笹川諒の歌集『水の聖歌隊』を読んだ

   序

今ここに『水の聖歌隊』というタイトルの本があり、適切と思われる数の短歌が印字され、歌集と分類される。だから今ここにある本を歌集『水の聖歌隊』という総体として、手元に本としてあるという事実を含め、いったん『水の聖歌隊』が『水の聖歌隊』の全てだ……として、読みたいらしい。
あるいは自分が、たまたま〈笹川諒〉への、ほとんど初めてのファーストコンタクトだからかもしれない。けれど、これまでの活動や公開短歌を見たり聞いたり読んだりしていても、あくまで『水の聖歌隊』が『水の聖歌隊』の全てだ……と読ませる姿勢が、歌集側からの圧としてあるし、たしかに歌集側による徹底を感じる。

短歌をしていて、歌集外にある作者名にまつわるパブリックイメージやパーソナルイメージなどを付与して読む楽しみ……はあり、逆に、歌集内のみで完結・満足させるみたいなところはバグりやさがある。それは〈私〉性が……と言って言い始められはするかもしれないが、対人関係を基にしたコミュニティ依存によって〈本〉よりも〈人〉が優先されやすくなる。し、実際のところ〈人〉が面白いのだという言説も、コミュニティ間(内輪/うたげ)の関係が面白い説も、決して分からないわけではない。が、あまりにも〈本〉を読む楽しみが疎かになるのも如何なものかと思う。(もちろん、まずは作者側が、どのようなスタンスや扱いで歌集にしているかに因るとは思う。とはいえ)

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……というのも、歌集『水の聖歌隊』のスタンスが、歌集一首目の

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって

「こぼれる」

に集約されている、と思えてならない。からで、ここに〈歌集/本〉としての作為があると見なければならないような気がしてくる。
椅子に深く、この世に浅く腰かける ……深く/浅く、を両立できる腰かけ方。椅子/この世、に同時に腰かける方法。それらは仮定や、自身が思えるかどうかなどに依拠する。仮想空間、それこそ詩的空間での自身の位置を探りあぐねている感じ、に思う。
この世、から、あの世を彷彿する。なにも、この世に浅くーーあの世に深く、と思うわけではなく、地続きに〈この世ーーあの世〉があるとすると、この世に背を向ける座り方になるのではないだろうか。
この世に背を向ける/腰かける、とき向いているのは、あの世……なのは「何かこぼれる感じがあって」その何かを、こぼさないようにするためか。

それにしても一首目以降ずっと、はっきりしない感じがある。はっきりしないのは、いいとして、あまりにも一首の意味内容・感情・質が甘すぎるのではないか……という短歌が、ずっと続く。ような印象を受ける。幽玄さ(淡さ、のニュアンス?)がいい、とするには不十分さが過多すぎるような印象も受ける。
しかし、決して質が低すぎると言いたいわけではなく(実際、アベレージの高さはあるかとは思う)どれかというと感情が、はっきりしないのが気になる。
もしかしたら一首ごとに、はっきりあるのかもしれない。が、それなら〈本〉になる段階で、こぼれてしまっているような。とはいえ、歌集総体で短歌群での表出や体現によっては、あるかと思う。
と思うまま、しかし、この〈椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって〉が歌集内で最もビビッドだと思い続ける。思ってしまう、しかし初読で一首目をビビッドだと読んだわけではなく、結果的にビビッドな一首だったのだと思い到る。一首目を越える一首を探そうとするときの、歌集『水の聖歌隊』に対するシビアな気持ち。

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ふだん自分は、ほとんどの短歌を読むとき、
一首ごとにおける〈私〉を、私たちの一員になれる場合/読者が内在化できる場合/あくまで個人とする場合……などの短歌側のコンディションやポテンシャルの種類がある、と思いながら読んでいる説がある。

歌集『水の聖歌隊』の多くは、

この雪は僕らの原風景に降る雪と違ってたくましすぎる

「青いコップ」

優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊

「水の聖歌隊」

の〈僕ら〉や〈聖歌隊〉などでの、集団的な、読者も巻き込んだ〈私〉たちの範囲の取り方に読める。
それは、

静かだと割とよく言われるけれどどうだろう野ざらしのピアノよ

「こぼれる」

ひとひとり殺せるほどの夕焼けを迎える地球 痛みませんか

「水の聖歌隊」

といった「静かだと言われる」という他者視点からの自身の自己紹介(っぽさ)を含めた、そのものからの答えを期待しているわけではない対象〈野ざらしのピアノ〉や〈地球〉への呼びかけや

