【フィクション・エッセイ】青松輝の短歌を読んだ②(文學界(2022年4月7日)の頃

※青松輝の短歌には概ね「私」表記の一人称が使用されていないのをいいことに
本文中では、筆者の一人称を〈私〉と表記しています。

https://note.com/y_aao/n/n3792e6010864

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店頭に並び始めた「文學界」の2022年5月号を購入した帰り。
行きつけの書店の入っているビル内のドトールは、同日に書店で1000円以上の購入したレシートを見せるとドリンクのサイズが一つ上がる。ふだん〈私〉は、活用したり活用しなかったりしているキャンペーン。キャンペーンというからには期間限定のようにも思うけれど、そもそも今、キャンペーンと言っているのは〈私〉で、だからワンサイズアップするのがキャンペーンのつもりなのかは分からない。
なにはともあれ、特集の「幻想の短歌」に青松輝が寄稿している短歌を目当てに購入をした帰り。
Mサイズの料金を支払った〈私〉はホットのハニーカフェ・オレのLサイズを得、席に着く。

   ◇

席に着いて一息つくと、先月あたりのツイッターの画面きっかけの話を思い出す。

シャンプー 僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう

青松輝

そのときは主に〈シャンプー〉についてのだったかと思うけれど……と〈私〉は今、記憶上の相手と向かい合っているつもりで応答を試みる。
とはいえ、こちらがこちらの考えのような何かを一方的にするだけだから、仮想の話し相手として召喚している。だから脳内での自問自答に近いだろう、けれど〈私〉にとって話しやすく、話すと言うか言葉にするのに便利。

「それで、どうも一首内にある〈2周目〉という語彙が気になるのだけれど」
 つまり〈僕〉が1周目だ、っていう自認があるね……と、すかさず茶々が入る。
「なんにしても自殺……死にまつわる2周目/1周目には、輪廻や転生のニュアンスがつきものだと思うのだけれど」
 たとえば円環構造があるって言い始めると〈短歌〉にある下の句、7音7音に円環構造を見立てられるという言説があるね。
「いわゆる〈短歌〉に対する円環構造の場合だと、いつまでも同じ循環なイメージだけれど」
 いわゆる〈短歌〉に対する円環構造は(使用する語彙に諸説はあるが}作歌する私/生活者の私、の循環ではないかとも思うし、だからこそ自己肯定な、ともなるし同じな印象があるのだとも思う……
「だけれど青松輝の一首は2周目/1周目で別、あるいは、きみの場合/僕の場合が同じになるとは限らない……ようには思うのだけれど、なんでだろう」
 なんでだろう、かは分からないけど、いわゆる〈つよくてニューゲーム〉的な〈きみ〉の印象がある場合……
「そう。過去の私と今の私、各々に自我があるとする言説が、今のところ〈私〉が念頭に置いている前提に近いかなって思うのだけれど」
 よくある言説としては、二十歳くらいを境に改めて本当の(自我の?)生誕がある説もあるよね……
「なにはともあれ、過去の私が一首における〈僕〉で、今の私が一首での〈きみ〉ということになるかと思うのだけれど」
 なにはともあれ、それまで主格だった1周目の〈僕〉から引き継がれて〈きみ〉が主格になる2周目……
「そんなの〈僕〉だって、何者かのN周目だろうはずなのに1周目だっていう、言い張りができるのは、すごいな」
 すごい。すごいし〈私〉としては〈僕〉=青松輝として受容したくはなっていて、その場合、つまり1周目の〈青松輝〉の現状は何なのか。ある意味、今地点・自殺地点の〈青松輝〉のカテゴライズってことにはなるかもしれないけれど。
「そもそも〈青松輝〉のいる地平や視界、何が、どう見えているのか。そもそも〈青松輝〉は今、何をしたのか……」
 自殺地点の〈青松輝〉の共有・認識がないと2周目の〈きみ〉になることは難しいのではないか。とはいえ青松輝からしたら自己更新のニュアンス、自身が2周目の〈きみ〉=未来の私にもなりえるかとは思う。
「そういう意味でも〈青松輝〉への期待値はあるって思っていて」
 それはそうとしても、当然〈青松輝〉自身が、何者かの2周目(という意識)で何かしらをしている場合も可能性としてあるだろう……

