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【シンエヴァ・ネタバレ雑感】(エヴァのない)この世界はなんて美しいのだろう


正直、エヴァにあまりハマっていませんでした。リアルタイムで追いかけてきたわけでもないし、膨れ上がった自意識を見せつけられる演出にもずっと違和感を覚えていました。むしろ、嫌な気持ちさえ持っていたと思います。
エヴァのデザインも気味が悪いし。

ただ、私は物心ついた時からエヴァのある社会に暮らしてきて、周りにも好きな人が多かったので、なんの疑問も持たず、全ての作品を観てきました。エヴァを観るのが社会的に是だったから観ているのだとどこか義務感に近い形でエヴァを観ていました。

もちろん、モチーフには面白い部分もあるし、エヴァを介した楽しい思い出もたくさんある。明確に嫌いというわけでもない。だから、最終回を観るのもやぶさかではないかな。そんな心持ちでシン・エヴァンゲリオンを観に行ったのです。

上映中、序盤からずっと号泣でした。
私はエヴァンゲリオンが好きでした。

初めての気持ちに驚きながら、ここから、初見での感想・解釈を書き連ねてみようと思います。書いていて、思ったより自分がいろんなことを考えていたのだと気づきました。
書き振りが乱暴ですが、思ったことを書きたいのでちょっと言葉が強くなっているだけです。そして、ネタバレをします。絶対に観てから読んでください。

雑感①

しっかりとした完結編だった。ずっと涙が止まらなかった。
私が住むのは地方都市であり、映画館も制限を受けていないので、仕事が終わったその足でレイトショーに赴き、ほとんど空席の劇場で鑑賞することができた。
コアなファンではないが、子どもの頃からエヴァのある世界に生きてきたので、これでおしまいとはっきり分かったのがそれなりにショックでもあった。
エヴァというカルチャーを通して出会った友人のこと、特別な思い入れこそないながらも感動したTVシリーズ、旧劇場版の記憶が全て甦ってきた。まるで卒業式のような感傷だ。熱心に追ってきた人にとってのカタルシスはとてつもなく大きなものだったのではないかと思う。

今作は、あまりにもセリフですべてを語っているから、それはQで説明しておけば観客は混乱しなかったのではないか、と思うところも多々あったが、それができなかったのだろうとも思う。

その理由の一つとして、聖書をモチーフにし、人類という種について描いた場合に避けて通れない「ノアの方舟」の問題がありそうだ。
人類補完計画は、人類の補完という側面でしか議論されていないので、やはり地球に存在する種の保存はどうするのだろうという疑問が残る。
かつて、海洋研究所が登場したことやスイカに代表されるように動植物への慈愛に満ちた加持リョウジというキャラクターがサードインパクトを止めたことを考えると、ネルフから奪ったAAAヴンダーが方舟だったという展開は、容易に想像できる。
きっと私のようなライトな層に方舟の話を意識させないように加持リョウジがQには登場しなかったのだろう。エヴァは『ふしぎの海のナディア』の再構築なのだと結びつける熱心なファンにとっては方舟の話が出ることなど予測済みで、これから起こることの心構えもできているはずだから、考慮に入れなくてもいい。

何を言いたいのかといえば、ヴンダーが方舟であるとしたとき、そこには洪水を描く必要があるということである。しかし、東日本大震災直後の日本の社会状況として洪水を表現することは難しかったのではないかということだ。

その点、シン・ゴジラで災害をメタ的に描くことで、庵野監督は次に進むことができたのではないだろうか? 洪水を描く。復興過程の日本で、この直裁的すぎる表現を行うためには災害・怪獣・特撮映画が適切だったのだと思う(ゴジラをカテゴライズできるのかという問題はあるが)。表現を守るという意味で、シン・ゴジラという作品はエヴァにとっての防潮堤になったのではないだろうか。
時流に乗った表現すれば、ゴジラを災害のメタファーとして分かりやすくメタ的に描き、観客に知覚させることで、のちのちエヴァで表現する津波や洪水そのものが持っているショックを和らげる免疫を獲得させたかったのでは、と思った。

個人的には、『シン・ゴジラ』や『君の名は。』のような災害を描く作品を経て、被災地東北出身の自分はようやく災害を娯楽として観る耐性がついた。娯楽として観ることができるようになるまでに長い歳月が必要だったので、シン・エヴァンゲリオンが今年公開されて良かったと思っている。

