蛍火は雨に溶けて

理由はひとつもなかった。ただ何となく、本当に何となく僕は病院に寄ったのだった。

お決まりの朝寝坊をかましてしまい、今からだと予備校の一限には間に合わない。別に誰に咎められるわけでもないのだが、僕はいつもの気まぐれで一限をさぼり、祖父の「ジジ」が入院している病院に寄ることにした。

ジジは末期の喉頭癌だ。どうやらもう長くはないらしい。ちょうど1週間ほど前に危篤状態になり、家族総出で病院に向かったのだが、ジジはそこで死に損なった。

ドラマのように心電図がつけられてジジは痛み止めのモルヒネでラリったまま悶えていた。その苦しそうな顔をみた僕は恐ろしくなり、どうか、どうかもうこれ以上苦しまずに安らかに永眠してくれと心から願った。

こんなの酷すぎる。あんなに痛みに強かったジジが蟹みたいに泡を吹いて苦しんでいる。しかもモルヒネですっかり頭はパッパラパーだ。喉頭癌特有な血痰まじりの吐血を何度も吐いている。病院着の間から痩せ細った腕が覗くたびに胸が締め付けられた。血の気がひいて、肉が削がれた顔は眼が窪み、頬骨が浮き出し、髑髏(しゃれこうべ)とミイラの合いの子みたいだった。

僕はジジの手を握った。いつの間にこんなに見窄らしくなってしまったのか、僕は幼き日にジジと腕相撲をした日を思い出した。苦労に苦労を重ねた労働者のゴツゴツした温かい掌(たなごころ)だったのに、今は干からびた昆布みたいな手触りだった。泣きたい気持ちよりもショックの方が大きかった。そして、握った掌から伝わる死をまざまざと感じた。

ジジは呻きと共に血を吐いた。常に点滴を打ち続けた二の腕の付け根は変色して、既にそこから死が始まっているようだった。二の腕の付け根に注射針が入らなくなり、今は僕の握る手の反対の手の甲に点滴が痛々しく刺されていた。思わず僕は「ジジ」と呼びかけたが、声は届いていないようだった。

他の家族も死を覚悟しているようだった。これはもう助からない。ついにジジは今日、72年の生涯を閉じるのだ。僕は初めて立ち会う人の死に覚悟した。そして、どうかこれ以上苦しまないでくれと願った。

その時だった。ガハッとジジはハデに血痰を吐くと、僕の手を強く握り返した。そして恐怖から逃げ惑うように薄っすらと目を開き、掠れる喉を震わせて、絞り出すように、逃げ出すように、怯えながらパクパクと口を開き「し…死にたくない!」と吐き出した。

えぇ?

僕は思わずキョトンとしてしまった。他の親族はその言葉に涙を流しながら、ジジ大丈夫だよ。頑張って。死なないで。などと口々にジジに語りかけていたが、僕は度肝を抜かれて固まってしまった。

いや、もう無理だろ。これはどう考えても苦しむだけだろ。この期に及んで死にたくないって、何だろ?やっぱりこんな風になっても死ぬのが怖いのかな?でもこの苦しみが続く方がキツいだろ。と僕は素直に思ってしまった。そして、ジジがちゃんと死ねるのか心配になってしまった。

きっと今、ジジはモルヒネで鈍麻した頭の中でゆっくりと電気が消えていくような恐怖を味わっているのだろう。それが直感的に怖くて堪らないのだと思う。僕は静かにジジの掌を両手で握った。他の親族が「生きろ」と励ます中で、ただ一人その繋がれた手から、「怖くないよ。大丈夫だよ。もう楽になっていいよ。」と僕は伝え続けた。

結果として、ジジはその日なんと持ち直したのだった。医者もこの謎のファイトには驚いていた。そして、次の日に更に持ち直して、医者に「もしかしたら夏までもつかもしれませんね。」と言わしめたのだ。梅雨のジメジメとした胡乱な季節にジジは死に損なったのだ。

「夏までもつかもしれない」と言う言葉を聞いた家族は安堵していた。そして、これからは病院に行く頻度も落ち着くようだった。みんなそれぞれ仕事に学校に忙しかった。ひとまずジジは持ち直したのだ。

それなのに、僕はなぜか朝一人で病院に寄ることにした。予備校へ行くときに少し回り道すれば行ける場所ではあるけど、朝から病院に一人で行くなんて久しぶりだった。理由は一つもなかったけど、自然と僕は病院に寄ったのだった。