蒸しパンをちぎったあとの指先を押し付ける、わけでもなく触れる
青いコップ 冷たいことを知りながら触れるとひとつ言葉は消える

「青いコップ」

の「押し付ける」から「触れる」への、やさしい語彙への言い換えや確信的喪失感など〈私〉たちになりうる(自ら何かに触れるしようとするときの心持ち?)共感の集まり・高まりが〈僕ら〉や〈聖歌隊〉側だと自認する読者にとって居心地のよさがある、だろうとも思うからなのだけれど。

それでも、必ずしも一定のトーンが貫かれているというわけでもなく

手のひらを窪ませるならそれはみなみずうみそして告げない尺度

「水槽を歩く」

の「ならそれはみなみずうみ」とする強さに全能感のようなものを感じないわけではないし、だからこその「告げない尺度」にも強い意志を感じる。
しかし一体、どうして頑なに「告げない」しているのか/何に何の尺度を強いられているのか、不明ではある。尺度……外部の何かを対象として、決めつけをしたくない感情が分からないわけではない。あるものをあるがままにしておきたい、自己判断や決定を避けたいといったニュアンスでもないのではないか。
たとえば

病院にいるとき僕はすこしだけ幼稚園の砂場を思い出す

「色水」

における〈すこしだけ〉を尺度だと思ったりする、あくまで「告げない尺度」は、この一首において……だとしても。しかし、だからこそ……とも思うところがある。
一体、何を守ろうと頑なをしているのか。自尊心や信条……と捉えることはできるが〈私〉個人として表明したくない、のか?とも思うわけだけれど……それよりも歌集を通して自身の内部を開示しきらない頑なさがあるような感じが気になる。

しかし、

ひとつまた更地ができる ミルクティー色をしていて泣きそうになる

「裸木」

この一首で泣きそうになるのは〈私〉だけなのではないか、とも思う。泣きそうになっている〈私〉を見る体勢に、読者の私はなってくる一首だ。
し、

もうずっとむかし書いてた小説の主人公、川野初美、だったな

「天国の自転車」

「いつかおまえと生死を賭けて戦う」と言ってたクラスメイトがいたな

「涅槃雪」

こういった〈私〉のエピソード開示もある。

〈僕ら〉などを読者の内在化への誘発と感じ、実際、内在化したほうが読めるタイプなのではないか……という私的な前提で、ずっと懐疑的な気持ち(ここに善悪があるわけではない)で読んでいて、つまるところ、どうして歌集『水の聖歌隊』がこうなってあるのか理解できずにいた。
しかし、

自分から死ぬこともある生きものの一員として履く朝の靴
靴音を鳴らして歩け 春の日の鍵盤はみな許されている

「線香と春」

連作「線香と春」の五首を、親密他者〈きみ〉の死(自死)だと読むと一気に見え方が変わった。
この〈私〉にとっての他者、この〈私〉が思い寄せている相手は、ずっと特定の一人なのではないか。つまり〈死者〉であり、きっと〈「いつかおまえと生死を賭けて戦う」と言ってたクラスメイト〉なのではないか。
つまり〈僕ら〉や〈聖歌隊〉に読者は含まれていなくて、ずっと〈きみと私〉の二人きりなのではないか。

呼びあってようやく会えた海と椅子みたいに向かいあってみたくて

「マヨルカ島は遠く」

コインチョコを壁にぺたぺた貼っていく遊びがあれば二人でしたい

「きんいろの猫」

感情を静かな島へ置けば降る小雨の中で 踊りませんか

「その島へ」

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ここまでの、ほおんどの引用短歌は歌集の前半(Ⅰ部とII部)で、後半(Ⅲ部とⅣ部)では様子が変わってくる。
呼称・表記の〈あなた〉が過密する過程があり、これは親密さのではない遠さに因るもので、この世のほうに〈私〉が深く(この世に浅く、よりは、この世のほうに少しだけ大勢を変えたような印象)なって、あちらのほうの〈あなた〉としていくニュアンスではないか。
読み返すとI部も〈あなた〉表記なのだけれど、遠いから近いにするほうの過程で、別の扱いになっている。

