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104 仕事の外側で、人のために何かをすることが、普通の社会になってほしい。【WEBラジオ文字おこし】

音声ファイルをAIでテキスト化・要約してみました。そのまま載せているので変な表現もあるかもしれませんが、ご了承ください。

ライターの活動紹介

新潟県新潟市西関区、福井集落にあるかやぶき屋根の古民家佐藤家を拠点に活動する地域編集者ライターの原沢より光がお送りする種巻ラジオです。
気象状況(暑さ、乾燥、降雨)
えー、暑い日が続いてますね。えー、新潟の方は全然こう雨がもう20日以上降ってないぐらいじゃないですかね。たまに降るエリアはあるそうですけれども、私の住所はほとんど降っていません。野菜とかね、浅草もそうですし、お庭の木なんかもね、結構古しそうだなというのがえー、ように見受けられます。皆さん、地域はどうですかね。台風でね、大変なところもあるみたいで、本当になんかこううーん、大変ですね。昨今の気象状況はという感じです。はい、えーっと、今日はですね、

人助けと社会貢献


まあ、なんかこう、もうちょっとみんながこう人助け、人助けというかなんか助け合える社会になるといいよな、というか仕事を通じたり、まあ活動を通じて思っているという話をしたいと思うんですけれどもえー、私は、あのー、その西関区、新潟市西関区の福井集落というところでですねあのー、まあ普段暮らしているわけですけれどもかやぶき屋での保存活動とか、あと週末農業サークルの牧土木村とかですね、人がこう集う場だったりなんかこう文化を守る地域で何かを引き継いでいく活動というものをこれはまあ、仕事ではなくですね、家庭でもなく本当にプライベートの中で、まあ時間も使うし、お金も使いながらですねそういうことを、まあ半分市民でしているわけですね。で、それが、まあよくそういう何ですかね、損するようなことをやるよねと言われたりとかそんなことやって偉いねと言われたりしてまあそういうことをやっているのが特殊な人というような感じで見られてしまうんですけど見られるのがなんか今の社会だと一般的かなというような気もするんですけれどもなんか、うーん、それ一般的じゃん、あのーそういう仕事以外で、まあ地域のためとか人のためとかですね人助けとかっていうのをやっぱりする人が、すること自体が何か当たり前になった方がまあ世の中は良くなるだろうし、安心して暮らせる世の中になるだろうなというふうにはまあ私自身は思っていてですねまあ自分は自分でそれをやっていくし周りの人にもそういうのを取り組んでほしいなというふうに思っているんですねで、私の仕事で大きい部分であの長岡の、長岡市の方でまちづくりとか地域づくり、あとNPO活動などを支援する長岡市民共同センターというところに所属して働いているんですけどそちらも、そういうですね、あのー行政が福祉として何か困っている人を助けるとかそうではなくてですね、市民の人たちというかですね住民が自ら、自分たちで相互扶助的にこう助け合っていけるようなまあ、環境づくりというかですねまあそういう助け、人助けというか社会貢献というかですね地域貢献をする主体をたくさん生み出していきたいというところで活動しているわけですのでまあそういったところもあってですねまあそういう人助けみたいなのをとか福祉、社会活動みたいなものをいろんな個人の人がやるのがいいなというふうに思っているという立場の人間なんですけれどもまあそれが、ただ世の中の大きな流れを見ると基本的にやっぱり今、仕事でそういうことをする人が多いんですよねで、それに行政に対していろいろまあ行政というか国とかですね、政府とかに対して

