拾った手帳 2016年12月~2017年1月

 空の上では時間はぶつ切りにされてしまう。朝焼けの絵を見た。時は円を描き、私たちは羊。怪獣が街を破壊する理由を十文字以内で述べよ。
 ノックすると入ってませんと声が聞こえたのでドアを開ける。誰かが道端で飲みすぎた言葉を吐いている。

 着古したシャツにハサミを入れて短くすると、それは君の肌だった。叫ぶけれど言葉は通じない。
 泣くことは仕事なのだろうか。
 君は時間をむしゃむしゃと食べてしまう。私は喜んで左腕を生け贄に捧げる。
 イチはない、ゼロもない、だからここは成立していない部屋。書き換えられた地面は四つん這いの君の下で窪んでいる。
 笑っていればいい。
 音楽は好きですか?
 絵本は好きですか?
 食べることは?
 眠ることは?
 私の生け贄は減る。

 呼ばれたら言葉のない声で返事をする。これは、紙。黒い紙。指先から流れこむ酩酊を私は望む。これは、目。あなたの目。凍りついた時間のなかでゆっくりと揺れる、波のように、光のように、脈打つように。帰ってきてください。私には祈ることしか残されていない。広大な隙間を埋める暗闇に向かって。

 合図と共に瞼を上げて、突き刺さる色にまた閉じる。新しいものだらけだよ。靴下を履いてコートを着て手袋をして外に出る。
 忘れ物、と長い腕が伸びてきて私に心臓を手渡す。私のではありませんと返すが、あの子のだから届けてあげてと押し出されてしまった。
 それから私はあの子を探している。あの子は小さな肉の塊で、言葉を持たない怪獣だけれど、心臓を忘れてしまった今は不安で仕方ないだろう。
 私は曲がる角を五回連続で間違えた。心臓の鼓動は弱く、血管は枯れていく。足を動かしているのにどこへもたどり着けない、焦りだけが募る。自分が本当に歩いているのかどうかもわからない。
 かさかさに乾いた心臓が破れると中からひとつ芽が顔を出した。手に腕に胸に顔に脚に性器につたが絡みつき、私の体を枯れ木に変える。苔や草やたくさんのいきものが私を分解し拡散させていく。
 泣き声が聞こえる。私は心臓をなくしたあの子を思っている。ふいに体が持ち上がり、頭を撫でられる。

*

 やんちゃくちゃな娘が寝静まってから二回りが夫婦に与えられた時間だった。夫の眼鏡は何年も前から度は合わないし傾いたままで、妻も何年も髪を切りに行っていない。神社でもらったパックの日本酒をちびちびとやり、実家で渡されたおせちを摘まみながら二人は話をする。育児、仕事、これからの生活について。
 一月二日の晩は我ながらいいタイミングだと夫は思う。晦日は穏やかに過ごしたい、元旦は祝いで何かと忙しい。普段できない整理をするには二日くらいがちょうどいい。
 押入の段ボール箱のなかで層を成す手帳には、どれも一月二日のページにびっしりと文字が書きこまれている。資格をとること。就職すること。仕事を覚えること。彼女にプロポーズしたい。引越をする。無事に籍を入れたので、今年は親族だけでも式を挙げる。子どもができた。妻のサポートをする。子どもが生まれた。家ではできる限り育児に専念する。親として自分に何ができるのか考える。仕事が忙しくて妻に負担ばかりかけている。どうすれば今より楽にできるだろう。
 男は手帳を閉じる。
 妻も娘も仕事も家も、貧しくも暖かな生活は薄っぺらく折り畳まれ、男は黴の生えた布団に潜る。ひびの入った眼鏡を外す。すきま風が戸を揺らす音と、救急車のサイレンだけが夜の部屋に響き渡る。
 一月二日が終わると同時に今年の手帳も役目を終える。あとはただ白紙のページが捲られていくばかりだ。

*

 息をすることを最優先とします。

 自尊心のために目を潰す。理想のために首を切る。責任のために腹を割く。うっかり耳を落とし、前へ進む足は絶たれ、藁を掴む手もない。
 すべてはお前の人間性がゆえに。
 ならば私は人間にはなりません。
 汚物臓物にまみれた芋虫のまま這いずって行きましょう。嗄れた喉から発せられる言葉で叫びが止むのなら。肉に残ったわずかな温度で涙が乾くなら。消えゆくかすかな鼓動で寝息が戻るなら。
 そのような人間性など不要です。

 水を飲みます。
 ご飯を食べます。
 排泄します。
 眠ります。
 美しいものを眺め、美しいと感じます。
 息をします。

#文章 #日記 #拾った手帳 #今年の目標

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