初体験は一度しかない。

19歳、このまま何もない人生が漠然と続いてくことに焦燥を覚えていた。自分とは一体なんだろうか。

好きな子と同棲生活を送っていた。仕事もそれなりにしていた。仕事終わりにスーパーに立ち寄り、彼女と夕ご飯の買い出しをしている時に、自分の人生にしてはうまくいってるな。幸せだなぁ、とふと思ったりもした。

朝起きて、肉体労働に励み、夕方に帰り、ご飯を食べて眠る。欲しいものもあまりなかった。やりたい事なんて何も浮かばなかった。テレビの中の出来事は、ずっと遠くのことのようで、ニュースを見ても何も感じなかった。ただ、明日も早起きしなきゃとか、今日の夕ご飯は何かな?ってことばかり考えてた。

ある日、たまたま仕事が早く終わって僕はブックオフにいった。ぼーっと漫画を立ち読みして時間を潰してると、なぜかふらっと文芸コーナーに立ち寄ってみた。

今まで本なんかまともに読んだことがなかった。母親が読書好きで家にはたくさん本があったが、僕はそれに触れたことすらない。

びっしり並んだ背表紙を眺めていると、どれもこれもなんだかよくわからない言葉で埋め尽くされていて、それには僕の知らない何らかの法則性がありそうな気がした。

あっ、と思って、僕は足を止めた。

三島由紀夫という作家名は聞いたことがある。確か学校の授業で習った人だ。三島事件というのを起こした何とも物騒な人らしい、何となく僕はその本を手に取って開いてみた。目眩がした。

細かい字がびっしりと書かれたその分厚い小説を読もうとなんて到底思えなかった。僕は、やれやれとその小説を棚に戻そうとした時に、またおやっ?と気づいた。どうやらこの三島由紀夫という作家は短編集も出しているらしい。僕はその「花ざかりの森・憂国」と書かれた短編集を手に取った。

とりあえず、目次を眺めた。なにか一番短い話だけ読んでみるか…。と思い、短い話を探した。すると「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」と言う、何とも物騒な題名に目がいった。よし、これは短そうだし一応読んでみるか、、、

このあとのほんの20分くらいの時間は、僕がそこまで生きてきた19年で一番の衝撃的な時間だった。

言葉が難しすぎて、内容が複雑すぎて、書いてあることの半分も理解できなかったけど、それでもわかる言葉だけで、僕は本当に衝撃を受けた。この日に受けた衝撃はたぶん僕は永遠に上手く言葉にできないと思う。ただ、そこに立ち尽くした僕は、信じられないくらいドキドキしていた。

これは三島が18歳の時に書いた散文的な小説だ。昭和18年(三島の年齢は昭和の年数と同じだから便利)の戦争の真っ只中に書かれた作品で、学習院を主席で卒業して帝大(東大)に余裕で入っちゃうような神童であった彼もまた、戦争という時代を生きていた。

今のように当たり前に未来がある時代と違い、この時代に三島は戦争で死ぬことをいとわぬ心と、まだ生きたいと言う心の二律背反の自分に苦悩していた。また作家になりたい自分と、親の期待に応えて生きていく自分、にも苦悩していた。

まぁ、三島について書くと、長くなるので割愛するが、要するにこの小説には三島のその時の気持ちがそのまま書かれていた。と、僕は解釈した。

この小説の主人公の殺人者とは芸術家のことである。その人には理解されない彼の芸術は、『それがそれであり続けるため』に終わることがない。そして、それがそれであり続けることで、彼は常に他者との距離から逃れられない。

対比として海賊が出てくる。この海賊とは行動家のことである。彼はすべからくして、全てのものは普遍に自分に属していると解釈する。疑問を持たない。『不可能を持たぬことは可能も持たぬこと』であり、限界なき有限のなかで全てを諦観して生きることを殺人者に諭す。

この海賊の説得に殺人者は涙する。これは彼の心の瓦解ではない。この埋まらぬ他者との絶望的な距離に涙を流す。そして、この他者との永遠の距離の中でも尚、彼は殺すのである。

