【体感速報】大森静佳の歌集『ヘクタール』を読んだ


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が刊行前の、ほぼほぼ全ての所感で、前作『カミーユ』刊行以後ますますパブリックでの活動が増えたように見える〈大森静佳〉が自身の新しい歌集を、どのように仕上げ、提示してくるかへの興味と期待が高まっていた。


https://note.com/y_aao/n/n6573a31a2794

↑歌集『カミーユ』私的偏向文


初読、端的に言うと「がっかりした」というのが素直すぎるところ、だけれど、あやうく「全く、やる気が感じられない」とまで言うと、勇み足ぎみか。
それでも、あらかじめ私にあった期待から外れていたからか……?(それは、パブリックに向いているか/パーソナルのほうを向いているか、だとすると、期待はパブリック寄りにあり実際はパーソナル寄りなような……このような気になりありきでの読書の不便さ?不誠実さ?が、なんにしても歌集一冊で切り分けを判断しようとするときの躓きはあるだろう。ちなみに現実の事象に対して区別をしようとするなら、慎重にならなければならないが……)と思うとしても、なんというか、あまりにも元も子もない。
それに決して、期待通りであれば嬉しいわけでは絶対にない。
どうせ元も子もないのなら、いっそ「一首ごとに、やる気が全く感じられないから」と言い切ってしまったほうがいいかもしれない……とも思うのだけれど。

そのようなニュアンスで、歌集『ヘクタール』に対して、たいへん不満がある。

とはいえ、
そもそも、その〈やる気〉って、何ですか?……という疑問はある。
歌集『ヘクタール』の多くの短歌に短歌的〈条件〉の経由がある、という質の高さは感じられ、そういう意味で格の高さは堅持されている。しかも、誇示されてるわけではないという品のよさもあり、そして読者から、すくなくとも今の私からしようとする〈条件〉の指摘の難易度は、なかなか高い。
この〈条件〉に関して、現状の私にとって私がスピリチュアル的に感じてるだけかもしれない。が、それなら、よっぽど〈やる気〉のほうがスピリチュアル的なのだけれど……だとしても「一首内に気持ちがなさすぎる」というのが、より正確なところかもしれない。
とりあえず、今の私にとって。

感情を根絶やしにせよみずうみと砂のまじわるところに触れて

「孔雀」

感情……気持ち。
一首それぞれが(連作という形で)発表された時にはあったかと思うのだけど、歌集の制作時における今によって整えられて消失してしまったのではないかと思う。してしまったのか、したのか。しているほうがいいのか、していないほうが望ましいのか。そもそも作歌時から気持ちなんてないのか、は分からないが。
ここでは〈条件〉についての仮説を検討・アプローチをするよりも、もう少し具体的に私が気になっている試行について、
歌集の「I」に絞って言及してみたい。

   ――――

今なら、表現の背後にある「裏現」とか、「表没」といった歌い方についても検証することが出来るだろう。

/寺山修司「歌のわかれ」『悲しき口笛』

という一文を読んだとき、ここでいう「裏現」や「表没」があるのなら、加えて「裏没」もあるだろう……と思った。
歌集『ヘクタール』を読んでいて浮かんだのは、この〈裏没〉という語で、気になっている試行・私が歌集『ヘクタール』に対して抱いている興味〈裏没〉のようなことについて。
そもそも寺山が提示する「裏現」や「表没」も、どういう何なのか不明確ではあるけれど……