ところで、新劇場版を通して、私がずっと気になっていたのは、真希波・マリ・イラストリアスというキャラクターである。
彼女が登場した瞬間から、このキャラクターがエヴァを終わらせてくれるのだと予感があった。
ここからは、その理由を拙いながらもまとめつつ、私が受け取ったエヴァンゲリオンの物語について書いてみようと思う。きっと、熱心なファンにとっては陳腐なことと感じるだろう。的外れかもしれない。それでも、この映画で涙した私はこれを書かずにはいられない。なんだか始まる前から終わってしまった恋を思ったラブレターのようなもので気恥ずかしいけれど、”まだ何も伝えてない”と思うのは嫌だ。

マリとは何者だったのか?
1. マリ エンドに納得
2. マリの役割とは?

1.マリエンドに納得

新劇場版におけるレイもアスカもヒロインだと感じたことはなかった。仮にレイエンド、アスカエンドという言葉があるとしたら、やっぱりマリエンドが一番ふさわしい。それは、ヒロイン的なキャラクターそれぞれに担う役割がはっきりとしており、新劇場版は彼女たちを含めたキャラクターの役割を解放する物語だったからだ。

私はレイ、アスカ、マリの役割を単純化して、このように見ていた。

 レイ→シンジを守る存在。綾波レイは彼の母親を投影した存在でかつ、ゲンドウに対するオイディプスコンプレックスを象徴する存在。
アスカ→シンジにとって同族。嫌悪する対象かつ初恋の対象であり、たとえ結ばれても、共依存でしか結びつかない。
マリ→物語を終わらせてくれる存在。物語論でいうところのデウス・エクス・マキナ。

この分け方の場合、レイエンドはあり得ないものと個人的に思っていたので、アスカエンドにしなくてよかったと思うポイントを補足する。

きっと、アスカと結ばれることになれば、エヴァンゲリオンは永遠に続くだろう。内罰的な二人が一緒にいることで共依存として関係が続くと考えたからだ。
それも美しいかもしれないけれど。
人類補完計画における他者との交わりに関する議論、ATフィールドという設定、ヤマアラシのジレンマといったモチーフの中で随所に語られる自意識は、物語を推進させてきたが、結局どこにも連れて行ってくれなかった。

今作では、他者からの承認に飢えていた二人が、人の優しさに触れて真っ当に成長していく姿を見せ、膨れ上がった自意識によって物語を推進させなかったからこそ、私はその成長に涙をこぼした。

二人が自分だけのためではなく、みんなだけのためでもなく、自分を含めたみんなのために行動する姿を見ることができた。それをみんなが後押しする大団円に感動した。

また、健全な恋愛関係になれないであろう二人の十代の初恋を実らせる話ではなく、14年の時を経て大人になるという落とし前は、アスカが生きた時間への作り手の敬意・誠意が感じられた。14年間シンジを待ち侘びることの感動もあるかもしれないが、それはアスカの成長過程として不自然だと思う。さまざまな人と触れ合い、サクラを気遣いつつトウジの写真を渡したり、シンジに「好きだった」と打ち明けられる成長こそ、14年の時間が人に与えてくれるものだろう(クローンだったとしても、使徒だとしても)。一方で、旧劇場版のアスカらしきアスカ(概念としてのアスカ?)にシンジが好きだったと告げるところも、TVシリーズからの一連の流れに決着をつけるシンプルかつクリティカルな一言で、人間的な成長を感じた。自分で責任を取り、決断したシンジに拍手。

2.あらためて考えるマリの役割とは?

熱心なエヴァファンでもなければ、関連書籍を読んだわけでもない私はこれに正確な答えを出せない。あらためて勉強すればいいのかもしれないが、初見の感想を書き記すことがこの記事の目的なので、自分なりに考えたことを書いてみようと思う。

上述の通り、破でのマリの登場シーンで、私はこの物語を終わらせる存在だと感じた。複雑な物語を終わらせるには、デウス・エクス・マキナ (物語を収束させる存在)の役割が必要である。私は、その役割を担うのが真希波・マリ・イラストリアスではと想像していた。正確には無意識にそう感じていた。

それは、彼女がパラシュート(落下傘)で物語にやってきたからだ。
よく、地元ではない選挙区から出馬した候補を落下傘候補というが、彼女は文字通り「落下傘」なのだ。TVシリーズ、旧劇場版出身ではない彼女は物語をこれまでと異なる方向に進めていったように感じる。

