エチケット優先主義。

最近、サウナにハマってて近所の温浴施設に行くのだけれど、当然その施設の注意書きには

「申し訳ございませんが、タトゥーや刺青の入ったお客様にはご利用をご遠慮いただいてます」

と、書いてある。

それをチラッと見てから、僕はお風呂に入っていたのだけれども、目の前でシャンプーしてるおじさんの背中にはガッツリ刺青が入っていた。そして、小さな子供を連れていた。

これを見て、あーなんてモラルの低い!!とか、PTAのオバ様よろしく、まぁー!子供の教育に悪い!なんぞと絶叫する気はないし、僕は別に刺青入っている人を毛嫌いもしてないので、良いのだけれど…

ただ、自から刺青入れたわけなのに、温浴施設に堂々と子連れで入るような人間には一生なれないな〜とは、思うのであった。ここから少し昔話。


5年ほど前にお付き合いしてた女の人は、腰にワンポイントのタトゥーが入っていた。それは非常に可愛らしいし、僕はそれを割と気に入っていた。だけど、彼女と温泉なんかに旅行に行く時は、やはり公衆の面前にそれを出すことはエチケットとして良くないと思い、いつも部屋に風呂のついている所に泊まっていた。

当然、部屋に露天風呂のついている施設は高額である。あと、個人的には大浴場も割と好きなので(サウナもあるし)、そこに浸かりたい願望もある。でもやはり、優先するのはエチケットである。そう、僕はいつだってエチケット優先主義。

そもそも僕は思う。

温泉施設に刺青の人が入っちゃいけないルールはいらないと思う。別に僕はそんなこと気にならないし、刺青を毛嫌いする必要もないし、何よりそれを入れたからといっていきなり悪人になるわけでもないから。でも、それを不快に思う人がいて、更にダメだとルールを決まってる以上は、それを守るのがエチケットだと思う。

考えてみれば日本はアメリカと違ってフワッとした決まりが多い。そして、従来から社会がそれらを監視して、明文化されてないルールを「隣人からの視線」によって守ってきた。故にアメリカみたいに、何でもかんでも告訴する文化はない。でも、最近はそれに対する弊害もたくさん出てきている。

くだんの「温浴施設におけるタトゥーおじさんの行水」問題は、みんなが不満を持つ形になってしまっている。

そもそも平等を謳う憲法の下でタトゥーを入れただけで制限されるのはおかしい。俺は誇りを持ってタトゥーをいれた、だから常人と同じ生き方をするぞ!!と風呂に入るおじさん。

いやいや、タトゥーはダメって書いてあるのに入るなよ。気分が悪いな。なんで金払って入る風呂で嫌な思いするんだよ。あーあ、気分が悪い。と思っているタトゥー嫌いのお客。

なんでダメって書いてあるのに入るんですか〜。てか、そんなことでクレーム言われても困りますよ。ウチも商売ですし、ルールは入口に書いてあるじゃないっすか〜。っとだるそうな店員。

タトゥーは別に気にならないけど、普段からルール守ってる俺は何なんだよ。てか、ダメって書いてあるなら入るなよ。あとダメってルール決めたら店側がちゃんと守らせろよ。と多方向にイラッとする俺。

そして、なにより父親がそのような多方面に迷惑をかけてることに、いつか気づくタトゥー親父の息子。


などなど。

結局はみんなが嫌な思いをしている。


もうこうなったら、ちゃんと決めるしかないと思う。昔のように世間体とかで他人にルールを課して、それを守らせる時代は終わったのだから。

でも、このルールを決めるって時に人々は分断してお互いを憎み合うから怖くもある。それではちょっと飛躍して時事問題。

最近だと、正に夫婦別姓問題がそれである。

これに賛成の人達は、反対勢力をまるで旧態に染まった女性差別主義者として糾弾している。

逆に反対派は、賛成派をリベラルに染まって日本の伝統をぶち壊す国賊のように糾弾している。

お互いの考えの落とし所を見つけられない問題だと、人は敵側をもはや人とは思わないのだ。

ちなみにこの問題に対する僕の考えは…

結論からいうと、、、どっちでもいいのだ。いや、もうどっちでもいいの範疇を越えていて、別に国から「君は明日から田中だ」と言われたら、田中でいいし、もちろん鈴木でもかまわない。もっと言えば「君のような恥ずかしい人間に家名は勿体ない。いや、名前すらもおこがましい。君は明日から672番だ」と言われたら、まぁそれはそれで仕方ないとしか思わないくらいどうでも良いのだ。