とはいえ、全ての前提は〈表現〉にある。
一般的な絵画だとしたら、鑑賞者(読者)は描かれた表面と向き合う形で鑑賞することになる。鑑賞者が絵画から、絵画の作者を含めた絵画側にある情念のようなものなどを連想させる、あるいは鑑賞者自身の内から彷彿とさせる記憶や喚起などを受け取る。
そのとき絵画から鑑賞者の方向に矢印が生じている、という場合を、いったん「作者によって〈表現〉されている」とする。
逆に、鑑賞者が絵画側に吸い込まれそうな感覚になるタイプの絵画もある。だいたい鑑賞者から絵画の表面までの矢印になるのではないかと思うのだが、たまに、絵画の奥――絵画の向こう側や、向こうにある別のところや、絵画に描かれている景のなかではなく――引き込む求心力を持った絵画がある。
実は私は、歌集『ヘクタール』読書時よりも先に、とある展示会で〈裏没〉という語を取り戻していた。
絵画の表面まで、ではなく絵画の裏側に、更にある何か〈没〉のような窪みのようなもの。
当たり前と言えば当たり前に、絵画を制作する作者は鑑賞者が絵画を見るのと同じ方の位置にいる。
表面と対峙し、表面にとっての裏側にある〈没〉部を見出だす、という志向。
作者は、読者にとっての表面の向こうがわにいるわけではなく、あるいは〈没〉部そのもののほうなわけでもない。
短歌においては、一首における「画面の設置」というフェーズが近いようにも思える。

……そろそろ歌集『ヘクタール』のほうに辿り着きたいのだけれど、歌集『ヘクタール』に同様の感覚があるのではないかと考えている。とはいえ決して、一首の没部に求心力が強く感じられるわけではない〈裏没〉の感じ、に対しての興味がある。
というところから、始めたい。

   ―――

 私は普段、おもに短歌をつくっているけれど、短歌はとくにその「向こうがわ」に指のさきが触れてしまいやすい詩形だと思う。

/大森静佳「向こうがわのユトレヒト」
(『文藝』2021年 秋号)


例に漏れず〈大森静佳〉にとっては、だとしても、この短歌観は端的に歌集『ヘクタール』に通用するように感じる。
引用中の「その「向こうがわ」」の「その」は、それまでの半分以上の文量が割かれている「AI美空ひばり」が端緒にあり、元の文章からすると前後するが引用すると

生きている私にとっては、いまこの文章を書いてあたるコメダ珈琲も、窓の外の光も、道をすぎていくひとびとも、この世の現実だ。けれど、この世の現実というのは本当は一枚の膜のようなものにすぎないのではないか、と思うことがけっこうある。その膜をはがすと、そこには果てしなく「向こうがわ」が広がっている。此処と彼岸というふうにはっきり分かれているんじゃなくて、この世と向こうがわ(あの世、と言っていいのか迷う)が二重になっている感じ。

/大森静佳「向こうがわのユトレヒト」
(『文藝』2021年 秋号)

大森短歌の場合、対象の表面にある意味(ニュアンス)を共有した上で、その奥・裏面・深層にある真価(ニュアンス)の見出だしがある。という、二重性が〈まなざし〉によってあるのではないか。
それは異化や飛躍ではなく、私的な発想の付与や書き換えをしようとするわけでもなく、あくまで対象そのものから見出そうとする姿勢が基本的にはあるかとは思う。思い込みや心持ちに拠るところがあってこその、対象の真価に気づくタイミングもあるのは思うとしても。
そもそも詩語って少なからず美化だ、としても、絶妙に詩情・美化への一辺倒・過重を回避し、現実・地に足のついているほうに確実があるように見える。

  妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか
           大西民子『印度の果実』
 一首だけ、こわい短歌として真っ先に思い浮かんだものをここで挙げたい。

/大森静佳「向こうがわのユトレヒト」
(『文藝』2021年 秋号)

この一首の説明に、一首の作者〈大西民子〉の経歴・パブリック情報を併せて「そして窓の外に降る雨を見つめつつ、ユトレヒトでもいまごろ雨が降っているだろうか、と夢想しているのだ。降っていてほしい、と読者の私も思う」(大森静佳「向こうがわのユトレヒト」『文藝』2021年 秋号)と続ける。

大森短歌を読むにあたって、読者の私が、大森静佳の短歌(作歌)を媒介にして何かにアプローチしている〈大森静佳さん〉を読む・見ることになる可能性が絶妙にズラされているように思う。

すきとおるまなざしの奥にすきとおることを許さぬ腕力がある
綿菓子のこころと牙のこころあり今夜どちらも見捨ててねむる

「すきとおる」

ふとぶとと水を束ねて曳き落とす秋の滝、その青い握力

「夢のロープ」

ニュアンスとしての意味も真価も〈まなざし/まなざす〉という抽出で、だとすると、そこにスリリングさがあるが〈まなざし〉の主体となる〈私〉は無感情である。あるいは対象が〈私〉を強く引きつけ、別に〈まなざし〉たいわけではないのに〈まなざし〉てしまう。畏怖のようなものがある?