子育て支援


やっぱり、例えば子育て、子供が少ないから子育て支援を充実させようとかですねさせろうとかですね

働き方改革


働き方、良い働き方ができるように改革しろうとかですね

高齢者福祉充実


高齢者で困っている人がいるから福祉を充実させろうとかですねまあとにかくそういった要求っていうので政府だったりとかあるいは行政に何かをさせて社会を支えなければいけないセーフティーネットを作らなければいけないという主張の方がまあどちらかというと多くてですねまあそれはそれで大事なことだとは思うんですけれどもただそれ一辺とになると良くないなというのが私自身の本当でというのも仕事、皆さんもね仕事してる人多いと思うんですけれどもやっぱり仕事でする時っていうのは本当に仕事なんですよね仕事だからその人を支援するとか助けるっていうのがあるんですけれどもそれ対価をもらっているからするんですよね対価をもらっているそれその対価をもらっているからそういう支援をする逆にその対価をもらっている人に支援をしてもらっているからある意味で支援される側としてもその罪悪感がなく支援してもらえる それはそれでいいと思うんですけれども、この罪悪感を感じるかどうかっていうのは結構ポイントだと思っていて罪悪感っていうのは完全に裏を返すと、罪悪感って何かっていう 何に言い換えられるかっていうと多分恩だと思うんですね恩を感じるかどうかあの やっぱり人間なので人間はどうしてもなんて言うんですかね自分公平に扱われたりとかですね まあ誰かでまあまあ平等に扱われたいという気持ちはもうある一方で同じぐらい自分がすごい特別に 扱われたことに対して価値を感じるというかですね嬉しいわけですよね多くの人にとって両親みたいなものが特別なのもやっぱり自分をこう今までこう しっかりと守って育ててくれているっていう恩を感じるからですよねで 例えばその行政サービスで今保育園預けられますけども 保育園に預けている間っていうのはまあ罪悪感感じないですよね子供に対してねちょっと一緒にいられないから罪悪感を感じることはあるかもしれないです けれども公共のサービスを利用しているあくまでもお客様として利用している立場だとそれは当然の 権利として利用できるものだと思っているので保育園に子供を預けている時にですねいやー日本政府ありがとうすごい恩を感じるようとかですね まああるいはそこで働いている保育園の先生個人に対してですね ものすごい恩を感じるかでまぁもちろんね全く感じないわけじゃなくて恩を感じる時もあるんだと思うんですよね それはどっちかというとその職務の範囲を超えて何かをしてくれた時に恩を感じるわけですよねそれはあの まあ保育園じゃなくて例えば学校でよく子供がね私の恩師は恩師と思う人っていうのがいるわけですよね恩をくれた師匠恩師ですよね 恩師と感じるっていうのはそれは恩師ってどういう人にそういうのを感じるかというと普通に学校で授業して普通に 学級管理してくれてた先生に対してこの人は本当に恩師だとは思わないわけですよねそうじゃなくて何か学校のある種 カリグラムとか授業の外側で自分が困っていることを人間として助けてくれたとかですね 人間として一人の人間として特別に自分に向かい合ってくれたから恩を感じるわけですねそこで初めて恩師とかですね概念が出てくるわけですで 当然それはその行政サービスというかですねあのそういう公共の福祉の中でも感じることっていうのはそれあると思うんですけどそれはあくまでもそのお金をもらっている人が プラスアルファで何かしてくれた時に初めて恩を感じるということだと思うんですよねででもそうじゃなければ当然のあの要は権利として利用するわけですでこれがじゃあ公共のサービスじゃなくてですね あのまあ昔はそういう人も多かったわけですけど仮に 近所のまあ仮にもうえっと保育園というものがなくて仮に子自分の両親に毎日子供を預けて 見てもらっていたらそれは自分の両親に対しても恩をとても感じるわけですよね でまあ音でありかつ罪悪感負担をかけてしまっているなという気持ちを感じるわけですでそれをまあいつか返そうねぎらおうとかですね あるいは自分が同じ
両親や近所の人による子供の預かり支え
立場に立った時に何か支えようというですねそういう気持ちが湧いてくるわけですね これがまあ両親だともそうですし例えば昔だと結構近所でじゃあもうまとめて子供を預かってくれる お母さんみたいな人がいてですねあのそこにお願いして集めていたとでまぁ当然 対価ゼロってことはないと思うんですけどもその

