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ネガティヴケイパビリティについて改めて深める
『ネガティヴケイパビリティ』について、以前マネジメントに必要な能力として挙げ、それをどうしたら身に付けられるのかについて考察した。
再び「どうしたら身に付けられるのか」について改めて考えようと思い、参考図書として「無知の技法」という書籍を読んだ。
本書は本筋は「『未知』に対する向き合い方」について述べられている書籍だが、ネガティヴケイパビリティについても触れられている。そして本書の中でもその方法は「体験することのみ可能なもの」とされており、自分の考えとも合致していた。
つまり、勉強して学ぶものではなく、体験して会得するものであると。
結局、今回も「どうしたら身に付けられるか」について新たな知見を得られたわけではないが、本書を通してネガティヴケイパビリティそのものについて改めて考察を深められたので、それをここに記しておきたいと思う。
人間は「確信」が大好きである。
人間は「わかっている」状態が好きである。とりわけ「確信」が好きだ。
どんな状況でも確信したがり、確信している状態が心地よい。
そして確信している人を何だか頼もしく感じてしまったりする。(断言する人の言うことをついつい聞いてしまうのもそのせいだ)
自分より上位レイヤーの役割(例えば親、上司)には「確信していること」「知っていること」を期待しているし、求めている。
反対に「わからない」状態が大嫌いだ。とても居心地悪く、不安で不快だ。
人間は「わからない」状況に曝露されると、極めて不安・不快なので、安心できるように確信しようとする。具体的には状況をコントロールしようとしたり、分析に没頭したり、「とりあえず行動することが大事」と拙速に行動を起こしたりする。
もしくは反対に、事態から逃避したり、絶望して放棄する。
こんな感じで「確信」が大好きで、「わからない」ことは大嫌いなものだから、いついかなるときでも確信できるように日頃から勉強し、知識をつける。
これを「ポジティヴケイパビリティ」といい、現代社会の、とりわけビジネス分野の主流である。
VUCAの時代
現代はVUCAの時代と言われている。「Volatility(変動性)」「Uncertainty(不確実性)」「Complexity(複雑性)」「Ambiguity(曖昧性)」の頭文字を取ったもので、ざっくり言うと「変化のスピードが速く、先の見通しが立てられない、曖昧で複雑な社会」という意味だ。
VUCAの時代ではポジティヴケイパビリティは通用しないことが多くなる。
何故ならポジティブケイパビリティは既存の知識を積み重ねていくことだが、VUCAの社会ではこれまで遭遇したことのないような事態に出くわすことが多いからだ。そこでは既存の知識は役に立たない。
それにVUCAの社会では変化のスピードが極めて速いので、過去に仕入れた知識がすぐに古いものになっていく。ついこの間まで「常識」だったものが常識ではなくなることなど頻繁だ。
よって、既存の知識を積み重ねることは大切だが、それとともに「未知」のものに出くわしたときにどう対峙するか、そしてそのための能力が必要になってくる。
VUCAが連れてくる「未知」とは、「どうなるかわからない」「どうしたらいいかわからない」という状況だ。
上述したように、人間にとって「わからない」=「未知」はとても不安で不快だ。
人間は「未知」の場に放り込まれると、自分が無能に思えて恥ずかしくなり、場違いな気がして、逃げたくなってくる。
ライトな例を挙げると、昔僕はソーシャルインパクトボンド(SIB)に関する研修会に参加したことがあったのだが、会場について手にした資料が全編英語で講師陣も外国人ばかりという状況に遭遇したことがあった。
僕は完全に日本語の資料・日本人の講師だと思い込んでいたので、「どうなるかわからない」「どうしたらいいかわからない」状況に急に放り込まれたのだ。
僕は英語がしゃべれなかったので、途端に他の参加者に比べて自分が劣っている人間であり、この場に居るべき人間ではないように思えてきて、恥ずかしくなり、会場から逃げ出したくなったことを覚えている。
まさしく「未知」に遭遇したときの反応だった。
ポジティヴケイパビリティが不利な理由
このような「どうなるかわからない」「どうしたらいいかわからない」状況は人間にとってネガティヴである。
人間は「わかっている」ことが大好きで、そのような状況はポジティヴなので、「わかる」ようになるためにポジティヴケイパビリティを磨く。
しかしVUCAの現代社会は、ポジティヴケイパビリティでは通用しないネガティヴな状況を連れてくる。
このネガティヴな状況に対峙するための能力がネガティヴケイパビリティだ。
このネガティヴな状況に対峙する具体的な方法は「そこに留まること」「とりあえず答えを出さずに、そこに居続けること」だ。
これは「耐える」と言ってもいいのかもしれない。
コントロールしようとするのではなく、分析に躍起になるのではなく、とりあえずやってみるのではなく、ましてや逃げも諦めもしない。
逃げる・諦めるは置いておいて、何故「コントロールしようとする」「分析」「とりあえずやってみる」はダメなのだろうか?