嵐の海を嵐のこころが描いたとはかぎらないけどターナーの海

「血ののぼる頬」

感情を一首内から引き出される読者はいるだろうけれど、一首側(作者)の感情そのものは、無に近い(それが私の「一首ごとに、やる気が全く感じられない」や「一首内に気持ちがなさすぎる」のところかもしれない……)と思う。

向こうがわに降る雨と、こちらがわに降る雨が、瞳の表面で二重写しになり、二種類の雨の遠さと近さにひたひたと惑乱されながら、ただそこに突っ立ているのだ。

/大森静佳「向こうがわのユトレヒト」
(『文藝』2021年 秋号)

歌集『ヘクタール』にある短歌の一部には、自身の身体を対象とするという身体との距離の取り方・離し方があって、そのための一案に、外部に視点の位置を設置する場合があるとすると一首内に〈まなざし〉を司る〈私〉の位置取りがあると思うのだが……
一首内で〈私〉の位置取りがされていると思われるところに、位置取りはあるのに〈私〉そのものは不在なため、位置に内在した読者は自身の〈まなざし〉として向ける、言葉上の〈大森静佳〉フィルターを、それこそ〈瞳〉を得られるのだとも思う。

舌先に吸うソーダ水 こんなにもあなたのなかの木が見えるのに

「阿修羅」

桜とは気づかずに桜を見つめたしそこだけしろく凹んだような

「薔薇」

このような、他者〈あなた〉や外部要因を対象とした二首。
今、歌集『ヘクタール』の極私的関心に基づく、いささか恣意的な読みの開示をしているが……

紫陽花の奥へ奥へとさしこんだ手はふれるだれかの晩年の手に

「やがて花束」

歌集『ヘクタール』にある多くの〈大森短歌〉は、この〈紫陽花〉と同じような媒介・媒体なのだとして認識・受容することが、私にはできる。

 私は、私のユトレヒトを見つけたい。

/大森静佳「向こうがわのユトレヒト」
(『文藝』2021年 秋号)

読者の私にとっては、歌集『ヘクタール』から〈大森静佳のユトレヒト〉を見せてもらえる期待はできる。
それって、つまり
読者の私が、大森静佳の短歌(作歌)を媒介にして何かにアプローチしている〈大森静佳さん〉を読む・見ることになる可能性だ、とも思うけれど……。

   ―――

はなびらは光の領土とおもいつつ奪いたし目を閉じれば奪う

「血ののぼる頬」

いったん「奪いたし」の文語にある、わだかまりのような何か……に気になりがある。奪いたしは過去または完了の助動詞「たし」で、奪いたし/奪うは実際のところ何をなのかは分からない。
物質的な〈はなびら〉でも、見立てとしての〈光の領土〉でもないような気がする。どちらの可能性もあるとすると、奪いたいのは〈光の領土〉のほうだろうとは思うけれど。奪うするのに「目を閉じれば」なのは、あまりにも容易いのではないか……実行や自認の既成事実が、というわけではなく「目を閉じれば」自身の内部・深層に奪った〈光の領土〉が出現する(感じがする)と思うに到る、過程が。
あるいは、歌意は別かもしれない……?

