テキスト「〈異界〉とか〈幻視〉とかの話……?――大森静佳歌集『カミーユ』再読(2020年12月26日)


2020年の、年末の今、なぜか『カミーユ』(大森静佳の第二歌集、書肆侃侃房、2018年)を再読したのか……もちろん、なぜなんてことはなく読みたいタイミングで読めばいいのだけれど、再読といいつつ、なかから気になった短歌を書き写しつつ、何度か通読した、くらいの、ことしかしていない。だから、歌集全体についてを考えるとか連作というまとまりを意識して読む、みたいなことまではしていない。わざわざ今(ということは、全くないが)再読するのに、つまみ読みのようなことを……と思わないではない(それが、つまり「なぜ?」なのだけれど、それは『カミーユ』に対して、だから生じる)のは、すでに散々、連作単位にしろ歌集単位にしろ言及され尽くされている(もちろん十分ではないが)だろうからだ。
それにしても、まだ刊行から1年半ほどしか経っていないことに驚きがある。もちろん個人的な驚きでしかないのだけれど、それは歌集そのものが実際よりも過去のものに感じるという現実の体感時間などのことではなく、あまり古びていない未だ新鮮な印象で残り続けていることを思ったりする。

見たこともないのに思い出せそうなきみの泣き顔 躑躅の道に

「鳥影」

を読むとき「発想が狂気だ……」などと思ってみたりし始める。が、この〈私〉が、見たことのない泣き顔を思い出しそう、どうにか具体的な像を想おうとしているのなら狂気的なと思うけれど、そうと言い切れはしないように思える。
何がなんでも達成したい内的な衝動ではなく、あくまでも外的な刺激に及ばされた状態にある。つまり躑躅の道にという外的要因によっての発想になるが、この躑躅の道に〈私〉は一人でいる景だと読んだ、ときから〈私〉自身が泣きそうな感情を引き起こされている状態に〈私〉はいるのではないか。
泣き顔になりそうなのは、きみではなく〈私〉なのではないか。
なぜ、ここで〈私〉は、きみのことを持ち出しているのか……そもそも泣き顔は、いわゆる嬉し泣きのようなことも想定できつつ、どのような原因の泣きによる顔なのか明示されていない。もしかしたら「躑躅の道」というのがヒント(のような何か)になるのかもしれないが、判然としない。あるいは自分には、結びつけられる知見など思い当たる何かを持っていない。持っていないから、何もないということではない、とはいえ……。
やはり「ないのに」こその「そうな」が重要に思える。
いったん「そうな」に、もどかしさのような時間があることを念頭に置きたい。とはいえ、一度も実際に見たことがないと、思い出すことをすることはできない。のは、それはそうとしか言えない(実際に見ていなくても、想像上や夢などで見ることはできうるし、そのことを思い出すをすることも可能ではあるだろう。みたいなことを言い出すのも、それはそうかもしれないが「きみの泣き顔」に対して、あまりにも独りよがりだろう。
あるいは表情は全て一度きりのだから、そもそも泣き顔を思い出すことは、ありえないという前提での「そうな」を享受し始めるのは、けれども……)が、むしろ「きみの泣き顔」を見ること/思い出すことを、まだ〈私〉は望んでいない印象も受ける。それは、これから関係が継続発展されていくこと、仲良くなっていくことへの期待があるから、だと読みたい。
だと読みたい、のは現実的な今の、一過性な今のタイミングでの、気分のようなものでしかない可能性で、たとえば数ヵ月後とかに読んだとしたら、ぜんぜん変わっているかもしれない。一首の読みかたが永続的に変わらない、というのも、それはそれで、どうなのだろうという疑問がある。どうだろう……には大きく二種類あって、まだ一首そのものを読みきれていない一首側にあるポテンシャルの可能性と、読者としての自分(あるいは、自分達)の価値観や好みや感性のようななどの変化による読者側のポテンシャルとしての可能性を想定している(とはいえ、きっぱり区別できるものでもないだろうが)。
もちろん永続的に(ということは、ないにしても)読みかたの検討がされうる短歌であるかどうかは、一首そのものによるだろう。
さらに余談になっていくけれど、読み返すことで、愛読愛唱していた当時の個人的な記憶や、記憶にまつわる何かを想起できる、思い入れのある一首は存在するし、年月の経過によって読みが変わった(あくまでも自分自身のなかでの更新のようながあった)一首も存在する。

やはり「ないのに」を踏まえた上での「そうな」のニュアンスを読みの重点にしてみたとき、この〈私〉は、実際に見てしまったら戻ることのできない「そうな」の今だからこその、きみへの思い寄せを楽しんでいるように思う。

引用した一首からの余談だけれど、ないのにできそう、と思うことは、わりと順当にありうるように思う。
けれど、実物を見たことないけどできそうと言ってしまうのは、なかなか傲慢には思う。みたいなときの「見たこと」という経験のことを考える。
また「見たこと」とする対象にある固定観念(もちろん共通認識できる〈基本〉のようなことは大事だろう、としても)のようなことも考えてしまう。