   ◇

みたいなことを今のうちに整理しておこうと思ったのは、ちらっと立ち読みした青松輝の短歌連作「4」で

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4

青松輝「4」

を読んだから。
 あくまでも〈4〉という数字は、記号的に、数字でしかない〈4〉だけれど……とはいえ、あまりにも「死」の暗示がある。

先行の短歌に〈生前〉のゾーンがある。

生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび

/大森静佳歌集『てのひらを燃やす』

ああ今がきみの生前 林檎飴持ちかえてから手を取ってみる

/榊原紘『悪友』

ただ、どちらも〈生前〉が使用された二首だ……というのは、それはそうかもしれない。かもしれない、とするのは大森の短歌のほうに顕著で一首の現場(あなたの髪を乾かすあそび、をしている地点)は生前ではない。が、生前とパラレルな、ヨコナラビにある「奥」なような気がする。
 榊原の短歌では、特定の人物に対する死後の地点から使用されるような〈生前〉であり、言葉の綾だけれど生前=一首の現場(林檎飴持ちかえてから手を取ってみる、をしている今の地点)である。しかし今は「きみの生前だ」と気づいたからこその感慨が林檎飴持ちかえてから手を取ってみるという動作に付与された一首で、前提の感覚には、死(別れ/今の時間は永遠ではない)が念頭にあるからこその今の尊さ(あらゆるフィクションでのエモーショナルな常套手段の一つとしてあると思う)があるだろう。
 どちらかというと青松の短歌は〈死後〉が照準されている、ような気がする。

   ・

でも、決して「数字しかわからなくなった恋人」に〈死後〉を感じると言いたいわけではない。
 そうではなく……と思いながら、返却口にマグカップを置く。いつも通りハニーカフェ・オレは、あまくて美味しい。
 屋外に出ると生あたたかな気候があって今、すっかり〈4〉を渡されて放られる〈恋人〉としている、気分になる。
 例の〈シャンプー 僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう〉での、あらかじめ想定されている地点(≒1周目)から先(≒2周目)を他者・読者に委ねている……読者の私は〈きみ〉にしかなれないように〈恋人〉の位置にしかなれないように、委ねられている〈4〉があるのではないか……いったい〈私〉は、何を委ねられたのだろう。
 改めて、立ったまま誌面を確認する。

数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4

青松輝「4」

しかし、もしかしたら〈私〉は、あまりにもドラマチックに読もうとしていて、しかも、読み違えている可能性を思う。
 もう一度、読み直す必要が〈私〉にはあって、どちらにしろ誌面を読む以外に予定はないし、入店し直してアイスコーヒーを注文する。
 おそらく「なら」のニュアンスが「囁くとしたら……」なのではなく、つまり〈恋人〉に囁く数字として4があるわけではなく、好きだよと囁いたとしたら返答に〈恋人〉からの4がある……ということだ、と思う。
 やはり「なら」には、仮定のニュアンスがある。
 数字しかわからなくなった恋人だとしたら、囁きに対する〈その人〉からの返答は4である……の仮定である場合と、好きだよのつもりで囁くとしたら4と発声する……仮定の場合の「好きだよ」と「4」は、ほぼほぼイコールな予感がある。

   ・

それでも一首を読み終わるとき〈4〉を受け取った気持ちがあるのは、読者の私が「囁いた」側に位置して読んでいるからだろう。それでも、あくまで「囁いた」側から視座しようとしてみると、あらかじめ〈4〉の応答がある前提で「囁き」をしているように見える。
 そういう意味で〈2周目〉と〈4〉に親和性がある、のではないか。
 それで〈私〉は、みんな(読者となった全員の、全員分の、各々の)の〈4〉を得た以後の話、得た〈4〉があるからこその話が知りたい(それには、あなたが〈4〉を得る以前の状態から話してもらう必要があると思うけれど)聞きたい、と、もし〈私〉が短歌側であれば、思うと思う。

   ・

恋人との「好きだよ/4」のやりとりを場面として観賞することは避けられている一首で、短歌側の〈私たち=二人〉を密室的に美化することはされていない……それこそ「読者が巻き込まれて、一首の現場になっている」一首だ、って思う。

   ◇

ぐったりした〈私〉は、アイスコーヒーの氷しか残っていないグラスを返却口に置いて店を出る。
 つづく……

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