殺人は終わることがない。殺すことでたどり着く一瞬の美は醜くもある。その中で唯一の殺人者の慰みは輪廻である。殺すことで知り、殺すことでまた自分も不断に死にゆく。そして、狂者の姿を偽り、殺す。

他者の弱さを蔑み、称える。そして、自分が理解されぬことが自分の死であることを認めない。密林の奥でも、小鳥が囀り花々は輪廻を続けるように、使命も意思も人間の一つの弱点である。それすらも持たぬ中で、彼はまた殺すのである。


と、まぁこんな話なのだけれど。これを読んだ時にとにかく僕は何かを掴んだような錯覚に陥った。言葉にできない何かを掴んでしまったこの感覚を僕はいまだにこの手で握り続けている。なんだか、既にこの世にいないはずの三島由紀夫という作家と僕は会話をしたようにすら思えた。

その握った何か分からぬ感情は手を緩めたら、スルリと落ちてしまい、もう二度と自分の手に返ってこない気がする。だから、僕はこの得体の知れない何かを手放してしまいたくない。

文学ってものは非常にわかりにくいものだと思う。例えば漫画なら常に絵と文章でその世界観を余すことなく読み手に伝えられる。作者が階段を書いたら、その階段はほぼ作者の思惑通りに読み手に伝わる。これがアニメだったらさらに登る時の音も足せるのだから便利な物だ。

でも、文学には文学にしか伝えられない、共有と連想というものがある。既に僕が生まれた頃にこの世にいなかった三島由紀夫が書いた文章のはずなのに、それが時を得て僕の中で共有される。三島が書いた時に思ってたことと、僕が読んで思ったことは全く違うかも知れない。でも、それは時を越えて、僕の中で更に広がりを見せるのだ。

僕はいつも小説を読む時に色々な想像をしている。それは必ずしも作品の世界ではない。三島が書いた作品を読む時に、なぜか環八街道と甲州街道の交差点の脇の小道を思い出すことがある。その小道の木の腐った匂いを不意に考えたりする。そして、夏の日差しや、車の騒音、蜃気楼のように霞む熱せられた道路なんかを思い出す。それが、三島の小説と何の関係があるかとは思うのだけど、その僕の連想は三島の世界観と重なったり離れたりを繰り返して共鳴していると思う。

だから、僕は19歳の時にブックオフで立ち読みした三島由紀夫をほとんど理解できなかったはずなのに心が動かされたのだ。あの頃と比べて今は格段に語彙力も知識もついたので、スラスラと読めるが、あの時に感じた、あの瞬間に起きた共鳴はもう二度と得られないと思う。

なんだか最近のnoteはやたら死だの、殺人だの、と物騒な文章ばかりで申し訳ないのだが、忘れないで欲しい、人は必ず死ぬ。まさに「メメントモリ」である。だからこそ人間はもっと自由であるべきだと思う。

だからといって自分の自由のために人を殺すのは良くないが、三島がこれを書いた時代は戦争という名の下で人を殺すことが容認されてた時代である。三島は敢えて芸術家のあり方を殺人と表現したと思う。今の時代の読解力ゼロのバカたちがこれを読んだらまるで違う解釈をしそうで怖いが、良識とそれなりの知識がある人間であれば三島の書きたかった世界観はきっとわかると思う。そして、その複雑でわかりにくい世界観を共有することで、読み手の何らかの思いと重なりそこから全く違う連想世界が始まる。

エンタメはたしかにすごい、そして面白い。テレビのドラマもバラエティもラジオも全てが面白い。でも、これらの面白さとは常に作り手が提供する分かりやすさに担保されている。レビューなどでよく見る「よく分からなかった」「何が面白いか分からない」という低評価の言葉は、その言葉の最初に「私が馬鹿すぎて」をつけるべきだと思う。

三島のこの「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」の言葉を借りれば、人間とは限界なき有限なのである。必ず死ぬという肉体の有限はあるが、心の中の世界は無限だ。だからこそ、何かを読む時にすぐに分からないと叫ぶのではなく、その世界の中に散りばめられたマテリアルを探し当てて、自分なりの何かを自分の中で構築する楽しみを持って欲しいと僕は思う。


