『窮鼠はチーズの夢を見る』7,000字レビュー


 9月11日に公開された映画『窮鼠はチーズの夢を見る』を観たので感想を書きます。一応断っておくと、私は大の原作ファンで、映画は人並み程度に観るほう。芸能人にはとことん疎くて、映画館までの電車内で主演2人の名前と顔をようやく一致させたレベル(大倉さんの下の名前は未だに覚えられない)。
 推定読者層は原作既読勢、特に台詞まで覚えちゃってるようなガチ勢。窮鼠に触れたことがない人はもちろん、映画しか観ていない人にもお勧めしません。代わりに原作をお勧めするので今すぐ買ってください。リンク貼るけどアフィではないです→小学館eコミックストア
 そしてがっつりネタバレを含むので、これから映画を観る予定の人は自己判断で。

 言いたいことが本当にたくさんあって全然まとまる気がしないんだけど、総評としては「うーんまあ頑張った、でもやっぱ実写映画化って難しいよね」といったところ。公開を楽しみにしこそすれ、映画のクオリティ自体にはそこまで期待をしていなかったこともあり、大きく失望するようなことにはならなかった。十分“観られる”映画ではあったと思う。実際4回泣いたしね。観てよかったのは間違いない。それでもやっぱり原作ファンとしては うーん、と唸ってしまうところがあったのは否めない。そのへん、思いつくままに書いていったらなんと7,000字を超えてしまった。過去に書いた記事の中でもぶっちぎりで長い。こんなの誰が読むんだ、と思いつつもまあせっかく書いたので残しておきます。

 まずよかったところは、原作のストーリーが概ね遵守されたこと。後半からラストにかけては完全にオリジナル展開だったけど、その他の部分のあらすじや名場面はそれなりに抑えてくれていた。特に夏生と今ヶ瀬が絡む場面はすべてが原作に忠実でテンション上がっちゃった。夏生、全キャストで一番ハマり役だし目立った改変もなかったように思う。それからみなさん、演技が上手い! 特に誕生日にワイン貰うところ、原作でもめちゃめちゃ好きなシーンなんですけど、「来年またあげるから」って言われたときの成田凌の演技が最高だった。切ないような嬉しいような泣きたいような、そういう感情が無言のままに伝わってきた。今ヶ瀬がいる……!ってなりました。彼ならきっとこの後の、たまきを追いかけて恭一が出て行ったあとに今ヶ瀬がワインの空き瓶を見つめて立ち尽くすシーンも最高に演じられるはずなので、どうせならそこまでやってほしかったな。

 ……よかったところ、405字で終わってしまった。いや、絵面が綺麗とか他にもいろいろあるんだけど、どうしても“映画版窮鼠のよかったところ”ではなく“映画化のよいところ”的な話に転んでしまいそうなので割愛。


 逆に“うーん、と唸ってしまうところ”、大きく分けて四つありました。

1.恭一の性格の改変
2.モノローグの全カット
3.ステレオタイプなマイノリティ描写
4.“作りたいもの”と“観たいもの”のギャップ

 1,2は原作との比較、3はクィアと表現の話、4は実写映画化の問題点の話です。だいぶ長いから興味のあるところだけ読んでくれ。


1.恭一の性格の改変

 前述した夏生を除いて、映画版はキャラクターの性格の改変が目立ったように思う。たとえば今ヶ瀬は計算高く飄々としている面/感情的で粘着質な面という二面性の対比が弱いし(前者がほとんど皆無)、知佳子は原作よりもか弱く控えめ。そしてたまきは“コトコト長く煮込むような料理を作る女”(=恭一に向いている女)として描かれてはいなかった。
 が、その程度ならまだ許せる。私が強烈な違和感を覚えたのは、映画版と原作で、恭一の性格がぜんっっっっぜん違ったこと。どうやら脚本が主演の大倉ナントカさんに当て書きされたものだったらしい。つまりは映画版の恭一は、原作の恭一ではなく大倉ナントカさんのイメージに沿ってつくられたキャラクターだということ。うーん、どうりで。

 恭一は原作でも何人もの女(と今ヶ瀬)と関係を持つけれど、それは決して主体的なものではなく、「『迫られて 流されて 捨てられる』のエキスパート」であるがゆえのことだった。普段は物腰柔らかで人当りが良いところも含めて、自分に自信がないがゆえの意志薄弱さが恭一の性格の核となる部分だった。それでも根っから人に優しくて、放っておけないかわいげもあって、何より恭一なりの誠実さをもって相手と接する。だからこそ、今ヶ瀬も女たちも彼を好きになるのだ。