地域での押し払い支えと恩の感じ方


いわゆる市場原理というかですね市場システムのようなものではない形でのまあ 押し払いをしてたと思うんですけどもそれはやっぱり地域でこういう人に預かってくれてるから本当に助かるありがとうを感じるっていうような なんかある種気持ちを含めて助けてもらっているのでそれはやっぱり保育園に預けるのと比べたらものすごく 恩もあるしその人に負担をかけてるなみたいな財悪感も感じるわけですよね別に保育園に預けるじゃなくても例えば子供が 児童館に子供同士で勝手に遊びに行って遊んでる分には何も負担心理的な負担は親としてあんまりないんですけども 例えばどっちと友達の家に自分の子供が遊びに行って面倒を見てもらっていると結構私は罪悪感を感じるというかですね罪悪感 まあイコール恩を感じるわけですよねでもそれは公共施設を利用したりとかあるいは学童保育を利用してたりしたら 公共サービス利用してたら何かあんまりそこに恩みたいなものは感じないわけですよね

公共サービス利用と恩の感じ方


まあそのバランスは大事だと思うんですけれども今の社会の中でそのあまりにも 恩を感じている機会っていうのが少ない公共の福祉福祉とかまあ人助けっていうのを全部仕事になってしまうと、それは人が人に恩を感じる機会っていうのがほとんどなくなっちゃってですね。
恩と助け合いの重要性と個人的な結びつき
恩を感じる、恩を受け取ったからいつか自分が未来に返そう、誰か支えよう、自分が人を助けられる立場になったら支えようっていうような気持ちですよね。そういう気持ちで、おそらく社会のセーフティーネットっていうのは今まで長い時代に築かれてきたと私は思うんですけれども、福祉自体も相応の開花をもらっている職員しかしないってなってくると、これ恩じゃなくて、恩をもらったから自分も恩を送るとかですね、人に助けてもらったから私も助けてもらうじゃなくてですね、それ相応のお金がもらえるから人助けをするっていうマインドに変わってしまうわけですよね。で、当然そういうふうに、ある種その感情とかですね、思いを切り離してしないと本当のセーフティーネット、本当のセーフティーネットっていうのは築けない、作れないんだっていうものも当然わかるし、まあそういう面もあると思うんですけれども、その感情とか恩とかそういうですね、私的な結びつきを排除した形で本当に社会のシステムとして人を助けなきゃいけないっていうのはもちろんそれは大事だと思うんですけども、でもそれと並列してやっぱり、何て言うんですかね、人間がある、だからそれは機械がやってるんですと同じで、そうじゃなくて人間として向き合ってくれる誰かっていうのが、世の中に家族とか以外にいた方がやっぱりいいと思うんですよね。で、今仕事でそうやったですね、こう絆とか結びつきとかを感じる場合っていうのも結局その仕事を超えてそこまでやってくれたからっていうんですね。で、昔の会社がすごい自分のことを守ってくれる、助けてくれるっていうのも、それは今みたいにワークライフバランスとかですね、今みたいにそれはいいことなんですけれども、そういった働き方の改革っていうものがあった段階で、あることっていうのは悪いことではないんですけれども、でもそれは本当に職務を超えた付き合いを禁止するわけですよね。でも昔の会社っていうのはそういった法令とか全然守らないで、サービス残業させまくるし、飲み会もほぼ強制的に連れてかれるし、社員旅行とかどことか行きたくないのに連れてかれたりとかっていうこともあるけれども、そういったですね、ある種業務の範囲、仕事の範囲、ビジネスの範囲っていうものを超えた人付き合いをすることで、そこにオンみたいなものですよね。金銭的やり取りの外側でいろんなやり取りをすることで関係性っていうのは深まっていって、何か困った時にじゃあ助けてやろうってなるわけですよね。結局やっぱりそういった困った時に本当に人間的に特別にあなたを助けてくれる人っていうのが、やっぱり社会にいっぱいいた方が私はいいと思うし、私自身も一人そういう立場でありたいと思うし、そういったことをする人が増えればいいなと思っていて、実際、市民活動とか地域活動とかですね、人助けっていうわけでもないような気もする。そこまで私は深刻な人助け的なものはしないんですけど、本当にただコミュニティを作り続けて、その中でちょっと困っている人いたら自分のできる範囲で手伝うかなみたいな感じだったりとかではあるんですけれども、やっぱりそれで自分がものすごく助けてもらうことって多くてですね、本当単純な助け合いっていっぱいあって、例えば本当に冬、うちの妻の車が雪にはまって本当に動けなくなった時に近所の人たちがワーッと出てきてなんかしてくれるとかですね、そういうものですよね。