ナースセンターで顔馴染みの看護婦さんに挨拶をすると、僕はジジの病室に向かった。病院に着くとちょうど母親も来ていて、ジジの世話をしていた。

「あら、珍しい。あんた学校は?」

「これから行くよ。で、ジジの調子は?」

「さっき看護婦さんに言われたけど、今日は調子がいいみたい。相変わらず痛み止めで虚(うつろ)だけどね」

「そっか」

母親は片付けが一通り済んだらしく、煙草を吸いがてら買い物いくから、ジジの様子みといてね。と言い残し病室から出て行った。

僕はベッドの横の椅子に腰掛けた。ジジは即身仏のように濁って埋没した瞳で天井を見ている。なんだかその姿はすごく哀れに映った。ヒューヒューと癌細胞に侵された喉は音を立て僅かな酸素を取り込んでいた。僕は立ち上がるとジジを覗き込み喋りかけた。

「調子はどう?」「俺だよ。わかる?わかんなくてもいいけど」「また夏になったらスイカ食べたいね」「なんかあったらなんでも言ってね。まぁ言わないと思うけど…」

反応はなかった。ヒューヒューと息を吐きながらジジは僕と天井を見ていた。でもその瞳に映った映像は脳味噌では処理されてないみたいだった。

「喉苦しくない?今ナースコール押してあげるから、看護婦さんに痰を取ってもらおう。少しだけ楽になるよ」

僕はそう語りかけるとナースコールを押した。そして、ジジの小さくなった顔に手を当ててみた。まるで蝋人形みたいな手触りだった。水分はなくなり、痩せこけて、それはとても無機質だった。

看護婦さんがやってくると、チューブ型の吸引器を作動させて、ゴボゴボた音を立てて喉の奥の痰を吸い取っていた。入院当初、ジジはこの作業が苦しいようでいつも顔をしかめて耐えていた。苦しいとか痛いとか言わない昭和の男だったジジが、顔をしかめる程の痛みは相当だと察しが付いた。

でも今のジジはモルヒネで頭がラリっているので、まるで植物人間のようにそれを受け入れていた。痰が落ちないように横向きにされたジジは白痴のように口を開き、血の混じった痰を吸われていた。

僕はその光景が辛くて、思わず目を背けようとしたが、不意に視線を感じて顔を上げた。ジジは虚ろな眼差しで僕を見ていた。いや、身体を横にしたからその視界に僕が入っただけかも知れない。でも僕とジジはその時に眼が合っていた。

どれくらいの時間だろうか、僕たちは無言で目が合っていた。なんだか時が止まったように、僕たちはただ見つめあっていた。そして、ジジの片方の眼頭からスッと一筋の涙が落ちた。

「あっ」と僕が思わず声を上げると、痰を吸ってた看護婦さんが驚いて僕を見た。僕は思わずジジを指差して「涙が」と言った。

すると看護婦さんは僕がそれを咎めてると思ったらしく、少し慌てて取り繕うように「痰を吸ってるとたまに涙とか鼻水とか出ちゃうんですよ」と言いながらそれを拭いていた。ジジは相変わらず無反応のまま僕を見ていた。

痰の処置が終わって看護婦さんが戻るのと入れ替わりで母親が帰ってきた。「なんか変わったことあった?」と聞かれたので、「別にないよ。看護婦さんが痰を吸ってくれた」とだけ伝えた。そして、僕は予備校があるからと病院を後にした。

帰り際にジジに「またね」と伝えようとしたがジジは瞳を閉じていた。まるで死顔みたいだが苦しそうにヒューヒューと息をしてたので、まだ生きているようだった。

そこから学校にいく道中で僕は昔、ジジに聞いた話を思い出した。

ジジにはとても仲の良い兄がいた。その人がちょっと前に亡くなった時にジジは本当に悲しんでいた。ジジは貧乏で育ったせいか異常に兄弟愛が強かった。

そんなジジには弟もいたらしい。でもその弟さんはジジがまだ子供の頃に戦中の流行病(はやりやまい)で亡くなった、とジジは僕に話してくれた。僕はボーッとバイクを走らせながら、その話を思い出していた。

ジジが10歳で兄は13歳で弟が6歳の時に、流行病で危篤になった弟は意識朦朧としながら「スイカが食べたい」と言ったらしい。それを聞いたジジと兄は二人で市場に行ったり、村中の家を回ってスイカを探した。でもスイカにはまだ早い季節で、とうとうスイカは見つからなかった。そして。家に帰ると弟は既に死んでいたらしい。