 ところが映画版では、学生時代に『流され侍』というあだ名があったことには一度言及されているものの、その実態は全くもって流され侍ではない。ただの脳みそ海綿体侍である。端的に言ってクズ。特にたまきパートは酷かった。原作では一度は完全に今ヶ瀬と縁を切り、心からたまきを好きになるけれど、映画版ではたまきと付き合った後も今ヶ瀬をセフレにし続ける。そして極めつけは、婚約成立してからの不貞による一方的な破棄! いやこのへんは原作でも酷いとは思ったけど、指輪渡してから振るのはさすがになくない? 婚約破棄した場合50~200万円の慰謝料が請求される場合もあるんだぞ!? わかってんのか!?  そして今から振る女に他の女(実際は男なんだけど)をいかに愛しているかを滔々と語るあたり、まじもんのサイコパスである。一生のトラウマじゃんそんなん。出オチで即死んだ常務も浮かばれないよ。

 要するに、映画版の恭一には人間的な魅力が全く感じられないのだ。そりゃジャニーズが演じてるんだから顔は良いんだけど、内面的な魅力はない。だから今ヶ瀬がこれほどまでに恭一を慕う理由も、女たちが恭一に言い寄る理由も察することができないし、語られもしない。ただただ周りの人間が無条件にすり寄ってきて、恭一はそれを積極的に受け入れて、ある程度可愛がったら適当な理由をつけてポイするだけ……って文字に起こしてみると本当に最悪だな。主人公の性格の改悪、作品の根幹を揺るがすのでやめてほしかった。これじゃ恭一を愛せない。


2.モノローグの全カット

 映画観た原作既読勢 全員思ったと思うんだけど、これ、未読の人ついていけるの? 
 原作は恭一のモノローグが多用されており、台詞も長めで全体的に文字での情報量が多い。一方、映画版は状況描写も心情描写もとことん削ぎ落とされていて絵面で判断するしかなく、元のストーリーがわかっていないと厳しいんじゃないかと思う。心情はまだしも、状況が頭に入ってこないというのは映画としていいのか……。
 こうした構成になった理由について、CINEMOREに掲載されていた 『窮鼠はチーズの夢を見る』原作:水城せとな×監督:行定勲クリエイター対談【Director's Interview Vol.76】 で語られていた内容を以下に引用する。

 映画『窮鼠はチーズの夢を見る』では、登場人物が愛に無自覚である、というような感覚で作りました。観客が彼らを観て、そこで初めて「こういうのを愛って呼ぶんだな」と思う。つまり、観客が能動的に観られるように設計したんです。
 というのも、原作を読んだときに、セリフが洪水のように押し寄せてくるんですよね。愛に対する一つの局面をこれでもかと掘り下げているし、焦燥感が迫ってくる。この“圧”はきっと漫画でしかできない表現だと思ったんです。でも、生身の役者でそのままやると説明的になりすぎてしまうし、絶対に原作に打ち勝てない。映像化する際には、逆に引き算が必要だと感じました。

 うーん、監督の言うことも分かるっちゃわかるんですけどね。

 観客、たぶんそんなに考えて観てないよ。

 原作がめちゃくちゃ好きな人間なら、脳内にある原作の味わいと照らし合わせて映画ならではの表現から何かを汲み取る見方をするかもしれない。でも、映画を観るのは原作ファンだけじゃない。原作に愛情も執着もないのに、言外の意図を正確に汲み取れる(汲み取る努力ができる)人なんてほとんどいないんじゃないか。
 “観客が彼らを観て、そこで初めて「こういうのを愛って呼ぶんだな」と思う”としたら、その観客にとって愛なんて動物的な性欲でしかないってことになっちゃわない?