マリがシンジとぶつかったあと、彼が持っているプレイヤーのトラックは「26」から「27」に進んだ。TVシリーズが26話構成だったことを考えると、ループしていた世界が進んだ瞬間としてあまりに明示的なシーンだ。

このシーンを見た時の私の感想は、もっと単純で、なぜわざわざパラシュートで落下してくる必要があるのだろうか? だった。出会いの方法はいくらでもあったのに、空から降りてくる少女を少年が受け止めるというラピュタ的ボーイミーツガールを演出したのは、意味があると私は直感したのだ。

事実、2号機で裏コード「ザ・ビースト」を発動したり、彼女はある種のトリックスターとしての役割が与えられていたように思う。(その直後に綾波の「碇君がエヴァに乗らなくてもいいようにする」と、今作につながる大切なセリフがある)

「いじけていてもいいことないよ」とシンジを鼓舞し、立ち直らせたりもする。

マリの役割は、今作の冬月の「イスカリオテのマリア」というセリフにも現れていると感じる。「イスカリオテのユダ(裏切り者)」+「マグダラのマリア(復活を見届ける)」この二つからなる造語で呼ばれるマリは、この物語のシナリオを組んだ者たちを裏切り、シンジの復活を見届けることとなる。

やはり、マリは物語を終わらせる役割をきちんと与えられた存在なのだと思う。

だから、マリ自身が自分に与えられた役割(物語を収束させる)から解放されるためには、物語という虚構に取り込まれ、エヴァのキャラクターとして都合の良い神様の役割に昇華されてしまうシンジをエヴァのない世界に連れていくとともに、自らも物語の外側に一緒に行き、物語を終わらせる必要がない場所まで辿り着くことが必要だったのだろう。

 この世界はなんて美しいんだろう

このようなことを無意識下で感じていたので、今作のラストで、実写に移り変わっていくシーンで、感動した。

マリとともにエヴァの呪縛から解き放たれ、虚構から帰ってくると共に、実写へ移行していくのはシンジがエヴァのない世界に行くことができたと示す最高の演出だったのではないだろうか。舞台が実写に飛んだことで、今、劇場で映画を見ている私、観客にとってのエヴァをも終わらせたと感じた。

電車という決められたどこかへ連れていくモチーフに乗らず、駅を駆け出した二人の姿にも戻らないというメッセージを感じた。もし乗ったとしても、反対のホームにいるカヲル、レイ、アスカとは行き先も違う。

完璧な終劇だった。

エンドロールのOneLastKiss、Beautiful Worldが流れている間、絶えずあふれる涙を堪えることなくマスクを濡らしながら余韻を噛み締めていた。

「碇君がエヴァに乗らなくていい」この世界はなんて美しいのだろう。
さらば、全てのエヴァンゲリオン。

さようならはまた会うためのおまじないだ。

余談: セカイ系の終わり

※完全な余談で飛躍なので面白半分で書きます。

マリは「どこにいても必ず助けに行く」という強い使命感を持っていた。
このセリフ、「君の名は。」の瀧君などに見られる世界線を飛び越える主人公たちのセリフだと感じた。
虚構に取り込まれていくシンジを救い出す際の「ギリギリセーフ(正確には覚えていない)」というセリフの中にも、それまでの物語の困難さが感じられた。
だから、成長したシンジ君の声を神木隆之介が当てていたのは、鳥肌の立つ流れだった。セカイ系の主人公的ムーブをかましたマリの相手はやはり世界の命運を握るシンジであるのが相応しい。きっと、マリ視点の物語もありえたのだろう。

そして、ラストは、綾波・カヲル、アスカ・ケンスケの関係性へと収束していき、シンジとの関係値で物語が元通りになる可能性も否定されたように感じた。

これは、後に続く作品群にかけられてしまったあなたと私の関係値で世界のあり方までも変わってしまういわゆるセカイ系の呪縛も終わらせようとしていたのでは? と感じた。

雑感②

マリ視点の物語もきっとありえたと書いたが、これは、安野モヨコ先生が庵野秀明監督を救いにいく話として語られる物語かもしれない。

エヴァは現行の作品として生き続けるのではなく、
古き良き名作、神話になってもいいのではないかと思う。

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