少なくとも、表面〈はなびら〉の向こうがわ〈光の領土〉という二重性はある。

それから〈大森短歌〉の〈つつ〉について……
いったん、第一歌集『手のひらを燃やす』の話。

美しいものを静かに拒みつつぺんぺん草を踏んでゆく土手
喉の深さを冬のふかさと思いつつうがいして吐く水かがやけり
はぐれれば等しく君もはぐれると立ちどまりつつゆく花灯路

/大森静佳『手のひらを燃やす』

独自的な〈つつ〉の扱い方に見える。
というのも、いわゆる「景+心情」のフォーマット。伝統的な場合は景と心情の時系列がシームレスなのに対し、どうも〈大森短歌〉の場合は時系列がシンタックスな印象を受ける。
景の部分と心情の部分が〈つつ〉によって、きっちり分けられ、それぞれの時系列がパラレルにある。一首内に二つの時系列がある……という、ときめきが私にはある。のだけれど、どちらかというと心情≒作歌時のほうに一首の比重があるように思う。
心情のほうに今の実体があって、景は回想というかスクリーンに映る像のような感じ。

改めて今回の一首に戻ると、まず〈つつ〉以前/以後で、きっちり分けられているのは分かる。が、下の句に実動の時差があり、実際に「目を閉じる」のほうに比重があるのも分かる。

   ―――

こちらがわがあって初めて、向こうがわが出現するのではないだろうか。あるいは向こうがわを認識することで、こちらがわが出現する場合もあるが。どちらにしても、相対的な見方ではあるけれど。
それにしても〈私=大森静佳〉は、どこにいるのか……それぞれ一首内に位置する〈私=大森静佳〉は〈身体〉ではなくて〈心〉や〈まなざし〉のほうのだという可能性。とはいえ〈まなざし〉は〈身体〉の一部ではあるのだけれど、抽象的な〈まなざし〉の。

麦畑とおいあおいとゆびさしてわたしはわたしの結界である

「やがて花束」

ゆびさすことで〈私〉は〈私〉の結界を得る。
あおい、というのは「隣の芝が青い」のニュアンスで見ているのだろうか……ただ単純に「あおい」とだけ見て思っている(ひらかれた表記により「とおい/あおい」に「おい」の反復の際立ちもある)のかもしれないが……だとすると〈私〉の結界の確固さが、欠落しはしないだろうか。
それにしても「わたしは」の「わたし」は「わたしの」の「わたし」とは区別されていて、たとえば「身体は/心の」とするにしても、だとすると「麦畑は/あおいの」とはしにくい。しにくい、というか「麦畑/あおい」は、どちらも表面上の「は」ではないか。
だからか〈麦畑〉からすると、とおい「わたしは/わたしの」のほうに二重化がある。
つまり「わたしは/わたしの」を認識するのに〈麦畑〉の、あるいは〈麦畑〉からの〈まなざし〉を借りている。三句目「ゆびさして」までは〈麦畑〉を向こうがわに、下の句で「ゆびさして」によって、とおい〈麦畑〉に〈私〉の位置が移動し「わたし」を向こうがわにしている。
と、私は読んでいる。

私は、一首内の実感の所在は、作者/生身の「わたし」ではなく〈私〉のほうにあると考えているので、だから「一首側に気持ちがなさすぎる」と思うのだとは思う。
本当に「一首側に気持ちがなさすぎる」のだとしても、だからこそ「わたしは/わたしの」が読者に明け渡されているのだとするとき、功を奏しているのは分かる。

