フリークライミング

 よっ、と声をあげてスイは跳んだ。
 裸足で、ほとんど垂直に見える斜面を蹴る。何億年も昔からそこにある石は、表面がつるつるとしていて滑りやすい。それでも彼女はすいすい登っていく。右足の指を溝にひっかけて。右手で微妙に突き出た縁を掴んで。左足を次の高さの出っぱりにのせて。
「三点支持」
 頭の中で彼女の声がこだまする。さっきした会話を思い出す。
「モクヨウは登らないの」
「だって、落ちたら怖いし」
「コツがあるんだよ」に続いて、スイはその言葉を口にした。「高いビルの上で作業するときとか、登山するときの基本。必ず三点で支えれば、落ちない」らしい。
 私は下でひやひやしながら、彼女のからだの動きにみとれていた。引き締まった腕と脚が、伸びたり縮んだりするのを。
 弧を描く斜面を登って、頂上が近づいて傾斜が緩やかになってきたところで、片足をかけるようにして止まる。ふー、と大きく息を吐いて、額の汗を拭う。低くなってきた太陽の光が後ろからさして、短く切った髪の毛がきらきらと輝いた。
 赤茶色の岩に刻まれた、複雑な紋様が浮かび上がる。リアス式海岸線。それを飲みこむ、黄金比の渦巻き。この、六、七メートルくらいもある岩が昔は生き物だったなんて信じられない。
 巨大なアンモナイトの化石の上で、スイはアルファベットのhみたいな姿勢で立っている。私を見下ろしてにかっと笑う。
「モクヨウもおいでよー」
「登れないよ」
「手伝うよ?」
 私が首を横に振ると、えー、と頬を膨らませた。風が吹いて、Tシャツの左の袖がはためく。
 スイには左腕がない。にのうでのつけ根のあたりですっぱり切れていて、かろうじて脇の下はある、と言えるくらいしか残ってない。
 理由は知らない。一度だけ、「ここには昔、親友のヒダリーがいたんだけどね……いろいろあって、さよならしたんだ……」と遠い目をして言っていたけれど、いつもの冗談かもしれない。ていうかヒダリーって何。
 ひとり岩の上に立つ彼女は、今も遠くを見つめている。と、ふいにこちらを向いてにっこり笑い、私の背後を指さした。
 振り返る。そっちは谷で、足場はあと数歩で途切れている。見晴らしが良かった。東側の空は淡い水色で、魚みたいな形の雲がひとつ浮かんでいる。その下にそびえる山。白っぽい、砂でできたみたいな岩肌に、赤茶色や、黄みがかった丸い岩がぼこぼこ埋めこまれている。白い岩はよく見ると層になっていて、スイが言うには、ここらへん一帯は太古の昔は海底で、積もった砂が地層になったあと、持ち上げられて山になったんだとか。ぼこぼこの丸い岩は貝や蟹の殻が溶けたもので、あの岩の真ん中に、このアンモナイトみたいな化石があるかもしれないし、ないかもしれない、とのこと。
 けっきょくスイが指さしてるものがわからなくて、「なに?」と聞くと、「あそこ、かげ!」という返事があった。
 よく見ると、反対側の山の中腹まで、こちらの山の影がかかっていた。アンモナイトの丸い形がわかる。鏡にうつったhの字はスイの脚だろう。
 その影は、両腕を腰に当てていた。
 向き直る。スイは、右手を腰に当てて楽しそうに笑っている。もう一度、影を見る。たぶん私に向けて、ひらひらと左手を振った。
 ヒダリーだ。
 ヒダリーは静かに下ろされると、にゅっと斜め下に伸びた、ように見えた。太陽が雲に隠れたのか、影の形が揺らいだ。
 とんとん、と肩を叩かれて振り返る。誰もいない。スイは背を向けて、私には見えない向こう側の景色を眺めているようだった。
「ねえ、ヒダリーって、なに?」
 私が尋ねると、スイは聞こえてないのかとぼけているのか、「んー?」と言って微笑んだ。

#小説 #短編 #幻肢 #寄生獣

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