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酷刑

鉄のように固まった足の底を引きずるようにして歩いた。
スーツの上着を肩にかけ、車通りの多い国道から一本入った街路を進む。

全身から汗があふれ出る。
アスファルトと鉄筋コンクリートに囲まれた空間で、逃げ場を失った湿気が全て、身体に纏わりつくようだ。

昼夜の境なく活動を続ける都会では、夜でもセミが鳴く。
国道を走る大型車の轟音とジリジリと迫るアブラゼミの騒音に、思考が現実から切り離されていく。

足を交互に動かすだけの機械になって、殺風景な会議室の様子が脳裏に浮かんだ。
今日も、憂鬱な一日だった。

警察署の一室。
パイプ椅子が四脚と机が一つ。
窓はなく、蛍光灯がくすんだ灰色の壁を照らすだけの空間で、僕は上司と向かい合っている。
取調室といった方が、イメージは近しいだろう。
そこで、散々に絞られた。

"指導"といえば聞こえがいいかもしれないが、この男のそれは、明らかに度を超えたパワハラだ。
本人もそれをわかっているから、わざわざ会議室に僕を呼び出す。
スマホなど、録音できる類の危機は持ち込ませないという徹底ぶりだ。

「おい、どうなってんだよ」

上司が机の脚を蹴った。
ズレた机の端が、僕の腕に当たる。

圧倒的に言葉が足りていない。
人にものを尋ねる場合、まず目的を明らかにするのが礼節ではないのか。
「どこへ行けばいいですか?」と道順だけを請われて、なにを答えればいいのだろう。

毎回、この男との問答では、第一に目的地の推察を強いられる。
そして、それを誤ると理不尽に怒鳴られる。
仮に当たっても、結果は変わらない。

「あの…どうなっているというのは、その…猫の件でしょうか」
「なんだよ猫の件って。具体的にどの件のことを言ってんだよ」

ズシっと、腹の底に鉛を詰められたような気分になる。
男の圧力で真っ白になりそうな頭を必死で捻った。

「……近隣で野良猫の虐待死が相次いでいる事件のことでしょうか」
「他に何があるんだよ。自分の業務も理解できないなら、仕事辞めろ」

「税金の無駄だろ」と続けて、今度はファイルが飛んできた。
その後も、合いの手の代わりに罵声を浴びせられながら、事件の報告を続けさせられた。

ここ数か月、手足を縛られた猫の死骸が相次いで発見されている。
眼や耳を落とされたもの、腹を裂かれたものなど、いずれの死骸にも凄惨な虐待の跡があった。
解剖の結果、死骸の傷の多くに生体反応がみられ、それはつまり、猫が生きたままの状態でいたぶられたことを意味していた。

報告の途中で、不謹慎にも滑稽に感じてしまった。

まるで今の僕と同じだ。
ただ痛みに耐える毎日。

ーなんでできないんだー
ー辞めちまえー
ーバカ、無能ー

机を叩き、椅子を蹴り、ものを投げつけられ、次第に僕は壊されていく。
四肢を拘束され、身動きが取れない中で少しずつ肉をそぎ落とされていく。

なんとかしなければならない。
陰惨な地獄で自己を保つため、僕は、自分で自分をなんとかしなければならないのだーーと思う。

いつの間にか、家の前で立ち尽くしていた。
築四十年の賃貸アパートは、背後にそびえる小山へ続く暗い坂道の途中に、人目を避けるようにしてポツンと建っている。
鬱蒼とした木々がアパートを包んで、夜の闇に溶けているようだった。

ドアの前に立って、部屋の鍵を探す。
上着のポケットを探りながら、今日の問答が思い返された。

「犯人は世の中に対して不満を抱いている者だ。このまま放っておけば必ず人間に被害が及ぶ。その前に必ず犯人を見つけ出せ」

二時間も怒鳴り続けた結果、締めくくりに無能な上司が言い残したのは、なんら具体性のない稚拙な見解だった。
そして僕は、明日から街中の防犯カメラの映像をチェックする羽目になる。

鍵を回すと同時にため息が漏れた。
そんなことをしたって、犯人が見つかるはずないのにーー

玄関を開けると、奥に続くリビングのドアの窓から明かりが漏れていた。
しまった、出際に電気を消し忘れたか。

靴を脱ぐために鞄を置いた中腰の姿勢から、顎をあげてリビングの様子を伺った。
曇りガラスになっている窓の向こう、うっすらと動くシルエットが見える。
続いてミケの鳴き声が聞こえて、僕は安堵した。

リビングの明かりを頼りに靴を脱ぎながら、明日からの徒労を憂いた。

そんなことをしたって、犯人が見つかるはずないのに。
これまでの業務の経験から、街の防犯カメラの位置は把握しているのだから。

そもそも、上司は肝心な点で思い違いをしている。

犯人が不満を抱いているのは確かだが、それは世の中に対してではないし、放っておいても人間に被害は及ばない。

猫と人間とでは、万一、捕まった時の罪の重さがまるで違う。
僕だってそこまでバカではない。
そして僕が不満を抱いているのは、あの無能な上司、ただ一人だ。

リビングに続く廊下で、フツフツと怒りが湧いてきた。
全て、あの男が原因だ。

街中を駆けずり回ってカメラの映像を集める苦労も、こんな悲惨な事件も僕のストレスも。
あの男が僕への態度を改めれば、すぐに無くなるのだから。

曇りガラスの向こうで、宙に吊られたミケの影が行ったり来たりーーまるで振り子のように揺れている。

なんとかしなければならない。
陰鬱な日々に耐えるため、僕は、自分で自分を保たなければならないのだーー

僕は、リビングのドアに手を掛けた。

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