【フィクション・エッセイ】青松輝の短歌を読んだ⑤50首「days and night」および「noisemonger」(『いちばん有名な夜の想像にそなえて』2022年5月29日)の頃


https://note.com/y_aao/n/na58491dc1a9d

↑前回の↑


キルミー 好きになっちゃいそうだよ ミルキー 朝は夜のささやき

青松輝「days and night」

全部は言えない ガードレールに腰掛けてポードレールのながい憂鬱
犯人はいつも凶器を川へ捨てる けど 犯人が僕だった場合は

青松輝「noisemonger」

お祭りみたいな会場で購入し、日曜日の閑散とした有楽町の居酒屋(三階建ての建物の、通された三階には解散するまで〈私〉らしかいなかった)で通読した。
一読目で気になった三首ではあるが、とはいえ冒頭のほうから〈夜のフィアー/韻のエアー/律のボウ/夜のパルム/愛にノン/詠のソアー/敵はいる/ベッドルーム〉……などの、一首ごとにおける地点の設置が甚だしい。
よくも悪くも落ち着きがなく、どちらかというと散漫な印象を受ける。かといって、歌数を絞れば(減らせば)いいのにという気持ちはない。功罪というニュアンスでは、散漫さにも由来する功のほうが多いだろう。
注文したビールなども相まって楽しいっちゃ楽しい。

夜のフィアー ここからここまでは現在でここからは未来って教えてほしい

青松輝「days and night」

つまり初句の〈夜のフィアー〉が後半に寄与するのか、それとも後半部が〈夜のフィアー〉に寄与するのか。実は〈夜のフィアー〉と後半部〈ここからここまでは現在でここからは未来って教えてほしい〉は無関係なのか、あるいは〈夜のフィアー〉と後半部は、ほぼほぼ同じくらいのパワーバランスなのか……パワーバランスは、このような形の短歌それぞれによって別だが、一首の強度について/と、先立って『文学界2022年5月号』で発表された短歌で再構成されている印象もあり、既発表短歌+新作で150首→200首→250首……と刻んでいって、ちょうど300首に到達するタイミングが歌集の出版できるタイミングと合致するといいのだろうか。という予感(しかし、このようなリミックスは「demotype」→「vocal」などで既にあって予感でも何でもないけれど/ちなみに瀬口真司も同様の再構成をしているが、印象は同様ではない)

   ◇◇◇

近ごろ〈私〉は短歌を読むときに、その短歌を書いた存在ありきでしか読めなくなっていた。いわゆる一首内に存在する〈作中主体〉像ではなく、今この短歌を書いている〈作者〉の姿だ。いっぽう〈私〉は、今この短歌を読んでいる読者である。
……とはいえ、

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4

青松輝「days and night」

が発表された前後にあった〈工藤新一〉イメージ像に纏わる言説がミスリードになっていて、しかし、この作者〈青松輝=工藤新一〉という仮説は、いったんの有効さがあるのではないか。
いわゆる〈工藤新一〉は、週刊少年サンデーに連載中の漫画を原作とした「名探偵コナン」シリーズの主人公だ。

俺は高校生探偵、工藤新一。
幼馴染で同級生の毛利蘭と遊園地へ遊びに行って、黒ずくめの男の怪しげな取引現場を目撃した。
取引を見るのに夢中になっていた俺は、背後から近づいてくるもう一人の仲間に気づかなかった。
俺はその男に毒薬を飲まされ、目が覚めたら……体が縮んでしまっていた。
工藤新一が生きているとヤツらにばれたら、また命を狙われ、周りの人間にも危害が及ぶ。
阿笠博士の助言で正体を隠すことにした俺は、蘭に名前を聞かれてとっさに……
「江戸川コナン」
と名乗り、やつらの情報をつかむために、父親が探偵をやっている蘭の家に転がりこんだ。
博士は小さくなった俺のために……
たった一つの真実見抜く見た目は子供、頭脳は大人、その名は、名探偵コナン。

青山剛昌『名探偵コナン』

というのがアニメ版や劇場版での決まり文句・前口上であるが、読者に共有されている事実として〈工藤新一=江戸川コナン〉という二重写しがある。これは作中内・物語上からの共有だが、他に〈私〉は同一の声優(山口勝平氏)が演じているという事実で〈工藤新一=怪盗キッド〉を指摘することができる。
どちらかというと〈怪盗キッド〉のほうがイメージ像として合致しやすいのではないか……と思えすらするが、思い寄せのある特定の相手がいるかどうかという点では〈工藤新一〉に他ならないのは分かる。
青松の一首にある〈数字しかわからなくなった恋人〉は(少なくとも作中内において)特定の相手が想定されている、と読んでいるからだ。