余談だけれど「とおいあおいとゆびさして」のフォルムに、

物干し竿長い長いと振りながら笑う すべてはいっときの恋

/五島諭『緑の祠』

の「長い長いと振りながら」を連想した。

   ―――

ここで引用したい(主に、二重性のあると思える)短歌には、

① 〈私〉 → 〈私〉の内
② 〈私〉 → 外部対象
③  外部 → 〈私〉

の別がある、と読んでいる。

① 〈私〉 → 〈私〉の内

からだのなかを暗いとおもったことがない 風に痙攣する白木蓮
切り株があればかならず触れておく心のなかの運河のために

「血ののぼる頬」

これらの短歌を、第一歌集『てのひらを燃やす』の

冬の駅ひとりになれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある

大森静佳『てのひらを燃やす』

にある〈硝子の駒〉の地続き、延長として読んでしまう。

つまり〈運河〉が、ほとんど〈硝子の駒〉だってことだ。けれど、この一首の場合は内的な〈運河〉が、既に、ずっとある前提で、外部の〈切り株〉を媒介にアクセス・確認をしている。
お守りやジンクスというよりは、もう少し拘束力の強い「取り決め」のようにもみえる。が、このくらい「かならず」しておかないと保てない〈運河〉であり、保っておく必要がある環境・メンタリティなのだ……とは思う。

燃え残るのは声だからきみの声に顔をひたしてタリーズにいる

「顔をひたして」

この「だから」には、仮定のニュアンスが含まれているように見える。
まだ燃え残る前の声に、顔をひたしている。のだと思う、ときの「燃える」とは……?

② 〈私〉 → 外部対象

青空の深いところでほのひかる見たことのないあなたの乳歯

「血ののぼる頬」

まず手前に「青空」があり、没部に「あなたの乳歯」がある。
あなた、の年齢とかにもよるけれど、幼子でない場合もう既に乳歯はないだろう……だから逆に、あなたは幼子だ。とも読めるけれど、どちらかというと幼子だった頃・遠めの過去を今、見ているのだとは思う。
今は「ない」けれど「ほのひかる」している乳歯を、見出すことができる。ときの……?

さびしいと手の大きさがちぢむひと光のなかでゆでたまご剥く
夢のような、ときみが言うたび喉元に白さるすべり暗く噴きだす

「孔雀」

しかし白さるべりが〈きみ〉の喉元に噴きだすのは、あくまで〈私〉由来で、すくなくとも〈私〉には見える。という範疇かとは思う。
夢のような、と言うたび(機械的に?)白さるすべりを見出されても……と〈きみ〉は思ったり、言ったりするかもしれない。
それよりも「夢のような」と言うたび、同じように見えてしまう。ということに、両者の限界があるように思う。けれど「喉元に白さるすべり暗く噴きだす」ように見えるのは外部・他者からのレッテルだとすると、それ自体の有用の余地はあるにしても、どちらかというと〈きみ〉側のほうに実感があるようにも思える。

声帯が帯であるならきらきらと真昼あなたの帯をほどきぬ

「ふりかかる場所」

しゃがむときからだのなかで鳴る骨を双子の姉のようにおもえり

「顔をひたして」

しゃがむときのからだは〈私〉の、かと思うけれど、ようにであるからには双子の姉なわけではなく親等図の距離感としての他者。くらいのだとして、基本的に〈大森短歌〉は〈私〉内に心象的な外部要因を含めることに厭いがない、ことは分かる。

おののきの表情だったのかあれは手づかみで心を光らせた夜の

「阿修羅」

それにしても〈あれは〉という距離感が一首の妙で、夜との時差が重要な一首だと思う。

ここは夏至 あなたがあくびをするたびに地球に増えてゆくハンモック

「やがて花束」

まず「あくび」と「増えてゆくハンモック」の因果関係が謎すぎる、けれど「ここは夏至」と「地球に」の遠近感……

傷つけてしまったことに動悸して秋だろう歯を何度も磨く

「孔雀」

わたしには言葉がある、と思わねば踏めない橋が秋にはあった

「アナスタシア」

このような過去形が、きちんと過去形なこと。けれど、読者の私には過去の地点が、どこなのか分からない。分からなくても、あったこと。石橋を叩いて渡る、ようなときのメンタリティ。も、分かるし、だからこそ「秋」の没部に「言葉がある」があるときの「過去の範囲・秋→過去の地点の今」の二重性。

さびしさの単位はいまもヘクタール葱あおあおと風に吹かれて

「薔薇」

この一首、いまも昔もの変わらなさってところがポイントかと思うのだけど。
表面に〈さびしさ=ヘクタール〉の言葉があって、没部に「葱あおあおと風に吹かれて」の景が広がっている。たぶん、ずっと。
ずっと先の時間まで、というのと、ずっと先の空間まで。