スイカにはちょっと早い季節と言うと、ちょうど今と同じ6月とかだったのかな。と僕は思った。もう60年以上前の話だけど、ジジはこの話をする時にいつも悲しげだった。

ジジは死んだら少し前に死んだ兄とか、遥か昔に死んだ弟に会えるのだろうか。僕はそんなことを考えながら予備校に向かった。


その日の夕方、バイトの休憩時間にケータイを開くと、母から着信が山ほど来ていた。折り返すと母は嗚咽しながら「ジジが死んじゃった」とだけ僕に伝えた。

僕は何だかその電話の先の出来事が遥か遠くのことのように感じて、しばらく虚に壁を見つめていた。

バイト先に事情を伝えると帰宅が許され、僕は病院に向かってバイクを走らせた。知らぬ間に驟雨が通り過ぎたらしく、道路は湿り気を帯びていた。生暖かい風が体に絡みつく、僕はなんだかそれを絶望のように感じていた。信号の光、道路を走る車のライト、電灯の灯り、コンビニの看板、夜の街を照らす光がとても目に沁みた。

もうそこにジジはいないのに、なんで僕は病院に行くか分からなくなっていた。それでも、身体は自然とそこに向かう、止まることなどできるはずもなかった。

病院の駐輪場にバイクを止めて、病院の裏口から中に入った。薄暗い廊下を歩き、エレベーターに乗る。時刻はまもなく20時になろうとしていた。しんと静まり返った病院は死の匂いが満ちているようだった。蛍光灯の白々しい光に目を細めて、僕は病室に向かった。

病室の前にたどり着くと、僕以外の親族が集まって啜り泣いていた。あぁ、あそこに行きたくない。僕は突発的にそう思った。それでも足は止まらず、僕は母親の元に歩み寄った。

母親は俯いて妹と共に泣いていた。脇には目を腫らした弟が天井を眺めていた。親父と目が合った。親父はため息と共に今看護婦さんが処置をしてくれている。会ってないのはお前だけだから行ってこい。と僕に言った。

半開きの病室のドアを開けると、部屋は薄明かりが灯されていた。カーテンの向こうにジジのベッドがある。カーテンから人影が見える。おそらく看護婦さんが処置をしているのだろう。

ゆっくりカーテンを開けると、顔馴染みの看護婦さんがジジの体を拭いていた。看護婦さんは僕に気づくと、少しだけニコッとして

「おじいちゃん。すごく頑張っていたんですよ。身体はすごく痛いはずなのに、いつも笑っていて」

僕は言葉が出てこなかった。身体を拭いてくれてる看護婦さんの鼻を啜る音が響いた。

「朝は元気だったのにね。急に具合悪くなっちゃって。他のご家族さんも、みんな間に合わなかったんだけど、最後まで頑張ってらしたんですよ」

僕は言葉にならないまま頷いていた。薄灯りに照らされたジジの姿は僕以上に寂しげだった。言葉が見つからない。僕はただ立ち尽くしていた。それを見た看護婦さんはまた少しだけ微笑んで

「私、少しだけ外しますから最後のお別れしてください」

と、人差し指で軽く目頭の涙を拭うと、僕を残し部屋から出て行った。

窓の外を見た。薄雲に月明かりが広がり空を包んでいた。無機質な病室でジジは目を閉じてベッドに横たわっている。今朝も来たはずの病室なのに、まるで異空間に迷い込んだみたいに現実味がなかった。

半開きのドアから廊下にいる家族の話し声や、すすり泣く声が聞こえる。僕はジジの手を握ってみた。予想よりも暖かい手だった。でもそれは確実に死人の手だった。

閉じた瞳、薄く開いた口、痩けた頬、骨ばんだ手、全てが二度と動かないことがはっきりと分かった。僕は静かにジジの心臓の上に手を置いて目を閉じた。とても静かな夜だった。窓があいてるせいか、微に雨上がりの匂いが部屋に流れてきた。

少しずつジジから体温が抜けていくのがわかる気がした。取り返しのつかない死がジジの身体に広がっている。その揺るがない終わりという事実を前に僕は泣くことも、戸惑うことも出来なかった。不変の理を前に人は余りにも無力だ。

それは想像と全く違った。ジジの死を僕は間違いなく覚悟をしていた。そして、入院してから、もう助からないジジと過ごす時間の中で何度も死について考えていたはずだった。その耐え難い今生の別れに僕は涙を流し、その戻らぬ生を惜しむと思っていた。ジジは語り尽くせぬほどの思い出を共にしたかけがえのない祖父なのだから。