まず「コントロールしようとする」は単純にコントロールできないからだ。上に挙げた参考図書「無知の技法」の中でも、人間はものごとをコントロールできるという幻想をもっているが、人間は先の予測は出来ないし、事態をコントロールすることは出来ないと述べている。
「分析」についてはどうだろう?一見問題を客観的に把握するために分析をするのはいいことのように思うが。
本書では「解決どころか定義することさえ難しい問題にぶつかったとき」にそれは通用しないと述べている。つまり我々がイメージしている問題より、VUCAが連れてくる問題は想定外に「わからない」のだ。
また本書では「分析に頼りすぎるのは、行動を先延ばしまたは回避する手段でもある。分析していれば、その最中はやるべき作業が明確なので、気持ちが楽なのだ。」とも指摘している。
このことは「とりあえずやってみる」とも相通じる。
一見聞こえの良いことの言葉だが、本書はこれも「表面的な答えを出すことで、『知らない』ことの居心地悪さを避けようとする」行為だと指摘している。
「とりあえず何か行動していること」が免罪符となるのである。
しかし、これでは既存の知識が通用しないVUCAの世界では効果的な打ち手にはならず、失敗に終わることが多くなるだろう。
ネガティヴケイパビリティの利点
ではこのような「わからない」ネガティヴな状況において、分析するでなく、とりあえず行動を起こすのでなく、「留まる」ことはどのような利点があるのだろうか。
ネガティヴの中に身を置き、そこに留まり、ただ目の前のことに対応し続けていると(「留まる」というのは「何もしない」という意味ではない。日々生じる出来事には対応しないといけない。ただ拙速にわかろうとしないということだ)、次第に恥ずかしさや無能感・場違い感は和らいでくる。
これは「時間」というリソースを上手に活用しているということだ。時間というリソースは「慣れる」という効果をもたらす。
そして時間を活用していると、未知に放り込まれた当初より周りの視野が拓けてくる。完全に未知だったものが少しだけ親密なものになってくる。
そうすると問題に対して「こうしてみようかな」と思える”解”が自然と現れてくるときがある。
この”解”はもちろん正解という意味ではない。正解など誰にもわからない。しかし、それは拙速に打ち出した解よりも落ち着いた、納得感のあるものになっている。
この「こうしてみようかな」という解は、新たな知識というよりは、新たな知恵である。
「わからない」というネガティヴな状況と対峙したとき、まずすべきは「降参」である。「わからない」ということを認めるのである。
それはとても苦痛を伴うものである。何故なら自分の弱さや不完全さと向き合わざるを得ないからだ。
既存の知識で解決できる状況の中では有能感を持ちながら生きていけるが、一度未知の世界に放り込まれるとそうはいかない。
「今の自分では太刀打ちできない」と心から認める必要がある。
ただその苦痛を伴う儀式をがんばって耐えきったとき、自身の中に謙虚さが生まれ、謙虚さは自身の内面に「新しいものを生み出す余白」を創り出す。
謙虚さのない「わかるはず」「コントロールできるはず」という内面には新しいものを容れ込んだり、生み出したりする隙間はない。
これはイメージしやすいと思う。
「わかるはず」「コントロールできるはず」と思っている人は、今の自分が完全で、今の自分で事足りるはずだと思っているから、新しい発想などは不要なのだ。だから余白がない。
対して、自分の弱さを認めた人間は、今の状況に対応するために「今の自分には無いもの」が必要で、積極的に新しいものを求めるマインドセットになっているのだ。
比べれば、どちらが新しい知恵を生み出せるかは明白だろう。
ネガティブケイパビリティについての再考察
これまでに述べてきたようにVUCAが連れてくる「わからない」状況には既存の知識の積み重ねでは対処できないことが多く、拙速に何かをするのではなく「わからない」状況に留まる能力が求められる。そしてそれをネガティブケイパビリティという。
ネガティヴケイパビリティは、まず「わからない」ことに降参することから始まる。
自分には「わからない」ことを認め、自分の弱さを認め、自分が不完全であることを認めることでネガティヴケイパビリティは培われる。
それは逃げることでも放棄することでもなく、自分の弱さを認めながらも居続けることだ。
このプロセスは謙虚さをもたらし、謙虚さは今の自分には無いものを求めるマインドセットを構築し、そのマインドセットは自身の内面に新しい知恵を生み出す余白を創り出す。
ネガティヴな状況の中に身を置き、留まり続ける中でその余白が創り出されたとき、自然と「こうしてみようかな」と思える”解”が現れてくる。
それはけして正解ではないが、落ち着いた納得感のある”解”である。
上記がネガティブケイパビリティの効用だ。
僕はこの能力をVUCAの時代などを用いて、特にマネジメントに必要な能力として考察してきた。
しかし今思う。
これはマネジメントの分野にも大いに活用できるが「マネジメントのための能力」ではない。
ネガティブケイパビリティの中で大事なのは、自分の弱さ・不完全さを認め向き合うことであり、その態度が新たなものを生み出す余白を創り出すというプロセスである。
これは単なる一直線上のプロセスではなく、人生を生きていく上で繰り返し続けるサイクル(螺旋)とすべきであり、そうすることで人間は絶えず新しい自分にバージョンアップすることが出来る。
つまりネガティブケイパビリティとは「人間が成長するために必要な能力」だと思う。
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