【フィクション・エッセイ】青松輝の短歌を読んだ(第三滑走路13号(2022年3月5日)の頃



今、このテキストを【フィクション・エッセイ】と銘打って作成しようとしているけれど、引用する短歌は既に実在する媒体(ネットプリント)からで、全ての短歌に〈青松輝〉という作者名が付随します。

※第三滑走路は、青松輝(Q短歌会)丸田洋渡(山梨学生短歌会OB)森慎太郎(Q短歌会OB)による短歌のユニットで該当のネットプリントでは、三人の短歌が読めます。



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青松輝の名前を会話に持ち出したのは〈私〉だから、すかさず「青松輝といえば、やっぱり、この一首でしょう……」と言って見せてくるスマートフォンの画面

シャンプー 僕は自殺をしてきみが2周目を生きるのはどうだろう

青松輝


 を見て、
 この初句〈シャンプー〉について、どうも〈私〉には「自身(≒一首)に注目を集めるための、呼びかけ」のように思えてしかたがない……
 ということを、先に伝える。それに特段、確認の「この一首でしょう」以上でも以下でもないようなので、自説を先に続ける。
 注目を集めたいのは誰か、そして結句にある「どうだろう」の呼びかけ?疑問?提案?は誰からのメッセージなのか、というと作者〈青松輝〉ということになる。
「だけど、だとして呼びかけている対象、つまり〈きみ〉が何なのか、何者なのかまでは分からないね」返したスマートフォンが画面側をテーブルに伏せてあるのを見ながら〈私〉は、発話を疑問の提示と受け取る。
「そうだね」駅前のドトールで二人、対面している〈私〉は疑問に同意する。「不特定多数の読者としての〈きみ〉に向けられているかは分からない、それに、読者に呼びかけているとしても、その〈きみ〉に本当に〈私〉が該当するかどうかは分からない」
 マシュマロふんわりさくらオレ[HOT]を飲んだり、マグカップを持ち上げたり、下ろしたりしながら飲んだりしたあと「それでも自分に呼びかけられているし、呼びかけられている〈きみ〉だと思いたいけどね」と言っている、のを聞く。
 その気持ちは、とてもよく分かる。
 その方が〈青松輝〉自身の心情をダイレクトに受け取れる気がするし、不特定多数な相手ではなく特定個人としての〈きみ〉にある特別感を得られる。たとえば「自殺しないでほしい」といった反応などを、こちらはこちらなりのスタンスや過不足で示すことができるし伝えることができる。
 しかし、この〈シャンプー〉と言い始めなければならない〈青松輝〉の心情そのものにアプローチするには〈きみ〉の位置ではなく〈シャンプー〉の位置に立とうとしなければならないと思う。
(そもそも〈きみ〉の位置に立つのは、なかなかの難易度はあるのだが/それは立とうとする意識があるからで、すんなり自己代入できる場合はあると思うけれど)
 〈シャンプー〉は、一首における〈僕〉の位置ということになるのだけれど……。
   ・
「それはそうと今、その〈青松輝〉が第三滑走路で出した短歌があって」と取り出すA3の紙、全部で4枚ある。ドトールのテーブルが、短歌の印字された紙で埋め尽くされる。「読んだ?」
「読んだ」
 読んだエピソード、聞かせてほしい。
   ○
 コンビニエンスストアに設置されているコピー機で印刷し手に入れた紙面を手にして〈私〉は、そのまま電車に乗って電車のなかで読んだ。

耳もとで消え去ってく音は桜の断末魔 僕の初恋の球体

青松輝「still life」


 この一首の地点に到るまで耳もとにあった音は、桜だったのだな……と思うわけだけれど、この桜は坂口安吾の小説『桜の森の満開の下』を下敷きに読みたい気持ちが生じる。あくまでも、自分の中に。帰ったらあるはずの本を探そうか、どこかの書店で買って読もうかと思うけれど、青空文庫で読めることを思い出し、検索する。

桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。

坂口安吾『桜の森の満開の下』

……断末魔は、音ではなく声なのではないか。厳密には、声を発する存在が断末魔なのだと思う。思うとき、音が声として認識できる/されるからこそ断末魔たらしめられるのではないか。
 ところで。
 頭を上げて、乗車している山手線が目的地を通過しているのを〈私〉は確認した。
 ところで。
 この一首の〈僕〉は、つまり〈青松輝〉だろう。桜の断末魔を知覚したのは〈僕〉であって、自分ではない。ただ〈僕〉が知覚したのを、伝達してくれている。けれど、ただ教えてくれているわけではなくて、ただ「消え去ってく」のを感覚できる、ような錯覚がある。意味内容に従順すぎるだろうか。しかし、そもそも〈短歌〉だとして読み下し始めるとき、ずるずると引きづられて「断末魔」まで到る。もはや韻律は無化されていると言わざるを得ない一首だと〈私〉は思うが、だからこその錯覚があると言い張りたい気持ちがある。定型からすると、音数の多い上の句と足りない下の句。足りなさのため、三句目の五音が「断末魔」で読むとき、にあるような錯覚からは、残響の感じも感受したい。
 ところで。
 今の〈私〉にあるのは座っている椅子のフカフカや、車輪が走行するレールとの摩擦音や風を切る音などだ。ずっと、ついてくる感じ。
 ところで。
 それでも「僕の初恋」は「僕の初恋」でしかない。
 それでも、この〈球体〉の感じを、イメージできると思う。錯覚、かもしれないけれど。

   ・
 昼食のような、間食のようなエネルギー摂取のために入った日高屋で、半ラーメンを注文する。

ヴァンパイア・ライフ まったく台無しの毎日を血はまだ走っている

青松輝「still life」


 まだ、って何なんだと思う。
 一首には既にある前提なのだとして、その前提が分からない。
 分からないなりに魅かれるときの分からなさの良さが、この「まだ」にはある。すくなくとも、今の〈私〉にとっては。
 だいたい〈ヴァンパイア〉というのは一般名詞で、一方〈ドラキュラ〉は固有名詞なのだけれど、それで〈ヴァンパイア〉には血欲派と吸欲派がいるらしい。らしいけれど、この一首に関係するかまでは分からない。
 この一首で初句に提示されているヴァンパイア・ライフは自己紹介だと仮定して、仮定したところで〈私〉はラーメンを啜る。税込200円で得られる手頃なエネルギーが〈私〉にとっての血だということになる、だろうか。
 おそらく吸血欲由来なヴァンパイアにとってのエネルギー源は、血の一択なのだろうな。
 咀嚼しながら、何度か「・ライフ まったく/台無しの」と脳内再生してみる。
 ・ライフ まったく/台無しの
 それにしても「まったく」が主観的なのか客観的なのかで、別々にニュアンスがあるなぁと思う。
 主観的・やれやれのようなニュアンスか、客観的・状態の認識なニュアンスか。
 どっちの「まったく」なのだろう……?

   ・

雨のあとの都心を高いところからみる想像をした みじかい いのち

青松輝「still life」

花か泥かわからないままの季節は巡って ずっと僕のターン

青松輝「still life」

悲しみはあります 僕がそう言うとぎこちなくロボットは復唱

青松輝「still life」

エリーゼのために は聴いたことない わけない ここに夜の高速を作ろう

青松輝「still life」

   ・
 そうこうしている間に、新作が公開されたばかりの今。

つづく……

   ◇


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