きみといてやたらと夜だ舌先の蜆にさむい味蕾がひらき

「吃音の花」

この〈やたら〉から得る調整加減が気になっている。抑制している意志があるような印象を受ける。
という印象を基に、意志の所在と動機にあたるところを考えてみたい。
まず、いったん景の確認からなのだけれど、結句の「ひらき」から蜆のイメージ(貝の、ひらき)を想起しかけるが、既に蜆は〈私〉の(と、するとして)舌先にある。味蕾と舌先は、ほぼ同じ位置を指すため「さむい」に対し、蜆は温かい料理(の一部)だと読める。としたうえ(でなくとも、ではあるだろうが)で、味蕾がひらきのトリガーは蜆である。
とはいえ、結句の「ひらき」は〈夜〉にも作用を及ぼしている印象がある。
だからこそ「きみといて」の〈きみ〉と〈私〉の場の、夜の範囲、場そのものの閉塞が際立つことによる、結句の「ひらき」の(もちろん「味蕾」字形の印象も合間った)開放感を享受できうる。
なぜ〈やたら〉に抑制印象を得たか、の事後的な解釈になってしまったけれど、それはそうと〈私〉の内的実感としては「やたらと夜だ」のみで、読者の私が真に共にできうるのは「やたらと夜だ」であるように思うし、自身の現実で探求したくなるのは「やたらと夜だ」にある。

手をあててきみの鼓動を聴いてからてのひらだけがずっとみずうみ

「紫陽花にふれる」

いつまで〈ずっと〉が維持されるのだろう……と思う短歌で、短歌のなかで思うことを思うとき、手をあててからの時間経過を含めた〈今〉の可能性と、手をあてて未来を見据えた地点を〈今〉としている可能性の、いったん二通りを考えてみる。
一度、強烈に得た〈みずうみ〉を〈私〉が忘れたとしても〈ずっと〉てのひらに残り続けることを信じられる、信じたい気持ちになる。それは「てのひらだけが」の「だけが」を拠り所にした希求なのだけれど。
それにしても〈てのひら〉という明記から「手をあてて」の仕草が、たとえば拳ではなくという、わりかし景が明確に、とはいえ〈私〉のてのひら(おそらく両手だろう……)と〈きみ〉の鼓動部(想としては、外層的な胸部というよりも内的な心臓部の像と思うが、当然、実体があり生きている肉体を持った〈きみ〉が想定の前提にある。けれど〈きみ〉が人間であるかも定かではないし、だからこそ)が想起できる。つまり〈きみ〉の手首や首元から脈(脈と鼓動は、区別されるだろう……)を、というわけではないからこその「てのひら」でもある。
ところで「だけは」によって、てのひら以外を排除された印象もある。てのひらを知覚域とすると、たとえば(ありていな言い方になるが)直に〈私〉の心で〈みずうみ〉を知覚することはできない、あくまでも、てのひらを媒介としてしか〈みずうみ〉を知覚できない、つまり〈みずうみ〉を知覚しているのは心ではなくてのひらなのだ。
蛇足だけれど、てのひらが〈みずうみ〉になるというニュアンスではない。てのひらはてのひらでしかないのに、というのが重要に思う。

遠ざかるときがいちばんあかるくてあかるく見えて夕暮れの頬

「安珍さまへ」

遠ざかる、のが〈私〉なのか対象なのかに疑問はありつつ、あかるさの度合いの一首だと思う。下の句の「あかるく見えて」に遠ざかるによる距離感からの認識があって、だからこそ「あかるくて」は〈私〉の範囲内に対象が(あるいは、対象の範囲内に〈私〉が)いた、のだと読むとき、の〈私〉から放れ遠ざかりゆく(と見ている)夕暮れの感じ、を享受する。
この感じを、祭りのあと感覚(本編としての祭りそのものの、後にある寂寥感のような時間を「いちばん」とする感性)の一種かと思うのだけれど、どうだろうか……。

たてがみに触れつつ待った青空がわたしのことを思い出すのを

「風」

思い出すには、まず覚えてから忘れなければならない。順当、みたいなことを考えようと思うと、たてがみは〈青空〉の一部だろうか……。(もちろん素直に、馬だろうけれど……)
今この一首で言及したいのは〈つつ〉の接続についてなのだけれど、この〈つつ〉では、たとがみに触れている間しか〈私〉は待つことができない。青空がわたしのことを思い出す(のを〈私〉が確認する)まで、たてがみに触れつづけることになる。待ちつづけていれば青空がわたしのことを思い出すことを信じている、読者としては〈私〉には信じていてほしいと思うけれど思うからこそ、いつまでも〈私〉が触れつづける(ための)抽象的な〈たてがみ〉が存在することを想いたくなる。(たてがみを馬のだとすると、消えてしまう馬がいることになってしまい、この読みに無茶はありますが……)