③  外部 → 〈私〉

夏雲をぐわんぐわんとみあげるうちに想いの丈が身の丈となる

「やがて花束」

二種類の〈丈〉は〈私〉の、だと思うし、だからこそ〈私〉の心情としての「ぐわんぐわん」だとも思う。
ただ、この一首を読んで、読者の私には〈私〉と同様に「夏雲をぐわんぐわんと見上げる」ことはできかねるのだけれど……想いの丈が身の丈となる、への希望のようなは分かるぶん、身の丈はともかく想いの丈は外部からは測れないのでは?という気持ちになるとき、だけど実際のところ、身の丈だって(身体測定なら、ともかく)測れるわけじゃないなとは思う。
あるいは〈私〉の内に〈まなざし〉の地点があり、内から〈私〉を〈まなざし〉ている可能性。

ゆびさしてゆびさす前のこころごとあなたが見せてくれた青鷲

「血ののぼる頬」

誇らしいわたしのこころを標的にまばたきをせぬ青鷲がくる

「夢のロープ」

この〈青鷲〉は何なのか……というところだけれど。とりあえず「こころ」とは別の、らしい。
何か〈青鷲〉の参照元がある、ような気はするのだけれど。

はげしさのまま射してくるもういない誰かの日記のようにひかりは
光るのは蛇口、かがやくのは心、おいで ゆらめくばかりの日々へ

「すきとおる」

あからさまに「射してくる」とか「おいで」とかは、外部から〈私〉への矢印。
それにしても「おいで」は、その「ゆらめくばかりの日々」っていいもの……?という気持ちになるし、別に、いいものではなくてもいいんだけど「ゆらめくばかりの日々」って、よく分からない。し、たぶん「おいで」してくれるとして一緒に「日々」を過ごしてくれるわけじゃない気がする。
感覚的に、というのなら分かるは分かるとしても。
今も、まだ「ゆらめくばかりの日々」に〈私〉は、いるのだろうか。いないと「おいで」できないから、いるはず……ということで、外部を出現させる「おいで」だとは思いつつ。しかし「おいで」されている側からすると〈私〉は向こうがわにいる。

銭湯にたくさんの裸 そのなかでひとりブリキのように光った

「夢のロープ」

この「ひとりブリキのように光った」のは〈私〉だろう、ときに「そのなか」から〈私〉を見出すのに、外的な他者の目を借りている。
ここまで読んできてチャラになる部分があるような感じだけど、この「ひとりブリキのように光った」に、上質な空虚だ……と思った。


   ―――

怒りつつビニール傘を巻くときの腰から下が卑弥呼のごとし

「真正面」

泣く前は顔がだんだん重たくなる縄文時代がそうだったように

「すきとおる」

少なくない数の、固有名詞を含んだ短歌が歌集『ヘクタール』にはある。
が、固有名詞の扱いに、大きく二つあって、これらは固有名詞に偏見やレッテルのようなものを断定して付与するほう。
なんというか、歌集『カミーユ』に比べて手つき雑になった。ように、みえる……

   ―――

全体としては、一首の強度よりも集合での創出が優先されているようには思うが、だとすると尚更、詰めの甘さに見えてしまう。たとえば、無意識の領域への視座があるとして、しかし最大限に意識の領域を拡げた上での作歌であったほうがいいはず……
もちろん、歌集『ヘクタール』に満足した人の話も聞いてみたい。けれど、

個人的には、いったん歌集一冊での構成・完結があると嬉しいタイプだけれど、たとえば大森静佳の評論『この世の息 歌人・河野裕子論』を読むと、長いキャリアでの視点もあることが分かる。
30年後とか40年後とかに、第15とか第20歌集が出るようなペースで、第4歌集が来年とか2年後とかに出るときの、今回の第3歌集か……とも思うのだけれど。





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