幼い頃から一緒に過ごせる時間が何よりも楽しかった。体調を崩してからも我が事のように辛くて仕方なかった、それなのに、僕はこの瞬間に何も感じれずに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

72年間の生涯を閉じたジジ。僕はその後半の18年間しか共に生きていない。きっと僕の知らないことがたくさんあるに違いない。血の繋がりがあっても別々の個体で生きている以上、僕たちは他人のほとんどを知らずに生きている。僕の中のジジと、ジジの中の僕は決して交わることはない。

僕はジジにとって良き孫だったのか。また僕にとってのジジはどんな祖父だったのだろうか。もちろん良き祖父であった。でも、それはジジに伝わっていたのだろうか。

今、ジジが死んだことでジジの中の僕も死んでしまった気がした。ジジはもう僕の思い出を持ってはいない。僕がこの先どれだけ生きても、ジジの中の僕は、今ここでジジと共に消えてしまった。そして、僕が生きている限り、僕の中のジジはまだ消えない。ジジが死んでしまっているのに僕はジジを何度でも思い出す。ジジはもういないのに。

人間は永遠に交わることのない孤独の中で、確かめようのない存在を信じることしかできない。死とはある種の人間の孤独の答えなのかも知れない、と僕は理解した。

死を看取る側の人間は孤独を感じているのに、死にゆく人間の孤独は死と共に終わりをつげる。今、目の前にいる朽ちた祖父をみて感じる僕の孤独。僕はその孤独のために涙する気にはどうしてもなれなかった。今際の際のジジは辛かったのだろうか、悲しかったのだろうか。それに僕の悲しみと辛さも共鳴する。でも、今こうして一つの命を終えて、孤独を終えた祖父に僕は何を思えばいいのだろうか。

18歳の僕は本質的に涙を拒絶した。そして、すでに存在がなくなってしまった祖父と、その中に存在した祖父の中の僕がもう二度と孤独を感じずに済むことに安堵した。冷たくなっていく祖父の身体にもう一度触れ、その感触と表情を心に焼きつけた。そして、永遠の孤独が存在しないことをに侘しさを覚えた。

死は必ずやってくる。存在は死に担保されてるからこそ孤独である。私の孤独とあなたの孤独は交わることのないまま、それぞれの中に存在する。わかりやすく言えば、あなたの孤独と、私の中のあなたの孤独は別の存在で、私が死ぬときに私の中のあなたの孤独も共に消える。あなたの孤独はあなたと共にある。人と人は一生でただの一度も本質的に交わらない。

僕は病室を出て廊下にいる家族の元へ戻った。

家族の会話が聞こえてきた。このあとジジの遺体を家に連れ帰り、通夜や葬式をやる段取りが話し合われているようだった。

離婚家系の僕には祖父が3人、祖母が5人いる。バタバタと死んでいく老人たちを送る葬式はこれで5回目だ。それだけこなしていれば、自然とこの後の段取りはわかっている。

人が死んだ後には、また憂鬱な火葬がある。僕はこの火葬がどうしても嫌で仕方ない。一つの命が終わり、それが火にかけられて、わずかな骨片に変わってしまう虚しさが堪らなく侘しい。

尊ぶべき生の成れの果てが、こんな骨片であるなんて人間はなんと虚しいのだろう。そして、荼毘に付すという言葉はなんと空虚なことか。幼き頃は荼毘に付すを、旅に付すだと思い込んでた。死んだらその次の命の旅があると信じていた。

人間は死んだらそこで終わりだ。一体全体この儀式はなんであろうか。死にゆく人の孤独が消滅してなお、残された人の孤独の為にやる葬式なんて、僕は逆に不敬に感じてしまう。

そんなことを考えてるうちに、ジジの遺体はあっさりと焼かれ、骨片だけが虚しく壺に収められてしまうようだった。

三日後。

棺に入れられたジジはなんとも小さくなっていて見窄らしかった。そのかわいそうな遺体を花で装飾して、蓋をして焼く。

火にかけられる棺を見送り、それを待つ間に、なんの気無しに葬儀場を出てみた。外は青々とした木々が陽光を受け、すっかり初夏の候とあいなっていた。陽光に目を伏せて、タバコに火をつけてみると、天に登るタバコの煙と、葬儀場から上がる煙が重なる。