 そもそも原作において、セックスは今ヶ瀬にとってヘテロの恭一を篭絡し得る唯一の手段であったとともに、恭一が少しずつ今ヶ瀬を受け入れていくことの表れでもあった(映画版、タチへの抵抗皆無だったね)。そしてそれって“ヘテロに恋するゲイ”でもなければ“ゲイに迫られているヘテロ”でもない、ついでに言えば男性ですらない多くの読者にとっては言葉で説明されなければ理解しづらいところだと思うし、逆に理解したからこそ、原作の濡れ場が二人の関係を描写するにあたって必要不可欠なものだと受け入れられたはずだ。
 映画の感想で濡れ場の濃厚さに言及している人が多いけれど、それこそがそこに込められた意味が伝わっていないことの表れなんじゃないだろうか。

 そしてこれ、私個人の見解ではあるんですけど。
 この作品の真髄は、異性愛者と同性愛者というカテゴリの違う2人が、時にその枠に囚われ、時にその枠を踏み越えながらお互いと向き合っていく喜びと痛みを徹底的に描き切った点にあると思ってるのね。この“喜びと痛み”っていうのが、“洪水のように押し寄せてくる”台詞にこそ詰まっているんだと思っている。切実な言葉に込められた感情の濁流に飲み込まれていくことこそ この作品を読む醍醐味だと。

 でも映画版は、あまりに語らなすぎる。今ヶ瀬の執着も、恭一の葛藤もぜんぜん伝わってこないんですよ。

 手が届くはずないと思っていた相手がすぐ近くに居て、自分を好きになってくれるかもしれないと錯覚してしまう。自分が求めるのをやめれば壊れてしまう脆弱な関係のなかでいつか来る終わりに怯え、自分が恭一の幸せを潰してしまうのも怖くて、自分も傷付きたくなくて楽になりたくて、それでも焦がれずにはいられない、不安定な束の間の幸せに縋らずにはいられない。
 恭一はそんな今ヶ瀬の不安定さに翻弄され、時にうんざりしながらも、まっすぐに自分に向けられた好意に次第に絆されていく。その一方で与えられる愛情を返せないことに苦しみ、返せないことで今ヶ瀬を傷付けていることをも背負って、理解できない相手を理解しようと もがき続ける。

 こんなに複雑で痛切な感情、ノンバーバルで伝えようなんて土台無理な話じゃないですか? これをうまく描写できてないから、映画版の今ヶ瀬はただの変態ストーカーに見えてしまう。待ち伏せもあんまりよくないけど、何よりもまず自転車を盗むな。普通に犯罪です。
名言のエレクトリカルパレードかってくらい言葉が魅力の作品で言葉を削ること、必ずしも賢い選択じゃないと思うんだよなあ。もっと人物の掘り下げが欲しかった。


3.ステレオタイプなマイノリティ描写

 恭一がゲイバーに行くシーンの話をします。
 あのシーンは映画オリジナルだから、監督には何かしらの意図があったはず。私は「今ヶ瀬がいるかも、というわずかな可能性に縋って行ったのかな」って思ったけど、他の人の感想を見ていると「ゲイの世界を覗いてみて、やっぱり自分とは違う世界の人間だ、ということを確認した」という解釈をしてる人が多かった。どの解釈が正解か、ということはいったん置いておきます。どう解釈してもいいのが表現だしね。

 それよりも気になったのが、このゲイバーにいる客たちが典型的なゲイのステレオタイプに沿って描かれているということ。人を無遠慮に品定めし、下品な陽気さをもって話しかける短髪でガタイのいい男。そういえば今ヶ瀬の元彼も、そんな感じでいかにも“ゲイっぽい”人物として描かれていた。
 メディアにおけるセクシュアルマイノリティの描写はWikipediaのページが作られるくらい頻出する問題だけど、仮にも同性愛を物語の軸として扱う作品でこんなに偏見にまみれた画を使うのはどうなの……と思ってしまった。そのへんの意識足りてない感がある。
 ただ、表現においてステレオタイプって本当に“使い勝手がいい”んだよな。台詞の少ない今回の場合は特にそう。だってゲイバーに行ったことを言葉での説明なしに表現するには、絵面で「ゲイバーだ」って分かることが必要でしょ。いかにも“ゲイっぽい”人たちを配置すれば、観客は説明されずとも「ゲイバーだ」ってわかってくれる。野暮な説明を省きたい監督の思惑自体はわからんでもない。けどまあ正直、そこまでしてゲイバーのシーン入れる必要あるか? とは思ったけどね。


4.“作りたいもの”と“観たいもの”のギャップ 

 これは漫画の実写映画化全般にいえる話なんですけど、観客の“作りたいもの”とオタクの“観たいもの”って多くの場合かみ合わないと思うんですよね。
 オタク(というと主語がデカすぎるけども)は基本的に原作至上主義なので、原作のとおりにやってほしいわけ。名台詞とか名場面とか、余すことなく全部観たいわけ。

「……対等っていうのは……同じ重さの気持ちを持ちたいって意味だよ」とか!

「俺がどんなに『だめ』って言っても……やめないで…………!」とか!

