうまちおいけさが)るのあの家と通り……。

    *

京都駅に着いてからしばらく時間があった。夕方、友人が仕事を終えたら会う約束をしていたが、それまでは時間がある。行ってみようか、御幸町に。何年ぶりだろう。背の高い鉄筋の建物が、かつて住んだ場所には建っているはずである。

河原町三条のバス停で降りると、新京極のアーケードをくぐる。途中の蕎麦屋さんで、京都に帰るとかならず一度はいただく「しっぽく」をまずは食べる。関東と関西では出汁がまるきり違ううえ、「しっぽく」は東京ではなかなかない。よく似たのに「おかめそば」があるけれど、かまぼこにしてもあらかじめ煮てある椎茸にしても、味付けが懐かしい。湯葉も入っている。美味しい。


新京極を出ると右にまがる。左手にはすきやきで有名な三嶋亭があり、ときどきお肉を買いに行ったっけ。そのときは高級なお店とは知らなかった。それから鳩居堂さん、ここでは祖母がよく便箋やお香を買っていた。「洋生」(ケーキ)を売る桂月堂さん。ここのおじいさんとおばあさんはとても優しくしてくれたので、学校の帰りにはいつも挨拶をしていた。そのまままっすぐ歩くと、近所の友達と遊んだ本能寺があり、向いには「御池煎餅」で有名な亀屋吉永があるがそこまで行かずに鳩居堂を姉小路で曲がると、すぐに御幸町通りに出る。右に曲がるとかつて我が家だった場所だ。町並はそれほど変わっていない。どんどんリニューアルされる東京とはえらい違いだ。古い町家がまだそこかしこに残っている。

それにしてもよい場所に住んでいたものだと思う。いわゆる老舗の品を普段使いしていたのだから。まっすぐ行くと「蕎麦ほうる」の河道屋さん、麩屋町通りまで行って左に曲がるとお蕎麦の河道屋さんがある。祖父はここのお蕎麦がお気に入りだった。こっちでお蕎麦食べてもよかったかな。今度来たらそうしよう。通りの広さは昔と変わっていないのに狭く感じるのは、きっと私が当時子どもだったせい。広いと思っていた家の間口も確かに広いのだけど、昔思っていたほどではない。


小学五年の時まで住んでいたその古い町家は、祖父のメガネにかなっただけあって普請のしっかりした家だった。もともとは運搬業か仲買といったお商売のために、江戸末期か明治初期に建てられた家であったのではないだろうか。よく見かける京町家よりも幅も奥行きも広かった。家の裏には当時も今も有名な旅館がある。

運搬業が生業だったらしいことは、紅殻(べんがら)格子の戸を横に引くと広く薄暗い土間があったことや、裏庭のいちばん奥に崩れかけた馬小屋の名残りがあったことからもうかがえた。母屋に部屋がいくつあったのだろう。一階に祖父の診察室(立入厳禁だった)、十畳床の間付きの部屋(縁側がついていたので、ずいぶん広く感じた)と小部屋が四つ、それに京都独特の暗くて細長い台所、二階には六畳くらいの板敷きの踊り場を中心に十畳と十二畳の部屋を含め四部屋があった。

書院造りの床の間には、軸が掛かっていた。祖母が季節ごとに掛け替える。正月には朝日のお軸、節分のときは鬼のお軸……という具合だった。それらの多くは祖父と親交のあった竹内栖鳳さんや橋本関雪さんら、いわゆる京都画壇の方々から「頂戴した」ものだった。寺町あたりへ祖父が散歩に行っては気に入って購入した(決して高価ではなくても祖父の美についてのラインを通過した)骨董の香炉や壷などが置かれていた。祖母が庭の花を摘んでは花瓶や壺に生けていた。

その庭は床の間のある部屋から見えて、春になると大きな沈丁花が咲き匂った。灯籠とつくばいがあった。敷石の向こうには二間続きの離れがあり、脇に大きな泰山木があった。その左奥(お手洗いの先でもある)に白壁の蔵があり、案の定「言うことをきかないと蔵に入れますよ」と言われたものである。蔵の左手は裏庭だった。青桐に棕櫚、それに大きな夫婦銀杏があり秋から冬にかけては金色の葉っぱと実を降らせた。もともと使用人のために作られたらしい小屋もあったが当時は壊れかけ、物置になっていた。馬小屋は物置と棟続きで一番奥にあり、黒い塀があった。その向こうは老舗旅館の裏庭である。

