耳専門店

 仕事をやめて初めての月曜日、目が覚めると胸が痛かった。もう少しで四月になるのにひどく寒い。朝食に熱いスープを飲んでもからだは全く温まらない。歩けば楽になるかもしれない、そんな、なかば自棄みたいな考えに突き動かされて、季節はずれな厚着をして外に出る。風が強い。
 歩いても歩いても胸の痛みは治まらない。かかりつけの内科の前まで来たけれど、今日は臨時の休診日らしい。行きつけの喫茶店も休み。隣にはあやしげな骨董屋がある。もう限界だ。吹きつける強い風から逃げるように、ドアを開けて転がりこむ。
 残念なことに、なかはあまり暖かくなかった。暗い店内を見回す。数字の3みたいな形のものがたくさん飾ってあるなと思ったら、すべて耳だった。箱に入っている耳、壁にかけられている耳、天井から連なって吊るされている耳。本物だろうか。人の耳だけでなく、たぶん犬や猫、何かわからない動物の耳もある。
 いらっしゃい、と暗がりから声。まるで置物のように小さな老婆が、座布団の上に腰かけている。珍しいお客さんだね、と言うので慌てて店を出ようとすると、冷やかしでもいいから少し暖まっておいき、と優しい言葉をかけられた。あんた、顔真っ青だよ。
 淹れてもらった温かいお茶をすすりながら、老婆の話を聞く。ここは耳の標本の専門店で、取り扱っているのはすべて本物だと言う。例えばこれは画家のゴッホの、と老婆が立派な箱に収められた耳を指さす。真偽のほどは定かでないけれど、そう言われてみると芸術的に見えるから不思議だ。耳の標本なんて売れるんですか、と訊ねると、世の中には変わった趣味の輩が意外とたくさんいるものさ、とのこと。
 からだが少し楽になったので、老婆に礼を言って店の戸口に向かおうとしたとき、床に何か転がっているのに気がついた。拾ってみると錆びたペンダントだった。けっこう厚みがある。端の金具に指をかけてゆっくり開くと、なかには綿に包まれた小さな耳が入っていた。老婆に見せる。間をおいて、これは子どもの耳よ、と言った。私はその耳を買った。
 ペンダントを首から下げて店を出る。ちょうど胸の辺りに当たって、少し温かい。
 聞こえる?
 私が小声で訊ねると、耳はわずかに震えてから、しくしくないてる、と答えた。

* こちらから。

#小説 #掌編 #耳 #さみしいなにかをかく

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