流町へようこそ!! 4


「それで? エムさん、貸してくれなかったんですか」
 アイちゃんと私は雑居ビルの一階にあるバーに来ていた。こちらにいたっては、席は五つしかない。私の顔を見た店主の第一声は、狭いでしょう、だった。この町で酒をたしなむ人はそんなに多くないんですよ、そもそも人がいませんからねえ。朗らかに笑うのは、ぴんと背筋の伸びた初老のバーテンダーだ。彼は灰色の口髭を触りながら、「アカガワです。皆さんには、アール、と呼ばれてますが」と名乗った。
「マメゾウはケチだからな」
 カウンターの前の椅子にあぐらをかいてぐるぐる回りながら、アイちゃんが頬を膨らませる。
「うちの鍋でそんな油っこいもんは作らせねえぞ、って」
 私はカウンターの内側、猫の額ほどのキッチンでじゃがいもの皮を剥きながら言った。
「いつもカツ丼作ってるくせによー」
「エムさんは、料理一筋ですからねえ。ご自分のカレーがあるのでしょうな」
 アカガワさんは好好爺然として笑う。
「ところで、るうってなんだ?」
「ええと」私はじゃがいもを置いてカレールーの箱を取り出す。「カレー粉ってスパイスを混ぜたのがあって、作りやすいようにそれを固めたもので」
「おっ、さては、その箱の写真がかれーだな?」
「そうそう」
「なんか茶色い……ほんとにうまいのか? これ」
「おいしいよ」
 じゃがいもとにんじんを切って、たまねぎを刻む。まずはたまねぎを、あめ色とまではいかないけど、よく炒める。切って冷凍しとくと早いんだよな。それからアカガワさんにいただいたにんにくを入れ、豚肉を入れて、肉の色がかわるくらいでじゃがいもとにんじんを投入。狭いし、フライパンもいつものより小さくて、混ぜにくい。もういいかな、と鍋にうつして水を入れる。これもどうぞ、安いものですが、と渡されたので、半分は赤ワインを入れる。沸騰したらあくをとって、コンソメと、砂糖を少し。あとはじゃがいもの様子を見つつひたすら煮る。
「肉じゃがの匂いだな」
 鼻をすんすん鳴らすアイちゃんに、醤油は入れてないけどね、と答えながら、私は大事なことに気づく。
「アカガワさん」
「はい?」
「あの、ご飯とかって」
「ああ」
 はっはっは、と大きな笑い声。
「ここでは、炊けませんねえ」
「ええー!? もうできちゃうんですけど」
「まあ、カレーだけでもいいかもしれませんよ。あ、カナッペにするフランスパンが少しあったかな」
 いや、それは、でもやっぱり、なんてごにょごにょ言っていたら、からん、と音がして、入り口のドアが開いた。
 立っていたのは、仏頂面のベニヤさんだった。
「おまちどお」
「えっ」
「出前だよ」
 懐かしい黒い岡持ちの蓋を上げて出てきたのは、ほかほかの白ご飯の盛られたお皿四枚。
「あっ、ありがとうございます!」
「スプーンもあるぞ」
「さすがエムさん。気が利きますなあ」
 ベニヤさんは小さな声で、そろそろだと思ってな、と言った。しきりにあごを撫でている。どうやら照れているらしい。
 和やかな雰囲気の中、アイちゃんだけがベニヤさんに冷めた眼差しを向けていた。「なんで四つなんだ? マメゾウのかれーはないぞ」と刺すように言い放つ。
「なんだと?」
「台所を使わせてくれなかったからな」
「もういいじゃん、アイちゃん。ご飯持ってきてくれたんだし」
「いいや、ダメだね。モモが許してもオレは許さないぞ」
「じゃあアイ、お前は何かしたのかよ?」
「オレか? オレはモモを案内した」
「まあまあお二人とも、落ち着きなさい」
 アカガワさんが二人のあいだに割って入った。
「空腹だからいけないんです。もうすぐできあがるみたいですし、みんなでおいしく食べましょうよ」
 彼がゆったりとした口調でそう言うと、アイちゃんはふんとそっぽを向き、ベニヤさんはちっと舌打ちした。一時休戦、ということらしい。
 それにしても、ベニヤさんといいアカガワさんといい、ハードルを上げすぎじゃないのか。私が作ってるの、ふつうのカレーなんだけど。これでおいしくなかったらどうしよう。申し訳ない気分になりながら、ルーを入れて火を止め、溶けるまで待つ。
「いい匂いがする! モモー、まだかー」とアイちゃんがせっかちなおじいちゃんみたいなことを言い、「おとなしく待てよ。本当は一晩かかるんだぞ」とベニヤさんが呆れる。味見をしながら(いたってふつうのカレーだ!)、思わず苦笑いしてしまう。
「できましたよ」
 とろりとした熱々のカレーを、ぬるくなりつつあるご飯の上にかける。湯気の立つお皿を四枚、カウンターに並べる。ごくっ、とアイちゃんがつばを飲んだ。
「いただきます!」
 スプーンを持ち、ご飯をくずして混ぜたり、がっと目一杯すくったりして、四人それぞれが思い思いに口に入れた。もぐもぐ咀嚼する、みんな黙ったままで。なんだか落ち着かなくて味もよくわからない。ご飯を作ってこんなに緊張したのは初めてかもしれなかった。
「おいしいですねえ」
 始めにそう言ったのはアカガワさんだ。ああ、よかった。私は胸を撫で下ろす。
「うん、うまい」
 ベニヤさんが、渋々という感じで言う。
「今度、ベニヤさんのカレー、ご馳走してくださいよ」と私が苦笑すると、ベニヤさんは「スパイスが入ってこねえんだよ」と本当に悔しそうな顔をした。
 そして、初カレーのアイちゃんはというと、感想を述べる暇もなく、がっついていた。
「アイ、もっと落ち着いて食え。カレーは逃げねえぞ」
「カレー、うまいな!」
「うわっ! きたねえな食いながら喋るな!」
 私とアカガワさんは声を揃えて笑った。

*

(あ、続きますよ)

#小説 #カレー #おっさん #安定のおっさん率

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