花柄のシャツをよく着る友人がこの夏に飲む水の総量

「チェンバロを置く」

後頭部に扉が増えてゆくような気がする漆器のにおいを嗅げば
首筋にマッサージ器を当てるときだけ思い浮かぶ夏の空港

「フォルム」

昼のあと朝が戻ってきてしまう日も時々はあればいいのに

「迂回路」

感情にも骨がある ひえびえとしたボトルキャップを噛んで気付いた

「草原」

この世のほうに位置が変わることでの変化はあるものの、世界の見方や見え方が大幅に変わるわけではなく、変わらない部分のほうが多い。その分、変わらない部分を前提とした変化のほうでの揺れを受容できる。
地に足が付いた感じ、ふつうの生活感……と言ってしまえば、それまでかもしれないけれど、とはいえ単調さがあるようには見えてしまう。この世ベースだと思うと、一気に発想が「短歌側の〈私〉≒作者の発想」として浮いてしまうからではないか。むしろ、前半部において浮いてない……が重要かもしれないが。
それはそうとして、この世ベースにおいて〈私〉から〈きみ〉への思い寄せが出現するタイミングが点在する……ように読める。

会議にはキャンドルが似合う人ばかり生まれかわってもまた死ぬ僕ら

「夏の窓」

長い長いエスカレーター昇るときたまに思い出す合唱曲がある

「ズブロッカ」

なんというか、急に、物分かりがよくなったわけではない感じはある。もの分かりよくはなっていない、という、よさあると思う。   

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歌集の終わりに向けて緊張感が緩まないのを、良さのニュアンスとするか作者の不器用さと思うかは分かれるの思う。
自分には今、後者の気持ちがある。
だから「Ⅳ」は、本の終わりに向けて上手く取りまとめようとしたな……という印象が、よくないほうの印象として残っている。

(海沿いを歩くシスター)それからを僕は幼い僕と歩いた

「手に花を持てば喝采」

の〈僕〉と〈幼い僕〉の分離、この一首において作者としての〈僕〉が一首内・歌集内に存在する/していたという自覚があるのかもしれないけれど……とはいえ……(???)

余談にはなるけれど、

少年の背に光るラケット 幽霊とすれ違うならこんな坂がいい

「こぼれる」

サンドイッチに光をはさんで売っている少年、のような横顔だった

「夜をゆくもの」

なんとなく〈少年〉を思い出したりもする、が……

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ずっと作者≒読者の位置は変わらないまま、あるゾーン(=水の聖歌隊)を経過する……ような感覚がある。
歌集内において、
I ー 今
II ー 過去
Ⅲ ー 近過去
Ⅳ ー 改めて今
のような時間軸があるとして、その時間軸を遂行するのが『水の聖歌隊』にとっての〈詩〉ーー歌作・歌集なのだと思える。
過去の〈私〉の心情や回想は厭いはないが、今の〈私〉のとなると輪郭が薄くなるというのも徹底の一環だろう。
画面の設置が図られていることと、歌集完結しようとしていることの『水の聖歌隊』にとっての意義は分かる。
基本的に、作歌時の今において(緊張感の)維持・統一されているからで、それは

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって

「こぼれる」

で、既に示されていた。

例えばガソリンスタンドにある車の機械洗浄のような刺激での、感覚のジャック率の高さはある/現実の〈笹川諒〉に実体が出てくるわけではなく、本人に関与する必要もないし、現実へのコミットの必要もない/読む以前・以後があるタイプではなく、ただただ読んでいる最中が〈そのもの〉なアトラクション性……のような読書体験がある。

それにしても、
歌集内の短歌は案外、意味に偏っている。それは引用した短歌の偏りの可能性も0ではないが、それでも、ここで引用した短歌に音の工夫がないわけではないとはいえ……けれど、意味内容そのものでないところでの受容ポイント(抒情?詩情?や、音)は薄い、と思う。あるいは、世界の見方のような部分を意味内容そのものだとするのも諸説あるが。しかし、薄い(甘い)のは一首単位での場合で、歌集全体としてはあると(感じる/見出せる)は言える。だから『水の聖歌隊』に対して、総体としての表出にコミットすればいい、だけなのかもしれないが……表出の要素、主に〈私〉から〈相手〉への思い寄せ部に因るだろうが、読者の私からすると〈相手〉へ思い寄せしている〈私〉への視線が(歌集『水の聖歌隊』にとっては)ノイズとして生じてしまう。
もちろん、自分が「ない」と感じるだけで、一首単位としても歌集総体としても、もっと「ある」なら、どう「ある」のか、どう読むから「ある」のか……などは知りたい。


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近ごろは、例えば「車の機械洗浄」のように、受容者の環境まで〈本〉で設定・限定するには難易度の高さがある……みたいなところへの興味もあるところ。


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