八月のわたしにだけは見えていたあなたの奥に動かない水

「花火」

いったん、この一首にある〈だけ〉は、他を排除するための、ではなく特権性を高めるための、のように思う。とはいえ、あなたに対する〈私〉の特権性と、同時に〈私〉のなかから八月以外の〈私〉を排除しようとしている印象もある。それは「見えていた」の過去形に拠るものとして、あるのだけれど、いささか詩的すぎるワードとしての結句は、あやうく瞳の奥にしてしまいたくなる。
今は、おそらく八月を過ぎた今は、動く水が見えているのだろうか。
奥ではなく手前にだったら、動かない水が見えているのだろうか。
……なんというか今、あなたの奥に動かない水は〈私〉に、どのように見えているのだろう。

一度だけ低い嗚咽は漏らしたりごめんわたしが青空じゃなくて

「冬の虹途切れたままに」 

この一首は「は」の比重が非常に高いような気がする。この〈だけ〉は一度以外はない、という排除の〈だけ〉だろう。なんというか「排除の」というと語弊がありすぎるかとは思うが、けれど一首は、わたし自身が他者を排除している印象がある。
ごめん、というのは具体的に何に対してかは分からないが、謝りをしなければならないのが、というか相手から許しを得ることのできるのは〈わたし〉だけでなければならない意識を享受してしまう。けれど「青空じゃなくて」という結句は、属性というかマインドというかの〈青空〉かとも思いつつ不明確で、それよりも、該当する〈わたし〉になりえない〈わたし〉自身を自己肯定しているかのような印象もある。
というようなことを踏まえた「一度だけ低い嗚咽は漏らしたり」がある、ように読むとき、嗚咽の主体は二人称な相手になるだろうが、相手と〈わたし〉の感情のバランスを思ってしまうが、改めて、この一首は「は」の比重が非常に高いような気がする。

自転車に追い越されつつゆく夜道 灯りには後ろ姿がないね

「製氷皿」

ここで使用されている〈つつ〉は、徒歩の〈私〉が自転車(に乗った人)に追い越される、どちらかというと短い時間ではなく、何台もの自転車(に乗った複数人)に追い越される空間の印象で読める。
余談だけれど、下の句からは

夕暮れの皇居をまわるランナーはだんだん小さくなる気がしない?

平岡直子「一枚板の青」『外出 創刊号』(2019年)

と似たマインドを、享受しているような気がしている。

心底と言うとき急に深くなるこころに沈めたし観覧車

「製氷皿」

この一首を読むたび、

心底はやく死んでほしい いいなあ 胸がすごく綿菓子みたいで

瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(2012年)

を思い出したり思い出さなかったりするのだけれど、もちろん、むやみな関連はないだろう。あるいは、歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』には

観覧車の肉を切りわけゆうやけにきみは吊られた眉毛のかたほう

瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(2012年)

という短歌もある、ことを今回『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を読み返してみて気づいた。ただ、観覧車という語彙によって引用してみたのだけれど、この一首の〈観覧車〉というモチーフは生身のものとしてある。
大森の一首に戻りたい。
この「急に」が瀬戸の「はやく」と似たようなニュアンスの加速度に感じる、とは言いつつ、瀬戸の一首は能動的というか自らの斥力であるのに対し、大森の一首は受動的な引力、引力というのは心底と言う〈私〉の意志ではないにしても、心底と言う〈私〉が引き起こした現象であるように思う。とはいえ「深くなる」の段階から、があるからこそ「沈めたし」には〈私〉の能動であろう。そのときの〈観覧車〉が沈む余地としての空洞を想ったりしてしまうけれど、沈めたくなる願望とともに、あくまでも空想観覧車であるようにも思う。

まなざしがひとつの滝をのぼりつめるたとえばのぼりつめたっきりの

「花火」

一生、と口にするとき現れる滝のきらめききらめくだけの

「わたしだって木だ」

この二首のような〈感じ〉に惹かれる気持ちがあったことを思い出す。過去形にしてみたのは、感じと気持ちを(今、言葉にしようとしてではなく)分かりかねているから、なのだけれど、これこそ、そもそも分かっていた時なんて「ないのに」思い出そうとしているような感覚はあって、とはいえ、それはともかく、この二首は「ないのに」の状態に寸止めされているような印象も抱いていたりする。
どちらも「のぼりつめる/きらめく」に至る前のところに〈私〉が、というか〈ここ〉があるように思う。
もちろん、二首を同様に読むことはできない、同一の享受しかないわけではない、としても。

その海を死後見に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに

「錆びながら」

そこにいる、というときに生じる抽象空間がある。
ここにいる〈私〉と〈ひと〉は、同じ生前にいるはずなのに。のに、という〈私〉の感情を思うとき、いわゆる〈死後〉ではなく〈その海〉が重要……と思うのだけれど、と思うからこそ〈死後〉という圧倒的な隔たりが〈私〉の感じる〈きみ〉への距離感だろう。

抽象空間〈その海〉にいる〈私〉は〈きみ〉に言われることで〈その海〉を遠くにすることができる、のだろうか。どちらかというと「見に行く」に、どのくらい軽薄さの度合いを感じるかどうか、だろう。印象としては〈私〉には「ずっと」が抵抗としてある、ように思う。



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