当時わが家に遊びに来てくれた友人は「すごい家だったね」と今でも言うし、私もそのような古色蒼然とした家に住めて今でこそよかったと思っているが、子どもの頃はこの家にほとんど魅力を感じなかった。広すぎるし、あちらこちら傷みが来ていた。大雨のときには雨漏りもしたし、直してもまた別のところが漏るという按配だった。寝る時間になり床に就くと、天井裏でねずみたちが「夜の運動会」を繰り広げた。暗い廊下(右手には中庭があり、真っ暗である!)の奥にあるお手洗いに夜なか行くなどは恐怖の極みで、小学校のかなり大きくなるまで祖母を起こして行ったものだ。その頃の私の夢は近代的なこじんまりした家か、できれば当時建てられはじめたマンションに住むことだった。

「そんなにすごい家に住んでいたなんて、何というお金持ち!」と思う方もおられるかもしれない。昔の、病院勤め時代は確かに華やかだったのだろう。薄暗い部屋に置かれたマホガニーの食器棚や食卓などは祖父がデザインして作らせたという。籐の寝台もあったが、それは大男の祖父の身体にあわせた別誂えで、それゆえほかの誰にもフィットしなかった。寝台の背中のカーブを私はよく「滑り台だー」と言って遊んだ。私が寝ると、ずずっと滑ってしまうからだった。しかし、私がものごころついた頃以降は「倹約、倹約」が祖母の口癖かと思うくらい、何も買わない生活だった。


どうしてこの家を出なくてはならなくなったかという経緯を祖母が聞かせてくれたのは、祖父が亡くなってからのちのことである。

「覚えてる? 小柄なおじいさんがうちに来て玄関先でしゃべりながら煙草を吸っていたの」

覚えていた。キセルで煙草を吸っている姿。祖母とは世間話をしていたが、しゃべり方にも身のこなしにも生粋の京都の人の雰囲気がした。

「あのおじいさんがね、御幸町の家の家主さんだったの」

「えっ? あの家、借りていたの?」

「そう。あのおじいさんが『欲しいときにはいつでも安く譲りますから』って言って、それでそのまま借りていたら亡くなられて、息子さんに代替わりしたらすぐに出ていってください、だったのよ」

「でも、居住権とか何とかあったんじゃない?」

「うちはおじいさんがね、裁判とか大嫌いだったでしょ」


そうだった。祖父の政治嫌い、裁判嫌いは徹底していた。ある時なぞは近所の人に頼まれて祖母が貼った選挙のポスターを、見つけるや否やあっという間に剥がしてぐしゃぐしゃにしてしまった。「こんなもの貼るな!」と祖父が珍しく激高して祖母に言っていたのを思いだす。

祖父の政治嫌いについて言うと、確かに祖父の退職も何か力関係の対立で起こったことだが、それ以前に、ある事件が我が家に起こったことが大きく影響しているのだろう。その出来事については、きちんと話を聞いた訳ではないが、かなり確証がある。祖父は詐欺に遭ったのである。

    *

島根県の石見大田という山陰の小さな町に生まれた祖父は、京都の大学を出て医者になったが、曾祖父(祖父の父)はなかなかの遊び人だったらしく、いわゆる「身上(しんしょう)を潰し」た状態で石見大田の土地屋敷を売り払った。それを戦後間もなく(混沌としていて、いろんな事件が起こった頃である)、買い戻さないかと持ちかけてきた人がいて、祖父は買い取った。ところがそこには銀行のさまざまな抵当がつけられていた。刑事事件にすることをせずにそれを引き受け、以降祖父は支払いをした。母が「結婚した当初、お金がほんとにない家でビックリした」とのちに語ったのもその直後の時期である。祖父に言わせれば刑事事件や裁判沙汰にすれば自分が死んでも記録が残る、それは恥である、ということだったらしい。島根県から出て来た京都で人々の笑い者になりたくない、という矜持もあっただろう。見栄や体裁もあっただろうが、それよりも何よりも完璧を望む美意識が祖父をそうさせたように私は思う。

