人生終焉期に気付いたが。


人々は、人生の無駄を気付かない。

私のこのブログで、多くの皆さんがこの世界の現実をそのまま見られないし、現実を見られているし、それを理解できていると錯覚していることを幾度か指摘してきた。しかしそれを自覚しない人が多いように、現実世界
をあるがままに見られない人生の無駄を知らない人々もまた多くいる。

私は最近人々の姿が見えるようになってきたようです。それに伴い自分の姿も見えるようになった気がします。

個人的な話で恐縮しますし、こうした公共言語(日本語とその言語が持つ機能)を使って話をする意味もなくなりますが、少し記して置きたいと思います。

どうやら私は哲学的思考をする歴史の人間と同じ誕生と生き方をするような環境に居たようで、現代世界と日本とは別な誕生の仕方と生き方をしていたようです。

現代の社会と世界は虚像としてあるのですが、世界中の多くの人々は人はそれを知らないようだし自覚してはいないようです。
私もそれを自覚してはいませんでした。

つまり資本主義の社会構造として社会と世界が作られ(虚構的に)ているということです。
ですからまたロシアや中国などは社会主義的(これも純理論的な意味の社会主義ではないため虚構的ですが)な虚構社会と世界であるため虚構の内容もまた違ってあるうでしょう。

この虚構性と虚構の内容を知るためには、客観的な基準としての社会科学と自然科学の基準から見ないと理解できないはずです。
客観的な秤、スケール、定規などを使って計り知ることができるし、嘘で歪んでいるらしい箇所に真っ直ぐな定規を当てて、どのぐらい歪んでいるのかが分かるのでしょう。

しかし、その科学的基準器自体がヘーゲルがヘーゲル哲学を世に示した段階で、キリスト教世界と王侯貴族がそれを無視して取り合わないようにしたために、それ以降ヘーゲルの合理的知性主義、その客観主義や人類の知性発展が阻まれるようになってしまったのです。

ルネッサンスの人文主義(科学主義理性主義)がそのヘーゲルによってベーゲル主義理論を発表した時代で、その人文知性主義の発展を止めてしまったのです。

そのうえにヘーゲル学徒のマルクスがヘーゲル理論の観念論哲学を唯物論として改善し再編集しましたが、そのマルクスも無視されて取り合われない世界となってしまいました。

こうし科学的に世界を見て知性的に思考活動ができないよう、虚構世界が作られ始められ現代に至っているわけです。

今それがわかりましたが、これまでは茫漠と変な社会と世界だ、変な人間たちだと感じるだけでした。

人類史が大きく変わる今の変換期と転換期に間に合ってよかったのですが、しかし世界全体としては定規も持ち合わせていませので、現実を正しく捉えたり、考えたりできないため、混迷を深めるだけとなっていますし、このまま人類と時代発展の必然性に押されて流されていっても、人類知性の修復と健全化はできませんし、その錯誤と倒錯の構造と歴史的変遷を理解するまで混迷を続けることでしょう。
上に示した人類知性が歪められた地点と原因と構造などは、自然に理解されるものではないし、世界的学術界がまとまり協力探求しないとその結論には到達しないでしょう。
特に哲学の独立的存続と学術的知性的価値を理解しない、とうてい理解されず何百年もの混迷(悲劇的暴力闘争)を繰り返しても、理解されないでしょう。人間と人類がなぜギリシャ時代から哲学が誕生させ真理を求め始めたか、あるいは世界の各宗教が真理を探求し始めたのか、その人間と人類の認識論の必然性を理解できなければ、哲学軽視と真価を知る(自覚する)ことはありえないでしょう。現代人より古代人の方が発達していたのですから、現代人は信じられないでしょうし、認めないでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?