たとえば〈青松短歌〉から、声……と如実に思うのは、

世界線こえてきました ほんとです タイムリープものです ほんとにです
   ・
きみが電車に運ばれているところだって想像したよ。しただけだけど。

青松輝「noisemonger」

あたりであり、今の〈私〉は〈怪盗キッド〉像あるいは〈工藤新一〉像で受容しているからか、読者の〈私〉自身の口を経由しての発声ではなく〈私〉にとっては外部スピーカー的な、それこそ〈怪盗キッド〉像あるいは〈工藤新一〉像の口からの発声のように思う。
そう思ってでも思わなくてでも、なぜ、このような文言を〈短歌〉にしているのか/この作者にとって、する必要があるのか……という疑問でのアプローチはあるわけだけれど、この本『いちばん有名な夜の想像にそなえて』に収録されている〈青松輝の短歌〉は「自身の状況の伝達・自身の見聞きの伝達が重視されている……?」というのが、今のところの所感。
だとすると読解には、同一の声を共有する〈青松輝=YouTuberベテランち〉あるいは生身の作者本人の動向や興味・関心の対象などの二重写しが必要になってくるのではないか……そういう意味での「半分さ」を感じずにはいられない。
同一の発声源に、一方が〈短歌〉そのものだとして、もう一方がある感じがする。

もし「俺は、青松輝。……」という出現をするにしては、まだ〈私〉にとってパブリックイメージが巧く共有できないな・定まらなさがあるな、と感じる。これは『いちばん有名な夜の想像にそなえて』の〈青松短歌〉との接続において、での感じ。
ここで〈私〉は前例として、工藤吉生の場合の「ぬらっ」を連想してしまったりするけれど、とはいえ/大前提に「〈青松輝〉の短歌を、どう受容したらいいのか分かりかねている」という今がある。
このような今を〈私〉は愛好してはいるが、それにしては「分からなさの持て余し」に対しては今そこはかとない、ものたりなさを持て余してはいる。

   ・
ここで〈私〉は、ネットプリント「第三滑走路 12号(2021年9月11日)」にあった青松輝の散文「夏休みの自由研究」を思い出してみてもいい。

https://twitter.com/3kassoro/status/1436525149331722241?s=21&t=Q8DPNFYCrTk_yntBYLGXcg

短歌20首に関連した作歌時と同時期の、主に詩に対する所感や、一首を引用しつつの作歌に関する所感の開示。これ自体に〈私〉は、全くネガティブな印象を抱いてはいない(詳しくは、別の機会にしたい)

しかし、
先日、とある写真の二人展(知人と、初の人)を見に行った際、知人ではない方が在廊していて別の来廊者と会話していた
のを、流し聞きしていたのだけれど「写真なんて、文章の副次物だから/文章を読んでもらうために、写真を展示してる節がある」と、のたまった。のたまった、と〈私〉は思った。
思いはしつつ「その説、あるだろうなぁ」とも思う。その人の写真が、という意味ではなく、写真というジャンルに限らず、もっと広義なニュアンスで。それに抵抗するか、甘受するか、都合よく活用するかは各々のスタンスや姿勢などに拠るところではあるだろう……。
   ・
いささか『いちばん有名な夜の想像にそなえて』(本自体は、青松輝と瀬口真司の共著であり、ここでは青松輝のパートにしか触れていない)に対して、混雑してきたように思う。おそらく、どこかから見立てに無理があるかもしれない。

   ◇

love you を lov u って書くのかっこいい、デーモンコアの青い光

青松輝「days and night」

を読むと、

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4

青松輝「days and night」

の〈4〉はミーム的に〈for〉の意味なのではないか。何かしら〈gift〉となる(つまり「好きだよ、という囁き」だろうが)言動やモノなどの省略語としてある〈4〉 ……しかし〈数字しかわからなくなった恋人〉という仮定においては、数字としての〈4〉だろうが〈for〉だろうが、同じことかもしれない。
あるいは、

数字しかわからなくなった恋人が桜の花を見る たぶん4

青松輝「days and night」

もあり、とはいえ、これらは文字表記に拠っているなという印象がある。

   ◇◇◇

狂ってる?それ、褒め言葉ね。わたしたちは跳ねて、八月、華のハイティーン

青松輝「days and night」

今のところ〈私〉にとって〈短歌〉として良質だなと感じる一首を挙げるとしたら、この一首になるが、あまり意味はないだろう……(もちろん「狂ってる?それ、褒め言葉ね」というフレーズがコピペ・ミームであることは織り込み済みでのであり/しかし、このような〈短歌〉で〈青松短歌〉群の精度を高めてほしい気持ちがあるわけでは、決してないが……)
『いちばん有名な夜の想像にそなえて』において〈青松短歌〉は、あまり景の伝達はされていない。
それから〈青松輝〉が見出す・創出する詩情について、それがあるとして/放棄されているわけではないとして、どう受容したらいいのかが分からない。
分からない、という状態に対し〈私〉は基本的に、歓迎の姿勢を取りたいが、しかし、この分からなさは全然たりない。やはり、全く不十分な分からなさに〈私〉はいるな……ということを自覚しつつ「今、この短歌を読んでいる」という文章を書いている。
つづく……


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