詩「Vanilla」(青松輝)の話がしたい


山梨県にほんとうの雉がいる。じつは山梨県じゃなくてもいいんだ。じつは雉じゃなくて
もいいんだ。きたない地図にほんとうのテレパシーがある。じつはきたない地図じゃなく
てもいいんだ。じつはテレパシーじゃなくてもいいんだ。


 この「Vanilla」という詩の「◇」によって区切られた六つのブロックの冒頭にある文字列は、享受していく際の「前提」として機能する。のではないか、という仮説がある。
 大きく分けて「山梨県にほんとうの雉がいる」と「きたない地図にほんとうのテレパシーがある」の二つのセンテンスで構成されており、それぞれ「ほんとうの」によって上下の語彙が接続されている。
 まず「山梨県にほんとうの雉がいる」の方は「山梨県」と「雉」という単語であるため問題にならないのだけれど、同じように「じつはきたない地図じゃなくてもいいんだ。じつはテレパシーじゃなくてもいいんだ。」と追記されることで「地図」ではなく「きたない地図」という、たとえば「新品の地図」にはならない、固定された一つの単語として提示されていることが分かる。
 同じように、という規則性としては「の範囲内に」が浮上する。どうしても「山梨県(の範囲内)にほんとうの雉がいる」や「きたない地図(の範囲内)にほんとうのテレパシーがある」としたくなる。あるいは「山梨県の範囲内に雉がいる」や「きたない地図の範囲内にテレパシーがある」とすら言い換えてみたくなるが、そうしてみたところで「ほんとうではない雉」や「ほんとうではないテレパシー」が範囲内に存在するのだろうか。俄然「範囲内の密度」が気になってくる。
 もちろん「山梨県」は固有のもので具体的に共有することができる、一方「きたない地図」は普通名詞である。そうすると「雉」は具体で「テレパシー」は抽象なのだけれど、更に言うと「いる」は可視で「ある」は不可視である。
 ところで「じつは……」と打ち消されたあとに残るのは「ほんとうの」のみで、興味があるのは「ほんとうの」のみだとされている。のだとすると、いったん「ほんとうの」として想定されているもの、それは希求しているものだと思われるが、このような言葉の扱われ方に今ときめきを感じているところ。


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