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恐怖症

 きのう恐ろしい体験をしたので、書き留めておこうと思う。

 おとといからぐっと気温が下がり、朝起きると少し喉に痛みがあった。風邪気味かなぁ、と思いつつ、予約していた歯医者へ。妊婦は虫歯になりやすいらしい。

 麻酔を打ち少しのあいだ時間をおいてから、シートが倒される。天井の明かりに目を細めていと、口の部分だけが丸く開いたタオルが顔にかけられ、いつものように治療が始まった。

 開始から5分もたたないうちに、何だかそわそわして目を開けた。いつもならばうとうとし始める頃なのに、顔にかかったタオルを煩わしく思う。徐々に喉に溜まっていく水を不快に思ったが、歯の治療ではよくあることだ。これまでそれが耐えれなかったということはない。ゆっくりと呼吸をしてみる。鼻の左側だけ麻酔が効いていた。やっぱり気分が悪い…そう思った私は、毎回言われてもほとんど実行に移すことのない、左手をすっと上げた。

「うがいしてもいいですか?」

 2、3回、口をゆすぎながら、今日は治療無理かもしれない、と本気で考える。むしろ次回も来れないかもしれない。自分でも理由が分からないが治療の再開を思うと、今すぐこの場から逃げ出したいくらいの気持ちだった。それでも、自分に落ち着けと言い聞かせ、軽く頭を振る。何度か深呼吸をすると、少し呼吸が楽になっていることに気がついた。

「すみません。頭を倒しすぎると気分が悪くなるのかもしれません」

 妊娠中によくある貧血で呼吸が浅くなっているかもしれない、と私は思ったのだ。実際、首から頭にかけて傾きがきつかった。不安は全く拭えなかったが、逃げ出すのもまだ早い気がする。もう少しがんばってみよう…。軽く倒すことにしましょうと先生は優しく言い、シートがゆっくりと倒れはじめた。首筋や腕がぞわぞわし、心臓が小刻みに震える。

「タオル、かけずに治療してもらえますか?」

 もちろん大丈夫です、と快い回答にほっとする。顔に水かかりますが、と言われ「それは全然大丈夫です」と答える。正直、この時点でかなりパニクっている。メイクもしていたし、本当は水しぶきなんて少しも浴びたくなかった。でも、それどころではない。本当に非常事態である。目を閉じると怖いので、先生の手や機械のアームをじっと見ていた。変な人だと思われたくないと思うと恐怖心が一挙に高まるのを感じ、今自分は凄くヤバい状況に置かれているのだと思い直し、とにかく自然に、ゆっくり呼吸をすることだけに意識を集中させた。

 どうにか治療を終え、会計を済ませて私は道向かいのコンビニに入った。まだ心臓が力なく震えているのを感じ、さらさらとした甘い飲みものを飲もうと思った。この際、値段は高くてもいい。きざまれたフルーツが贅沢に入った紅茶のパックを見つけ、手に取った。

 コンビニの一角に設けられたイートインスペースは広々としていた。利用している人はいなく、窓越しに秋らしい青空が見える。私は席に腰かけ、太めのストローをさした。ぽん、と小気味よい音が鳴る。小さな果肉とともに甘く冷たい紅茶が喉を通っていく。一気に半分ほど飲みほした。その時、風邪で鼻の通りが悪くなっていることに気がついた。かろうじて通りのよいの鼻は麻酔でまだしびれている。ようやく私は理解した。貧血で呼吸が浅くなっていたこと、普通に動いている分には気にならない程度の鼻づまりでも横になると悪化すること、麻酔でしびれた鼻の違和感、シートの傾斜で喉の奥に溜まっていく水…。それらの要因が重なってパニックになりかけたのだ。

 頭の中で我が身に起こった状況が幾分整理されていくにつれ、私はやっと平常心を取り戻した。どうしてそうなったのか、原因が分からなければまた突然そうなるかもしれないと怯えるしかないのだ。

 私の周りには、恐怖症を抱えている人が割と多くいる。夫もそのひとりだ。私はずぼらな性格で恐怖症とは無縁の人生を送ってきた。昔からあがり症ではあるが、閉所や高所が苦手だとか、人混みが苦手だという人の気持ちはよく分からない。飛行機が苦手だという夫に、私はいつも「大丈夫、大丈夫、私も隣にいるんだし」と言い、明るく励ましている気になっていた。

しかし、今回のことで、その恐怖の感覚を少しだけ知った。もう二度と味わいたくない。

 呼吸ができないというのは恐ろしい…。よくパニックになると呼吸ができなくなると聞く。軽い風邪だが、来週の予約までにはきれいさっぱり治そう、治らなければ迷わずキャンセルしよう。…私はそう固く心に決めている。

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