「『可愛い』っていうのは『愛す可し』って書くんですよ?」とか!

 もちろんそれは間違っても今ヶ瀬に「好きだったなあ!!!」なんて海に向かって叫ばせることではない。原作の今ヶ瀬は絶対にそんなことはしない。
 結局オタクが求めているのって、原作のパーフェクトコピーなんですよね。場面は一つも抜かさず、台詞は一文字も違えず、ただただ忠実に紙面を現実に起こしてくれる映画があったらそれが一番観たい。10時間でも20時間でも観たい。

 でも、そんなの作りたがる人間は映画監督にならないんだよな。
 監督は表現者だから、原作をただなぞるような作品は撮りたがらない。じゃあいったいどんなものを撮りたいの?という疑問の答えは、先ほどの対談にちゃんと載っていた。

 小説の映画化も漫画の映画化もそうなんだけど、同じものを提示せず、かつ魅力を損なわないようなものを作っていかないと原作にかなうわけないんですよ。原作ファンからも「全然違うじゃん」って言われちゃうしね(笑)。違うものにするけど、「窮鼠はチーズの夢を見る」から生まれたものだ、という風には思ってもらわないといけない。

 たしかにこのとおりに作れたら、それは監督自身も観客も満足できるものになるはずだ。じゃあどうして私がこの映画を手放しで賞賛できないのかっていうと、それはきっと「原作の魅力を損なっているから」なんだろうなって今気付いた。さっき“オタクは原作のパーフェクトコピーを求めている”って書いたけれど、これってつまり「原作の魅力を少しも損なわない映画が観たい」っていうのとイコールで。監督オリジナルのアレンジを加えるのは大いに結構だけれど、原作は絶対に侵さずプラスαだけを加えてほしいっていうことなんだろうと思う。しかし一方でそのバランスをうまく保つことは難しいし、おそらく多くの監督は原作よりも自分の表現を守る。“作りたいもの”と“観たいもの”がかみ合わないって、つまりはこういうことだ。

 そもそも、合計500ページもある漫画のすべてを2時間の映画に落とし込もうというのが無理な話なんだよな。そんな窮屈なストーリー展開に“言葉を削る”という制約付きで、原作既読勢も未読勢も同じように楽しませるってかなり難しいと思う。
 完全な素人意見だけど、名シーンの切り貼りになるくらいなら思い切ってエピソードを削っちゃってもよかったんじゃないかと思うな。最初の不倫相手の部分をカットするとか。どうでもいいけどあの場面、客層がほぼ女性なのに映画オリジナルキャラを脱がせることに何の得があるんだろうか。わりと序盤で知らん女の乳首を見せられる気持ちにもなってほしい。もちろん、より生々しさを出したい、とかそういう意図はちゃんとあったんだろうけど、さっきも言ったように観客ってあんまり考えて観てないので……絵面のインパクトだけが残ってしまった。


 さて、映画の感想は以上です! やーーーーーーーーーーーーっと全部書き終わった。8時間くらいかかったかもしれない。こんなの最後まで読んでくださった方、いるかはわからないけど本当にありがとうございます。いなくても自分の書きたいことが全部書けたので満足です。……あ、待って、一つだけ言い忘れてた。映画序盤でツッコミ入れずにはいられなかったところ、言っていいですか?

中華料理屋でエビチリ単品しか頼まないやついる?

 シリアスな場面なのにエビチリのせいで全然頭に入らなかった。せめてライスとか頼んでほしかった。エビをつつきながら別れ話をするな。
……本当に以上です。ご清聴ありがとうございました。

 実は以前、原作のブックレビューを書こうとしてまとまらずにお蔵入りさせたことがあるので、今回なんとか書き終えることができてとても嬉しい。『窮鼠はチーズの夢を見る』本当に本当に大好きな漫画なので。
 文字に起こすと批判っぽくなってしまったけれど、最初に言ったとおり映画版の出来はそこそこよかったのではないかと私は思っている。そりゃ私は原作至上主義なので、ここが違う!あそこはそうじゃない!とは思ってしまいがちだけど、好きな作品を別の角度から楽しめたことが嬉しかった。私が原作を知ったころにはとっくのとうに完結していて、新しい供給もなかったしね。
 
 同じ映画は基本的に一度しか観ないんだけど、応援上映とかあったら行ってみたいな。そのときはぜひ太鼓を打ち鳴らしたいので今から練習しておきます。


この記事が参加している募集

マンガ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?