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【無料公開】『TANEMAKI.02―営みの中へ』の「はじめに」を無料でお読みいただけます。

はじめに 営みの中へ

文・唐澤 頼充

 この本は、新潟市西蒲区にある福井集落で、週末農業を楽しむコミュニティ「まきどき村」の活動と、その集落での私や仲間たちとの生活をまとめた本である。なぜ、この本をつくるのか。ひとつは、新しい時代のコミュニティ(共同体)のあり方を模索したいと思ったからだ。

 今、漠然とした不安を感じている人が増えている。世界は、資本主義とインターネットとSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)によってひとつになろうとしている。資本の論理のもと進められた、合理化、効率化、大規模化、規格化によって、私たちは便利さや快適さ、そして自由を手に入れた。多くの人が、継ぐべき家業や家もなくなり、職業も住む場所も自由に選ぶことができる。結婚は強制されるものではなく、自由に恋愛ができ、パートナーも自分に合った人を探すことができる。冠婚葬祭や福祉もサービス化され、家族や地域で担うものではなくなった。膨大な時間を必要とした家事は、掃除も、洗濯も、調理も、かつてないほど効率的になった。人生設計は自由だ。誰もが自分らしい生き方を選択できる素晴らしい社会……のはず。

 しかし、なぜ多くの人が漠然とした不安を感じているのだろうか。誰もが何者にでもなれる可能性がひらけた世界を前にして、どうして人々はこんなにも拠り所をなくしているのだろうか。
 選択可能であるということは、一方で自分も常に選択される側に立つことでもある。思想家の東浩紀は人間を抽象化し、記号化し、数値として扱う暴力を「抽象化と数値化の暴力」※1と呼んだ。この暴力は、人間の知の源泉でもあり、人間を人間たらしめる力でもある。私たちの社会の発展は、この暴力なしにしてはありえなかった。しかし、その力が、人間を人間から無限に遠いものへと変える。そして、数値化の暴力は、市場という等価交換の仕組みの中で、人を交換可能な存在にしてしまうのだという。

 思えば私たちは今、自身の所属するほとんどの共同体の中で「交換可能な存在」だ。職場はもちろん、消費者として接する市場でも、常により有用な人、あるいはより多くの金を払う人に、取って代わられる可能性がある。いつでも、自由に、誰とでも、新しい人間関係を結べる。その一方で、新しく結んだ関係性は、常に交換される危険を孕んでいる。人々の興味関心は驚くほど気移りしやすく、家族さえも離婚率35%と言われるように確かな関係性とは言えなくなっている。

 私たちは何もかも自分で選べるようになったのと引き換えに、社会から「お前は何者なのか?」「お前にはどのような有用性があるのか?」という問いを常に突きつけられるようになった。そして、その問いに答えられることが「自立」することなのだと思い込まされ、上手くいかないときには「自己責任」という言葉に追い詰められる。便利にシステム化された社会には、実は相対的な(=不安定な)関係性しかなかった。その中で、誰もが自分の存在価値について思い悩むようになった。これが漠然とした不安の正体かもしれない。

 システム化された等価交換の社会の中で、「確かさ」を感じさせてくれるものは「数値」しかない。職場では組織や社会への貢献度が数値化され、その評価を基に給与が決まる。子どもが生まれれば「この子が大人になるために何千万円が必要」と周りに言われ、保険会社は「あなたにもしものことがあった時、必要な金額はこれくらいです」と話す。「老後のために資産運用のプランを立てましょう」と誰かがささやく。まるで世の中の全てが数値化=換金化されてしまったかのようだ。

 宮沢賢治は「農民芸術概論要領」※2の中で「曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた。そこには芸術も宗教もあった。いまわれらにはただ労働が、生存があるばかりである。宗教は疲れて近代科学に置換され、然も科学は冷く暗い」と書いた。今の私たちは、とにかく生きる前提に労働がある。生きるためにはお金を稼がねばならない。そして、自分の力で老後も安心できるだけの貯蓄ができるか不安になり、それができないのは自己責任だと思っている。豊かさと、自由と平等を求めたはずの合理化(近代科学)は、人と人のつながりをバラバラにし、全てを換金化し、冷たく暗いシステムの中に人を追いやりつつあるようだ。確かに生存は保証されるのかもしれない。しかし、そんな社会で人が幸せに生きられるだろうか。

 東浩紀は「ひとは、ひとであるために、等価交換の外部をいつも必要としている」と言う。人が交換不可能な存在でいられる共同体を新たに作り出す必要があると。東は、それを「家族的類似性」で結びつく共同体というが、具体的な共同体の形はまだ模索中だ。宮沢賢治は「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」と芸術にそれを求めた(が、失敗した)。二人に共通するのは等価交換の外部で人と人が結び合う引力は「合理性」にはなく、新しい共同体は「不合理な何か」で結びついているということのようである。

 私は、合理化・効率化のもと解体されてきた血縁や、地域共同体、職業共同体、中小企業などに内包されていた「不合理さ」が気になっている。それは単独の何かではない。生活を共にする人や自然、空間、経済が複雑に、そして不合理に絡み合っていくことで、渦巻のように人と人を結びつける力を帯びていく。この力が「営み」ではないか。そして、人は「営み」の中では交換不可能な存在でいられるのではないか。

 まきどき村は、20年以上、誰に頼まれるでもなく、ただ「なんとなく」人が集まり続けてきた、全く合理的でない活動である。ビジネスが生まれるわけでも、スキルが身につくわけでも、人脈が広がるわけでも、誰かに感謝されるわけでも尊敬される訳でもない。ただ、だらりと集まり、そこで過ごしている。しかし、きっとここには何かがある。そんな、まきどき村と、旧庄屋佐藤家と、福井集落とが織りなす「営み」が、新しい共同体を生み出す可能性のひとつになるのではないか。等価交換の市場の外にぽつりと存在するこの活動が、何かを生み出すことができるのか、これから考えていきたい。


※1 東浩紀『ゆるく考える』、河出書房新社 2019年 「悪と記念碑の問題」p310~311
東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」、ゲンロン10 p44

※2 宮沢賢治『農民芸術概論綱要』 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html

・・・

人は「営み」の中でこそ、交換不可能
な存在でいられるのではないか。
人が人らしく居られる
新しいコミュニティ、新しい共同体は
つくることはできるのか。

新潟市の(さらにいくつもの)片隅にある農村福井集落。
そこで始まった、畑と朝ごはんのコミュニティまきどき村。
そこを舞台に田畑、集落の行事、古民家、自然、
農的な暮らしを軸につながりあう人達がいる。
等身大の暮らしを記録した
生活誌の第2号!

発行日 2020 年1 月18 日
発行所 土筆舎
編集・発行人 唐澤頼充
文 西尾 光弘 能登 義仁 唐澤 源子 唐澤 頼充 増井 和之 風間 直子 風間 信均
写真 能登 義仁 唐澤 頼充
A5版 96ページ
定価:1,000円+税

定価:
(本のみ)1,000円+税
(コシヒカリ4合つき)1,500円税込 
WEB販売:※送料別
(本のみ)https://karasawa.thebase.in/items/25889829
(コシヒカリ4合つき)https://karasawa.thebase.in/items/25890001

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