しかし、祖母にしてみればやはり受け入れがたい事実であったのだろう。この事件については何も言わなかったが、ときどきふっと思いだすのか、暗い目をして「家を買うときはよっぽど注意して買わないと、抵当をつけられてエラい目に遭うよ」と私に言ったものだ。私は、日本が多少豊かにもなり、法整備もきちんとし始めた頃に育ったので一笑に付していたが、父が亡くなった後、田舎の土地の謄本を取ったら、その土地には古い抵当がいろいろとつけられたままになっていた。返済はし終えたものの、登記はそのままにしていたらしい。


祖父が社会や人とあまり交わらなくなった背景にはこのようないくつかの事件があったと思われるが、祖父が若い頃からあまり身体が丈夫ではなかったことも、祖父の生き方に影響していたのではないかと思っている。通風で足が不自由になり、杖をついて歩くようになったのは恐らく五十歳代で、それ以降は高血圧や何やかやいつも体調がよくなかった。家でいつもゆったりしていたと言うとその通りだったが、とにかく無理のきかない身体だった。医者の生活には体力勝負のところがかなりある。しぜん社会から身を引くかたちになったのではないだろうか。そして、御幸町の家は祖父母にとって小さな美の王国になったのではないだろうか。


祖父が亡くなって少しあとになるが、父がめずらしく祖父のことを話しているのを聞いたことがある。たまたま父がいるときお焼香に尋ねてこられた方が、二階の客間にある扁額に目を留められた。それは御幸町の家でも欄間に飾られていたもので、端正でありながらどっしりした楷書で「小自在」と書かれていた。左端に木堂という署名と落款があった。子どもでも読める字ばっかりなのに意味が分からず、小さいときから「これってどういう意味?」と尋ねたものだが、祖父も祖母も説明してくれたことはなかった。

父はそのお客にこう言った。「この扁額は父がずっと以前に寺町あたりで買ってきたものでしょうか。木堂というのは犬養毅のことですが、真偽のほどは分かりません」

「ほう」という顔をその人がした。どういう方なのかは分からないが、祖父とも父とも親しかったと思われる。

「おそらくですが、小さくとも自らの在る、と読むのでしょうか……」

何か考えごとをするようにしばらく間をあけてから、父が言った。「これを見ていると父の生き方そのものだったように思えましてねぇ」


「ゆう子もこれを見ておきなさい」

雪の銀閣寺を見ながら、祖父か祖母は言ったはずである。いつもそうだった。何か少しでも美しいものがあると、それは家にある古い漆器や茶碗だったり、美術展だったり花や庭園だったりとさまざまだったが、いつも「これを見ておきなさい」と言うのだった。美しいものへのつきぬ思い、祖父と祖母はその同じ価値観で繋がっていたような気がするし、こうも思う。二人とも美に殉じながら日々を生きていたような、そんな一生だったと―。


祖父の葬儀はお彼岸の中日に執り行われた。「暑さ寒さも彼岸まで」と冬の間よく祖母が言っていた。それならもう暖かくなってもいいはずなのに、葬儀がはじまる頃に大きな牡丹雪が降りはじめ、次第に激しくなってきた。玄関から庭に入り、座敷の祭壇に向って焼香をする方々は、庭木に邪魔をされて傘がさせず、髪や肩を白くしておられた。出棺の折、雪はいっそう激しくなっていた。何か話そうとすると口の中に雪が入りこんで息をふさいでしまうような、激しくもやわらかい春の雪だった。寒冷前線のせいと言えばそれまでだが、すでに肉体を離れた祖父の魂が雪を降らせたとも、美神が祖父の終焉を雪で飾ったとも私には思えた。

「よう降りまんなぁ」

呟くように誰かが言った。

京ことば独特の、音楽のような抑揚がいつまでも耳に残った。


(了)






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