【フィクション・エッセイ】青松輝の短歌を読んだ⑥ 「CULT/蛾」(『Q短歌会 第四号』2021年11月20日)の頃


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その年末年始を〈私〉はバイトで過ごしていて、年末年始の期間は7日間あった。
もしも、ここがメイド喫茶の休憩室だとしたら……なんにせよ〈私〉は今、休憩室で短歌の同人誌を開き、読む。

愛はカルト 一生ものの思い出にプラモデルみたいに触ってほしい

/青松輝「CULT/蛾」

一生ものの……になるからには、一度きりだろう。機会は一度きり、一度きりだからこそ一生ものたりえる。
そんな一生もの機会を、触らせる側が与えているように見える。自身が〈一生もの〉だ、という自意識があるようにも見えるから。
えてして触られる際には相手の感情などが向けられるものだが、この一首では、あらかじめ触わり方の指定がされている。
プラモデルみたいに。
プラモデルを触るという接触行為が、どのくらい普遍的なのか、どのような気持ちで触るのか。分かるようで分からないな、って思う。

それでも「触ってほしい」と求めている側にとっては分かっていて、なんなら「プラモデルみたいに」で伝わると思っているのだろう。

だとして……
たとえば、目視による「触る」だとしたら、分かる。
プラモデルって眺めて楽しむものだ、と思うから。
でも、プラモデル(そもそもガンダムのようなイメージなのか、城シリーズのようなイメージなのか……)って眺めるだけが楽しみではなくて、組み立てにも楽しみがあって、自身で組み立てたプラモデルみたいに……だとしたら、分かる余地がある。
けれど、組み立て後/完成となるピークは、どこに想定されているのだろう。

もし、ここがメイド喫茶だとしたら、バイトしている〈私〉は客体側であり、もちろん店内での直接の接触は禁止だけど、目視での楽しみによってなら対価を得ていると思う。
それで折角なら、瞬間的な目視で一生ものの満足度を得てほしい気持ちがないわけではない……まぁ本当に一生ものになっちゃったら、もう来店してもらえなくなるかもしれなくて、それはそれで困っちゃうんだけど。

休憩時間の終わりが来て、膝に乗せていた毛布を手にしながら椅子を立つ。
やっぱり〈愛はカルト〉だよね、って呟く。
呟いてみる鏡の前で〈私〉は「ばっちり」って言う、鏡のなかの〈私〉に言わされてるなって思いながら、だけど「ばっちり」って言わせているのも〈私〉だ。
愛って、いろんなニュアンスがあるはずだけど、お互い(あるいは一方的な)思いが大事。
愛が実体を持つ場合はあるかもしれないし、実体の共有によって確認し合える場合あるかもしれないけど。当事者たちによる共同幻想の合致は稀で、ほとんど一方的な感情や不均衡によって成立しているんじゃないかな。それを〈カルト〉だとするのなら、なおさら。

それにしても、この一首の「触らせる」側が、いわゆる〈カルト〉での教祖側なのか信者側なのかってのは、どちらもありえるんじゃないか……って思えてくる。
とりあえず今の〈私〉は「一生ものの……になりえる今になりたい」なのだと思って〈愛はカルト〉を受容しながら、過ごしてるところ……。

   ◇

チョウ目のほとんどを占めているのは蛾らしい どっちでもいいのに

/青松輝「CULT/蛾」

どっちでもいいのに、と表明しているのは作者〈青松輝〉だ、と〈私〉は思う。
だから〈私〉は一首に対して、あるいは作者〈青松輝〉に対して「どっちでもいいってことはないと思う」と言うことができる。先に「どっちでもいいのに」があるから「どっちでもいいってことはない」を表明できているのだという事実は甘受しつつ、とはいえ〈私〉は、分類の功罪や利便性についてでしか「どっちでもいいってことはない」という所感を持っていない。この所感の詳細は、今のところ〈私〉にとっては自明だからという理由で省略されるが/おそらく、そのくらいは〈青松輝〉にとっても折り込み済み(だと思うの)で、だから省略するが……。

どっちでもいいのに、は
昆虫のなかでは、いったん蛾と蝶は一緒くたされるときのなわけではないだろう。蛾は蛾でしかなくて、蛾がチョウ目だという分類に対してでもないだろう。チョウ目の内訳がほとんどが蛾である、に対してでもないだろう。蝶の種類が蛾に比べて圧倒的に少ない、に対してでもないだろう。この「だろう」は全て〈私〉の想定による「だろう」でしかない、にしても。
でも結局、全体に対する部分のバリエーションや解像度の話で、つまり「相対的に、自己を確立させる/他己を認識する」働きに対して、どっちでもいいと表明している。

たとえば、
蝶にとって蛾は偽物・バッタものだとする発想があり、表面上は蝶だけれど内訳を占めているのは蛾だ……という、蛾を蝶に見せようとする状態には「蛾より蝶の方が望ましい」といった価値観が通底している。その価値観や蛾を蝶に見せようとする姿勢への、どっちでもよさならあるかもしれない。

