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「不惑」になれない問題

四十にして不惑というのですが、現実の自分は五十路が近くなっているのに迷いだらけだし、煩悩だらけである件。
 
私のメンターは20年ほど前にインドで出会った会社の先輩なのですが、会うといつも「歳を取ったら『これでいいのだ』だよ!」との教えを頂きます。その方の携帯の待ち受け画面は「レレレのおじさん」です。

これでいいのだ

社会はうまく出来ていて、紆余曲折・七転八倒を繰り返しながら自分へフィードバックが与えられます。
頼んでいない人格否定を「良かれ」みたいな顔で修行に課してくる人とか

全力を尽くしてこれ以上出来ることは無い、と準備したものが何ひとつ
うまくいかなかったりとか
その度に「俺って何なの?」と悩んだり、クヨクヨしたりします。
 
「会社」という公器を通じて周りのために、ひいては世の中のためにと思って日々取り組んでいることなのですが、良くも悪くも「これはいいよ、それはそうじゃないよ」という反応や結果が返ってきて行動に微修正を掛ける必要が出てきたり。
 
私の経験だと、「これをやってくれないか」と人に頼まれたことにチャレンジしたプロジェクトは成功が多くて、自分でゼロから企画したプロジェクトはなんだか上手くいかない。
 
そんな試行錯誤をしているうちにも歳は確実に取っていくわけで、ここで私のメンターの言う「これでいいのだ」に戻るのですけれど。
 
もう世間からのフィードバックと修正は十分に受けたから。まだ「違うよ」とか言う人は時々現れるけど、もうこの時期になったら「個性の違い」の範疇です。今のスタイルで宜しいんじゃないでしょうか。人生これが大事と今まで信じてきた道なんでしょ?と自分に言ってあげましょう。
 
そういうことかなと思い、冒頭の「論語」に戻るのですけれど、
「不惑」。もともと孔子のレベルと自分を比較するから無理があるわけで。
意味をもっと浅薄にして、自分のレベルに合わせた基準にした方が良いと思いました。
ここにご紹介します。
 
「論語」簡易バージョン (薄く気楽に生きるVer.)

子曰、
吾十有五にして学に志す。
「何のため」とか色々疑問はあると思うけれど、後々のために勉強はしておきましょう。
三十にして立つ。
この時期は、がむしゃらにとにかく頑張ってみましょう。
四十にして惑はず。
40を過ぎたら、クヨクヨすることを止めて、「私はこれでいいのだ」と言ってあげましょう。
五十にして天命を知る。
50を過ぎたら、自分が自然と魅力を感じることにのみ力を入れるようにしましょう。
六十にして耳順(したが)ふ。
そうすると、60を過ぎて周りのご縁が割と楽しいことだけになってたりします。
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず。
70以降はそれをただ楽しみましょう。今まで頑張ったんだからそれでいいじゃない。
 
こんな風に生きれば、時々遠くから気の合う友人が訪ねて来たりします。嬉しいことじゃないですか。

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