白髪とメメント・モリ
コンビニのトイレでクソを捻り出し、ウォシュレットでアナルを洗浄した後に、何の気なしに鏡を覗くと、ふと気づく。
あっ、白髪だ。
なんとも言えない嫌な気持ち。光の加減かも知れないが、すごく気になる。一応、抜くかと、鏡に近づき白髪を掴もうとするとさらに気づく。
あっ、こっちにも白髪。
虚無に落ちる。
若いつもりでいても、いつの間にか私も37歳。肌艶は失われ、頭髪は薄くなり、白髪が混じり、チンポのエレクティングにも全盛期の勢いがない。確実に私の身体は劣化が始まっている。
はぁ、とため息をつき、白髪は抜かずにトイレを出る。
諦めてしまえば、老いなんてものは意外と受け入れられるものなのかも知れない。摂理として、生きとし生ける全てのものは成長過程を経て成熟した後に、必ず老いて朽ち果てる。
しかし、成長というまだ見ぬ可能性に向かう旅路と、老いという必ずやってくる棺桶への道のりには、やはり大きな差異がある。
明日への希望を胸に生きる青春の汗と比べれば、老いを楽しむなんて、言い訳がましい負け犬の遠吠え的な諦観の見苦しさには吐き気を覚える。
身体の可動域が少しずつ失われ、ネバーギブアップ精神で日々前を向くことすらも叶わぬ中年なんて生きる価値がない。
そう、私なんてまだ死んでないだけで、これから確実に出来ることが減っていき、30年後にはフガフガいって、40年後にはもう訳がわからなないまま畳のシミになり、市役所の人のお世話のもと合同墓地に入れられて、無縁仏となる運命だ。
そして、そこからしばらくしたら私自体が誰の記憶からも消えてなくなり、存在してたことさえ無かったことになっている。全く自分なんてものは無かったことになっている。そんな無意味にも関わらず、私は今日もマヌケ面して生きているのだから、本当に大したもんだと思う。
はてさて、しかしなぜ今日の私がこんなにも虚無思想に堕ちているのかというと、それにはわけがある。
久しぶりにnoteを書いているのだから、これは短めにちゃんと書ききってアップしたい。だからここからは端的に書こうと思う。
私には絶縁して、もう5年ほど会ってない親父がいる。
絶縁の過程なんてものは、ありきたりな家族の争いで、特筆して書くことが何もないのだけれど、32年間は親子だったのゆえに、お互いの感情が怨恨に至るまでには様々なことがあった。
お互いに良い大人なのだから、我慢するとか、距離を作るとか、腹を割って話すとか、そう言った解決策を考えないわけでもなかったが、それらを選ぶよりも絶縁した方が良いとしか思えぬほどに関係は熾烈だった。
今でも度々考える。私の選んだ絶縁という選択は正しかったのか?と、縁を切った5年間の空白に何か意味があったのか?と、このまま75歳になる親父と会わずにいて、親父が死んだ後に葬式に行って後悔しないのか?と。
まぁ結論からいうと、考えても答えなどないし、何も変わらないのだけれども。確実なのは今こうしている間にも時間だけが流れて、私も親父も老いていっているということだ。
でも人間というか、とくに私のような利己的な人間は、とにかく色んなことを棚上げして日々を過ごしてしまう。迫られた選択は仕方なしに選ぶのだけれども、とりあえず選ばずに済むことなら、どこまでも先送りしてしまう。
そう。私はいつのまにか何も選ばない人間になってしまったのかも知れない。
そんな自分の人生にさえ、人ごとというか、他人行儀になってしまった愚かな私なのだけれども、つい先日、妹と母親と会った時に現実に向き合わされてしまった。
妹と母親には年に数回ほどあって食事をしたりする。その席で妹がペット見守りカメラを買ったという話題になり、その映像を見た時に、実に5年ぶりに、カメラ越しではあるが親父を見てしまった。
衝撃的だった。
いつも洒落っ気を忘れずに、白髪染めを欠かさない親父だったのに、今は完全に白髪頭となっていた。身体は痩せこけ、一回り小さくなっていて、何も喋らずに呆けたような顔でテレビを眺めている。
完全に老人だった。5年前の俺の知ってる親父はもうそこにはいなかった。幼き頃の思い出の中にいた、とっぽい親父の思い出とはかけ離れた姿に、ただただ衝撃をうけた。
そして、何よりもこの5年という時間の無惨さを痛感した。心の中で止まっていた時間が一気に現実とぶつかり、その齟齬の大きさに言葉を失った。
日々身体が成長して、毎日が目まぐるしく変わる10代や、身体がピークを迎えつつも、新しい経験の数々で精神の成熟を迎える20代は、毎日が現実という実感があった。
それに比べると肉体の変化が劣化だけで、経験においても新鮮味がなくなり、繰り返される日々に溺れる30代は、なんだか毎日が夢のようで、どこか現実感が薄れていた。
身体の老いに気付かされた時も、解決策などないのだから、とりあえず棚上げするしかない。そんなことを繰り返していくうちに、まるでピーターパンのように夢想に耽っていたのかも知れない。
夢想の世界にいた私は、その親父の老いた姿を見ることにより、まるで夢から覚めたように感じた。私が夢の世界で酒に溺れ、女に狂っている間に、取り返しのつかない老いに親父は飲み込まれていた。
死は確実に迫ってくるのだと、俺は親父に教わった気がした。そして、近い将来それに飲みこまれるであろう親父を目の当たりにして、自分もまた何か一つの不注意や、愚かな行いで死に飲まれるということを実感した。
夢から覚めた。本当にそう思った。
メメント・モリ。この言葉を思い出した。中世の物書きが髑髏を書斎に飾る。死を忘れるなと意味を込めて。どんなに夢想に耽っても、どんなに酒に浸っても、どんなに女体に溺れても、決していつか自分が死ぬことを忘れてはいけない。
忘れるな。
そう、語られた気がした。
何かをしろとか、希望を持てとか、強く生きろとかではなく、俺は最後に親父に忘れるなと教わった気がした。
そして、解決策は何もないけど、忘れないことだけが、今の自分にできることだと痛感した。
おわり
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