同人誌を閉じて、顔を上げた〈私〉は「どっちでもいいのに」に相対して今「どっちでもいいってことはないと思う」スタンスの自己をしていた。
顔を上げた〈私〉の視界には〈チョウ目のほとんどを占めているのは蛾らしい どっちでもいいのに〉という文字列(の一首)しかなかった。それは〈青松輝〉の視界と同一ではないと思う。ほぼ全ての〈青松輝の短歌〉が、というわけではなく、この一首は少なくとも〈青松輝〉の視界・景の共有が図られているわけではない。
作中内で何が起きているのか/作中内そのものを現象として読者の〈私〉に刺激するベタなタイプではなく、作中外で何が起きたのか/何をしようとしているのかメタなタイプの志向に偏っているように思う。ベタ部になりきれない要因の一つに、生身の〈青松輝〉の自意識が余分としてあるのではないかとも思う。もしかしたらビジュアルありきな〈ベテランち〉としての表現や活動の関与が、作者側の意識にしろ読者側の意識にしても、あるのかもしれないけれど。
とはいえ一首に、どっちでもいいのに……という心情になっている〈青松輝〉の姿を見出すことはできる。前半の情報「チョウ目のほとんどを占めているのは蛾らしい」が「らしい」という伝聞であり、いったん「チョウ目のほとんどを占めているのは蛾」だと言っている存在がいる。対して「どっちでもいのに」と反応する〈青松輝〉によって、意味内容そのものではなく「チョウ目のほとんどを占めているのは蛾」というニュアンスの喧伝者が存在してくる……のだけれど、どちらにとっても相対的だなとは思う。
視界という意味では「チョウ目のほとんどを占めているのは蛾」というニュアンスの言葉そのものや発言者にまつわる景……というのは、ありえるし〈私〉自身の経験などに心当たりがないわけではない/し、想像ができないわけでもない。しかし〈青松輝〉の「チョウ目のほとんどを占めているのは蛾らしい」の具体的な対象を指摘できるかもしれない(指摘できること、指摘することが必要な一首ではないとは思いつつ)が、それでも〈青松輝〉の「どっちでもいいのに」にアプローチしたい、もっと順接にコミットしたい……というのは〈私〉の、わがままなんだけど。
今のところ〈私〉には、難易度が高い。

あるいは、
蛾なら蛾のままでいいじゃん、が実際のところ、どのくらい通用するかは分からない。
それよりも、蛾を蛾だと思うことが(蛾という名辞なしで)できるかどうかにも興味がある……どうでもいいのに、と言っている〈青松輝〉は何なのかにも興味はあるわけだけれど、むしろ〈私〉が〈青松輝〉だと思えば〈青松輝〉となるときの、しかし〈青松輝〉というだけでは他者と共有できるわけではない〈青松輝〉について……

   ◇

どちらかというと〈私〉は、時や場合などの環境・外的要因によって、能動的にしろ受動的にしろ別の〈私〉になれるし、積極的に別の〈私〉でいたいとも思っている。
あるいは、アクセサリーやファッションなどによって別になれる/なろうとできることを知っている……とはいえ、どうしても同一の〈私〉でしかない部分もあり、例えばアイデンティティと呼ばれたりするのだと思うのだけれど。
みたいなことを考えさせ始めたのは、

夜の庭 ミュージックアンドエコロジー 朝の庭 春の庭 虹の庭

/青松輝「CULT/蛾」

が、きっかけになっている。
つまり〈庭〉にとって「夜/朝/春/虹」は装飾であり、アクセサリーとして機能しているのではないか……具体的に「夜/朝/春/虹」に序列があるかというと、微妙なところ。唯一「虹」には発生条件が必要ではあるけれど、とりあえず。微妙なところ、というのは「ない」としたいところなのだけれど、とりあえず「夜/朝/春/虹」において〈庭〉の様子が別になる。
すくなくとも、様子が別だと認識できる。
それは勝手に変わる/押し付けられた環境としての「夜/朝/春/虹」に〈庭〉がいるという目線として、ではあるだろう。そういう意味で、一首内に四種類の〈庭〉がある。

二句目・三句目が〈ミュージックアンドエコロジー〉なために、定型に収まっているのは一句目〈夜の庭〉のみで、そのぶん〈朝の庭/春の庭/虹の庭〉にリズムが生じる。夜から朝への時間経過な〈ミュージックアンドエコロジー〉で、下の句だけで「朝であり、春であり、虹がある」とも読めるが、それぞれの独立性への寄与がリズムにはあるのではないか……つまり一画像で「朝であり、春であり、虹がある」する、というよりはスライドショー的に切り替えられているような感じ。

一方、あくまで〈庭〉は〈庭〉だというスタンスもありえる。同一の〈庭〉は何も変わらず/変わってるつもりはなく、ただ外的要因が変わっているだけな場合。
それならそれで「夜/朝/春/虹」それぞれに、たえうる〈庭〉なのだろうか……さきほど「夜/朝/春/虹」に序列はないとした矢先ではあるが〈庭〉は変化しないまま「夜/朝/春/虹」の全てを得たい/居たい、とするのは無茶があるのではないか。
しかし実際のところ「夜/朝/春/虹」それぞれへの、あるいは「夜/朝/春/虹」での〈庭〉の内実・内情は分からない。
実際「夜/朝/春/虹」に関しては〈庭〉側の好みなどで、存在しない取捨選択ができるわけでもない。

同時に「夜にとっての庭/朝にとっての庭/春にとっての庭/虹にとっての庭」といった〈庭〉を見る側にとってのバリエーションもあるはずで、どれから見る〈庭〉が魅力的(ニュアンス)か……という発想も、ありえる。

それにしても、
この一首の内容は「見方について」に偏っていて、対象としているもの、一首の〈青松輝〉にとっての〈庭〉が何なのか、どういう景なのかは分からない。
だから、ある対象の「見方について」みたいな一首だなぁと〈私〉は思う。


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