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幻想領域を誤読する。

吉本隆明氏の著作『共同幻想論』を先日読んだ。
もう難解で難解で。。。途中から腹が立ってきて「斜め読みして読んだことにしてやろうか」とも思ったが(笑)、文明の利器であるgoogle先生に助けを求めたところ、KADOKAWA文芸Webマガジン『カドブン』に同著の読み方のコツが書いてあったので、大いに参考にさせてもらい何とか読み終えた。

<KADOKAWA文芸Webマガジン『カドブン』>

結論から申し上げると僕は恐らく吉本氏の提唱する幻想領域を正しく理解はしていないだろうと思う。しかし、僕の中では大いにモチーフとなり得たので大っぴらに”誤読”したことを受容し、その上で自分なりに解釈した幻想領域についてメモしておきたい。

個人幻想

これは上述の『カドブン』から引用すると「個人幻想とは、吉本によれば例えば文学者のような人たちのことである。彼らは-(中略)-日常の地に足のついた、落ち着いた人間関係を重視する。こうした柔らかい人間関係を自分のうちに含んだ個人のことを、吉本は個人幻想と名づけて、大事にした。」と紹介されている。

これに対して僕が誤読した「個人幻想」に対する解釈は少々異なる。

僕の考える個人幻想は「私は〇〇な人間である」といったような自己イメージ、自己認識である。
「私」は自分のことを「〇〇な人間」と思い込んでいるが、実際は「〇〇な人間」という実態はない。例えば「強い人間」と思い込んだとして、「強い人間」という実態は存在しない。ある場面、ある相手や事態に遭遇したときに如何に振る舞うか、その行動を「強い」と表現しているだけで「強い人間」はいない。
「能力」などというものもそう。ある場面、ある状況においてあるパフォーマンスを行った、もしくはそれが何度か繰り返されたというだけで、コンディションが変われば同じパフォーマンスが出来ないときもある。それだけであって「能力」というものを持っているのではない。(これだけ聞けばネガティヴに聞こえるかもしれないが、反対にいえば「能力がない」と思い込んでいる人も、そんな実態はないのである)

つまり、自己に対して実態がないことをさもあるかと思い込んでいることを僕は個人幻想だと誤読した。

対幻想

例によって『カトブン』から引用すると「対幻想とは、簡単にいえば家族のことだ。」とあり、吉本氏自身はインタヴューで「家族論の問題であり、セックスの問題、つまり男女の関係の問題である」と述べている。

ここでも僕の解釈は少々異なる。

僕は対幻想を男女や家族に限定せず「自分と他者の一対一の関係における認識」と誤読した。
つまり「私たちは〇〇だよね」という認識だ。この「〇〇」には「友達」「恋人」「夫婦」「家族」「親子」「兄弟」などが入る。
しかし個人幻想のときと同じく「友達」や「恋人」という実態は存在しない。ただ一対の人間関係をそう呼んでいるだけである。実態としては一人の人間と一人の人間が存在しているだけだ。

ただ「友人」や「恋人」はそうとしても「親子」や「兄弟」は血の繋がりという実態があるのではないかといった反論はあるかと思う。
確かにそれは一理あるように思えるが、反証的に考えると血縁関係のない親子や兄弟も「親子」や「兄弟」になり得るといったことが挙げられる。
これは例えば赤ん坊の頃に養子縁組で「親子」となり、その事実を子に知らせていない期間の「親子」、もしくはその事実を知ったとしてもそのことを受け入れて「親子」としてお互いを認め合った親子と、血縁関係のある「親子」の関係性の密度(つまり愛情)には差異がないことからわかるだろう。
逆にいえば生き別れになった血縁関係のある「親」と「子」が、時を経て偶然にどこかで遭遇したとしても、血縁関係の事実を知らなければその二人が自然に「親子」になることはなく「他人」のままでいるだろう。
つまり親子を「親子」足らしめているものは血縁関係ではなく、お互いが「親子」だと認める認識である。

共同幻想

『カトブン』では「共同体が血縁を離れて最終的に国家にまで広がっていくこと、これを吉本は「共同幻想」と呼んだ。吉本は共同幻想のうち、とくに国家共同体に注目したけれども、他にも宗教団体から反国家の共産主義者の同盟にいたるまで、人間が「関係」や「共同体」をつくると、必ず陥る排除や嫉妬、内紛に注目し、それを共同幻想と名づけた。」と紹介されている。

これに関しては僕の解釈もほぼ変わりないが、「排除や嫉妬、内紛」だけでなく、「私たちは同じ共同体(国・民族・出身・会社など)だよね」といった共同意識も”共同幻想”として定義に入れている。

共同幻想も先の個人幻想・対幻想と同じく、本当は何ら実態がないことに名前をつけたり、約束したりすることで、あたかも存在するように認識していくという特徴を呈している。