地域の関係性と助け合いの重要性


でもそういう関係性っていうのは普段から地域のためとか神社のためとかで恩をお互いにやり取りしているから困った時に助けてくれるわけですよね。でもそういうのがない単に働いているだけ仕事としてやっているだけだったらそれはプロに任せなさいということで、ジャフー呼ぶのか何か呼ぶのかして助けてもらうわけじゃないですか。それは煩わしさとかはないんだけれども、それが人間としていいのかとか社会として本当にそっちの方が豊かなのかっていうと、私は結構疑問が残るというふうにですね。だから本当に今、働いて、要は自分の仕事を全うして対価としての給与をもらい、

社会サービスと自己利益主義の関係


社会サービスは受益して、さらには自分の稼いだお金っていうのは自分のために全部使うっていう風潮というかですね、それが当たり前みたいなところが強いような気がしていて、それこそボランティアをする人とか人助けをする人っていうのは、もともと少ないと言われているし、近年それが増えているかというと増えてもいない気がするんですけれども、やっぱりそれでいいのか、行政は行政でやってくれればいいんだろうけれども、それだけじゃ救われないものというか、解決しないものというのは人間なので心の中にすごくあると思うんですよね。だから、やっぱりそういうのをやって当たり前という雰囲気というか前提というのを作っていきたいとは思うんですけどもね。それがどうやってそういうムードができるのかはっきり言って私としてはわからないし、かつてそういうものが機能していたというのは地域共同体がある種、すごい強い力を持って、同調圧力を持ってそういうことをしていたので、その恩を送り合うシステムみたいなものが成立していたわけですし、あとは宗教的な競技で、例えば人助けとか寄付をものすごいする国の人って、毎回トップに上がるのがインドネシアだそうなんですけど、インドネシアは本当に宗教的に弱者を助けないといけないとかっていうのが、ある種宗教、戒律、道徳的な批判としてみんなに浸透しているのでやるということですよね。そういう道徳というものが今の社会の中でみんながする批判になるかというと、なかなか難しいとは思うんですけど、宗教心というのがね、宗教的なものが世の中をみんなの中に再び戻ってくるということもないだろうし、今の経済合理主義というですね、ある種、まさに金銭のやり取りによって様々なものを生産するというかですね、効率よく進めるという、ある種の宗教的というか監修ですよね。そういったものが主流の中でそれを超えた当たり前みたいなものを作れるのかっていうのはすごく悩ましい部分ではあるんですけれども、私たちはそういったですね、人助けというのはやっぱり行政が、当然行政は行政としてするべきですけれども、行政がすべて担うものではないし、福祉の専門職の人が担うものではなくてですね、

個人の責任と小さなコミュニティの重要性


やっぱり私たちは私たち一人一人がやっぱりそういった助け合いとか、あるいは依存先みたいなものを複数自分で作っていくことで安定していくと思うし、社会の強靭さみたいなものもそういった小さなコミュニティが多重的に重なっていくことでやっぱり成し遂げられると私は思っているので、そんな世の中になるのといいなということを考えているというですね、お話でありました。はい、なんかとりあえずどうしたらそういう人助けとかですね、地域活動、NPOみたいなものが当たり前になる社会になるのかなっていうのをずっとここ10年ずっと考えてるんですけど、なかなか答えは見つからないですけれども、ずっと模索していきたいなと思っております。はい、では長々と聞いていただいて誠にありがとうございました。

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