ジジの存在は消えたけど、肉体だけは今から天に昇るらしい。天に立ち登る前に煙はあっさりと空に溶けているようだった。肉体が一つこの世界から消えていくな、と僕は思った。



ー加筆ー


あの虚しい葬儀から早いもので16年の月日がたった。今僕には、はっきりとわかることがある。

いのちは継ながれている。

ジジの家に仏壇があった。幼い頃、僕はその仏壇のマッチで遊ぶのが好きだった。マッチを擦ると軽快な音と共に独特の臭いが広がり、火が灯る。その炎を眺めるのが好きだった。

右手でマッチを擦り火を灯し、そのマッチの灯火が消える前に、左手の新しいマッチにその火を繋ぐ、すると新しいマッチにボワっと火が繋がれる。

やがて古いマッチの火が消えると、僕はまた右手に新しいマッチを用意して、燃えているマッチの炎を注ぐ、軽快な音と共に新たな炎が灯る。これをひたすら繰り返す、なんとも虚しい一人遊びであった。ただ一つの炎が灯り続け、マッチの残骸だけが積まれていく。

無論、こんな無駄なことをジジに見つかると僕は怒られた。「マッチだってタダじゃないんだ。そもそも火遊びなんかするんじゃない」と。

そしてマッチは取り上げられる。でも、僕はなんだかその遊びが楽しくて仕方なかった。

これは今になって思うこじつけかも知れないが、あれこそ「いのちを継なぐ」遊びだったように思われる。当たり前だが僕は母がいないと存在しない。そして、母はジジがいないと存在しない。もちろんジジもその親、僕が顔も知らない曽祖父がいたから存在していた。

そして、その継ながれた命はずっと前からのことである。歴史の授業で習う江戸時代も、その前の室町時代も、さらにそのもっと前の平安時代、いや、それどころかその前のまだ言葉を持たぬ頃からずっと継ながれてきたのだ。そう考えると、人間はマッチのようなもので、いのちとは炎のような刹那の瞬きなのかも知れない。

マッチの先に灯された炎は必ず消える運命の中で燃えている。戻らぬ時間の中で、必ず朽ちる。そこには美しさも悲しみも何もない。ただ着火した炎が揺めき、時間と共に力を失い、やがて消える。たったこれだけのことを、人間は何万年も繰り返している。

その中では継ながれる炎にも、燃え盛るマッチ棒にも、炎の消えた残骸にも、本質的な意味など一つもない。命は尽きても、生まれても、継ながれても、そこにはなんの意味もないまま、ずっと時間だけが流れてきた事実だけしかない。

人間の孤独も虚しさも、その対極にあるプラスの思考も、全ては表裏一体の空虚の中に存在する側面に過ぎない。意味付けされた尊ばれるべき「いのち」とは、人間の普遍の願いであるが、それは願いであるからこそ美しく人間の心に響くだけである。自然も摂理も、もっと広義に言えば、遥か広い宇宙の中の、ほんの小さな地球の中で僕らは生を尊び、死を慈しんできた。それはとても限定的なことなのだ。

ジジの死から16年の月日が経ち、法事のたびに僕は何に手を合わせているのかわからない。ジジの親も、その祖父も尊ぶべきいのちを終えて消えていったのに、僕はその人達を知らない。僕は僕の記憶に手を合わせているのだろうか、6月の雨上がりに僕はいつもそのことを考える。

時間が僕の中のジジを随分と霞ませてしまった。でもそれは僕の中の出来事でしかない。その霞の向こうでジジは何も語らない。ジジはもういないのかも知れない。

僕は思う。

何万年も前から人は人の死を慈しみ続けてきたが、その慈しみは孤独を惜しむ為の慈悲なのか、孤独を終えることえの慈愛なのか、はたまたその双方なのかはわからないけど、普遍の事実として、全ての人間は例外なく死んできた。そして、私もその運命の中で今日を生きている。

僕たちは、今日という日をたまたま生きてるにしかすぎない。

あの日から16年が経ったらしい、たまたまの連続で今を生きている。それは、もしかしたらすごい偶然なのかも知れない。そして、それは必然なのかも知れない。偶然も必然も、生も死も、もっと端的にいえば朝食も夕食も、男も女も、全ての因果の間にはイコールがはいる。

全ては死に担保されている一つの全体でありつづける。

ジジが死んだ時に、外は雨が降っていた。でも僕がジジの死を知った時にすでにその驟雨はやんでいた。わずかに残っていたジジの蛍火のような命は雨に溶けて消えていったのだ。

今でも雨の日は憂鬱だ。

おわり

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