そもそも名前ごときで何か変わるわけでもないし、自分が自分らしく納得できる生き方をしていれば、それだけで十分だと思う。苗字を変えるのが負担だとか、相手に合わせることでアイデンティティを失う気持ちになるってのも、正直よくわからない。そんなこと言えば税金納めるのも負担だし、会社に入って肩書きがつくことも、自分のアイデンティティとは違うなって思うことだってある。自分の範疇で選べないことなんか世の中ざらにある。だからそう言ったことには本当に興味がないのだ。


ここまで書いて僕はフッと真理に気が付いた。


SNSの時代になって、無個性とか没個性(個性がなくて集団の中で埋没して生きてきた人)が、ファッションの様に思想を纏って、むりやり意見を持つからめんどくさいんじゃないのか?

ヴィーガンです。フェミニストです。動物愛護家です。SDGs推進。温暖化反対、、などなど。


だから逆に声を出して言いたい。正直、何でもいいです。でも、僕は元々頭が空っぽなのに、無理矢理に主義主張を叫び出して自分自身に陶酔している人間よりも、遥かに教養はあるし、地頭もいいし、努力もしています。そもそも僕は自分自身のことに夢中なので、それらのことに余り興味がないのです。

この意見は本当に誰も傷つけない、素晴らしい中立のスタンスなのではないでしょうか?

どう思いますか?これってみんなが平和的でいれる素晴らしい考えですよね。こういう人が増えるほどに社会は良い方に行くと思いませんか?

でもね。ここで少しだけ考えて欲しいんですよ。皆さんは日々SNSや、テレビを見てるからわかると思いますが、いわゆる活動家ってやつですね。

何の根拠もないのに、人よりでかい声で騒ぐことを影響力と勘違いして、誰よりも自らの意見に陶酔し、他者に褒められることがあまりないのにも関わらず、それを補填して余るほど自らを褒め称えてしまうやばい人。そう、それが活動家です。言葉にして書き出してみると、そのヤバさがわかりますよね?

ネットに蔓延るこの活動家という連中は勝手にオフィシャル感を醸し出しては、世の中にいる誰も傷つけない中立の人間すらも批判します。知らないことが悪いとかいう、あたかも自分が優れてるかのような物言いで、訳の分からないことを宣うのです。そして、二言目には多様性は認め合わねばならぬ、あなたはマイノリティに配慮が足りない、、と。

ハッキリ言ってしまえば、森喜朗だって昭和時代の価値観のまま凝り固まってしまったバリバリのマイノリティだし、河村たかしだって権力の元チヤホヤされてるうちに面白いを履き違えてしまったマイノリティである。森喜朗と河村たかしが生活保護で暮らす落ちこぼれ老人だったら、彼らの思想を誰も責めません。つまり、活動家ってのは常に権力や有名人に噛み付いては、自らの商売をしているのです。より良い社会の実現よりも、自らの功名心と、金と権力の獲得を目指しているのです。あぁくだらない。

なんだか話がとっちらかってしまったが、つまり何が言いたいかと言うと、大切なのはエチケットなのである。世の中を良くするために一番効果的なことは自らを律して、個人レベルで自分自身が納得できる生き方をすることなのだと思う。

頼まれてもないのに他人様にとやかく言って、その自らの雄弁さに陶酔しているナルシストなんて社会の害悪以外の何者でもない。贔屓球団の自分の何倍も努力している野球選手への不満をネットに書く暇があったら、明日の自分が少しでも良くなる努力をするべきである。


冒頭に戻ると、結局、温浴施設にタトゥーをして子連れで入ってくるおじさんへの正しい対処法は、おじさんに注意することでも、温浴施設のスタッフに注意するようにクレームを入れるでもなく、もし自分がタトゥーを入れたなら、こういった施設には行かないように心に決めることなののかもしれない。

エチケットは他人に言われて身につくものではない。エチケットとは自らへの戒めと、より良い自己実現のための品位なのかも知れない。

そんなことを考えていると、なんだか今のネットの中で騒いでいる時事問題も、何となく解決していきそうな気がする。小室さんの心配より、岸田さんへのエールより、小池都知事の粗探しより、もっと大事なことは自分の人生に一生懸命になることだと思う。

世間が興味ないであろう自分の問題に向き合えるのは自分だけなのだから。


はい、おわり。

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