幻想領域の特徴

以上を踏まえて、僕が誤読した幻想領域の特徴を挙げておく。

①実態がないのに、あたかも存在するように認識しているもの。
②現実との差異が生じたときに”傷つく”という特徴を持っている。
③繋ぐものでもある。

これからそれぞれの詳細について説明していく。

①実態がないのに、あたかも存在するように認識しているもの。

今まで述べてきたとおり、個人幻想では「能力」などというものは本当はないのに、あたかも存在するように認識し「持っている」「持っていない」と考えること。対幻想では実態としては一人と一人の人間がいるだけなのに「恋人」や「友人」などという名前を付け、その名前に特別な意味を付与している(例えば「恋人とは親密な関係のこと」等)。共同幻想では、例えば「法」は昔に決められた約束事などを自然摂理の法則のように認識していること、例えば「国家」でいうと「日本」という実態はどこにも存在しないのに空間上で「ここからここまで」と線を引いて国土を決め、たくさんの約束事を決め、そのルール上で合致した人を「日本人」と呼んでいる等である。

そしてこれらの実態がないもの=”幻想”は、人間が生み出したものであるにも関わらず、ある意味で人間を支配している(『疎外』している)。

②現実との差異が生じたときに”傷つく”という特徴を持っている。

”傷つく”というのは、例えば個人幻想でいうと「俺は強い人間だ」と思っていたのがケンカに惨敗したことで”傷つく”といった事態である。
そのとき「俺は強い人間だ」という”幻想”と「ケンカに惨敗」したという”現実”に大きな差異が生じており、自分について「強い人間」という”幻想”を抱いていない人間と比べてその傷つき度合いは大きくなる。

対幻想では「『仲がいい』と思っていた友人関係が相手はそう思っていなかった」や「自分が想っているほど、恋人は自分のことを想ってくれていない」といった”幻想”と”現実”との差異で傷つく。

共同幻想では例えば国家などの”幻想”に求めるものが期待値に達しない場合に政治批判やテロリズムに転化することなどが挙げられる。

本来的には”幻想”、つまり思い込んだ認識なので現実と差異があった場合は認識を修正すれば事足りるはずで、傷つく必要はないと考えられるのだが、この”幻想領域”はそういった厄介な特性を孕んでいるのである。これが前述の「支配している」という所以であるし、またただの認識ではなく”幻想”たる所以なのかもしれない。

③繋ぐものでもある。

これは主に対幻想を考察しているときに出てきた考えだ。
対幻想は確かに一体一の人間関係に名前をつけただけの”幻想”であるが、それが逆に現実の人間関係を繋ぎとめているのではないか?という考えが浮かんだのだ。
例えば僕にも兄弟がいるが、それぞれが成人し、親元を離れ、それぞれに家族を持ち生活を営んでいる。この意味だけでいうと、僕達兄弟はそれぞれに独立した、日常生活を営む上ではお互いに利害関係の生じない別個の存在といえる。
しかし「僕達は兄弟だ」「僕達は親子だ」「僕達は家族だ」という”幻想”があるからこそ、その紐帯は切れることなく、お盆やお正月には皆が集まり、楽しく心温かい時間を過ごせている。

つまり”幻想”が僕達親子・兄弟を繋ぎとめてくれているとも言えるのだ。

これを個人幻想に当てはめると、個人幻想は自己を自己として繋ぎとめているもの、つまり同一性と深く関わっているものと考えられるし、共同幻想に当てはめると国民国家の理念に深く関わるものだと言える。

幻想の霧散の危険性

つまり「実態がないのに、あたかも存在するように認識している」とか「現実と差異があった場合は認識を修正すれば事足りるはず」とか「”幻想領域”はそういった厄介な特性を孕んでいる」などとこれまで述べてきたが、幻想領域はネガティブな面だけのものではないのかもしれない。

それどころかこの”幻想”を霧散させたときにどういうことが起こり得るか。

個人幻想の霧散は自己同一性の崩壊の危惧があり、対幻想の霧散は上述のとおり家族の紐帯の断絶、共同幻想の霧散は民主主義及び国民国家の破綻を招きかねないのではないか。

つまり”幻想領域”は人間を支配・拘束する一方で、結びつける・繋ぎとめるといった両価性を持っている。

僕らはこの「絶対に必要だが、取り扱い注意なもの」とうまく付き合っていかなければならない。

メモの理由

さて、ここまで長々と吉本氏の提唱した幻想論について”誤読”した僕の解釈を書き綴ってきたが、何故そんなことをしようと思ったかというと、僕は福祉家なので「福祉」とか、その先にある「幸せ」について探究していきたいという想いがあるのだが、この「福祉」や「幸せ」も”幻想”なのではないかという着想を得たからだ(これは勿論「幸せなんて幻想だ」というようなニヒリズムではない)。
実は『共同幻想論』の中でも吉本氏は「福祉」というワードを記述している。ほんの一言二言のみで、かつ論の本筋にはあまり関係ないのだが、この幻想論の角度からも福祉について考えられるのではないかと思いついたので、いったん”幻想領域”についての自分なりの解釈をメモにとっておきたかった、というわけだ。

幻想論の角度からみた福祉論については、また今度書いてみようと思う。

<参考文献>
吉本隆明著『共同幻想論』

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