僕は、この三島由紀夫と出会った日から随分と沢山の小説を読んできた。それまでの人生では全く読まなかった本を読むという行為はとても大変だった。それでも、悪戦苦闘しながらも読書をすることは楽しかった。そして、読むことは常に発見だった。

文学とは平たく言うと全く知らない自分に会えることなんだと思う。私はこういう人間だ。とか、私ってこういうとこあるじゃん?とか、よく聞くけど、それはそうあることを宣言して、そうあろうとする人間の願望でしかない。本来、人間は一生他人のことも自分のこともわからないまま死んでいく。

分からない不安に負けて、わかりやすく自分を型にはめる人は沢山いる。仕事が生き甲斐です。彼女を愛してます。おいしい物を食べるのが幸せ。などなど。より他人よりも優れたその意思や使命を人は誇ろうとする。

それはそれでもちろんいい事なのかも知れないが、それが全てであるわけではもちろんない。全ての生き方は肯定する面と否定する面がある。だけど、僕は思う。知らないことを知ろうとする事だけは常に正しさの模索である。相手を思いやるにもまずは相手を知る事だし、自分を高めるのもまずは自分を知る事だから。自分という永遠にわかり得ない存在への探求は全てに通じていると思う。自分を知ることはまた他人を知ることにもなる。

漫画や映画やテレビを楽しむことは何よりも楽しい。だけど、僕は敢えて思う。

目的が先行している作り物を楽しむことは簡単である。泣きたいから見る映画、笑いたいから見るテレビ、知識を増やしたいから見る実用書、これらは人生を豊かにしてくれるかも知れない。でも文学のように目的がない誰かが書いた精神世界を読み解き、そこから自分の心を共鳴させて自分を探すこともまた、人生を豊かにしてくれる。

昨今、テレビでもネットでも誰かの失言や、問題の簡略化からの悪者探しで躍起になっている。物事は白か黒かで判断できないはずなのに、僕たちは分からない不安に負けて、すぐ物事を善悪に分けてしまう。これは、思考の放棄でしかない。

わかりやすさを追求し過ぎたせいで、誰でもすぐ悪者になってしまう時代は、誰にでもわかる善人を演じることで、誰でも気軽に善人になれてしまう。これはわかりやすさの成れの果てのわかりにくい世界を招いている。本当にしっちゃかめっちゃかだと思う。


…話はだいぶ逸れてしまったが、僕はなんとかこのnoteで純文学の読み方や、楽しみ方を紹介したいと思っている。今日のこの文章はそれの前段階としての僕と文学の出会いである。

僕はまだまだ知らないことだらけだし、いくら文学の勉強をしても、分からないことだらけで日々困っている。馬鹿だから仕方ないの一言で片付けて、今日もキャバクラに行って若い女のケツを追いかけていたいと思うのだが、それでも何かを知ろうとする気持ちに蹴りがつかない。

いつか自分の本を出してみたい気持ちもないことはないのだが、三島由紀夫や川端康成を読むたびに自分の馬鹿さに落ち込んでしまったりもする。

それでも文学に出会えて幸せだったとは思う。

だから、もしまだ文学に触れたことがない人や、読んでみたけどイマイチで辞めてしまった人に読んでもらいたい作品が沢山ある。

分からない言葉を調べながら、その作者の当時の環境を想像しながら、その作品のテーマを考えながら、そして、その言葉の一つ一つを自分の心と共鳴させながら読んでみて欲しい。それはきっと何か新しい扉を開けてくれるから。

ネットを開けば知りたくない情報が入ってきて、テレビをつければうんざりするニュースが飛び交い、経済活動の名の下に労働を強いられてしまう、そんなうるさい時代に、ネットを遮断して、テレビを消して、静かな環境で本をただ読む時間はとても心が安らぐ、是非ともそんな素敵な時間を過ごしてみてはどうでしょうか。


と僕は思います。


それでは、今週中に、純文学とは何か?純文学を読むコツ、純文学を読むことで広がる世界についてアップします。おひまでしたら、それも読んでいただければと嬉しいです。


おわり

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