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森茉莉の「すべらない話」

6月6日は森茉莉の命日だった。
森鴎外の娘、小説家、エッセイスト。

亡くなったのは1987年。
1979年生まれの私とは8年間、同時代を生きたことになる。不思議な感じだ。

森茉莉は確実に、私の意識の一部を書き換えた。

別に頑張る必要はないし、
人の役に立つ必要なんてもっとない。
ただ、
自分の満足に対してだけは妥協してはいけない。



作品を通して、彼女は「義務」と「道徳」を嫌悪していると主張している。

嫌悪できるということは、それらが世の中に「ある」と認識しているということでもある。

つまり、世の中に間違いなく存在するのに、森茉莉の世界にはないものがあるのだ。

常識、意欲、向上心。

こういったものが森茉莉の世界には、そもそも、ない。

森茉莉作品は三冊読んだ。
どれも素晴らしく、一つづつ紹介していきたい。

【甘い蜜の部屋】
父親から溺愛されまくって育った主人公「モイラ」が成長するにつれ様々な男性を翻弄し、最終的には父親のもとに戻っていくというストーリー。

魔性の女、なんていう安っぽいものではない。
生まれながらに持っていて、不純物を一切交えることなく増幅した本物の「魔」が周りの人間の心を掻き乱す。
掻き乱される側の人間を見て、モイラの父親は
「『魔』がないのだなぁ」
という。
魔に価値がある。魔がないのがいけない。
「魔」への圧倒的賞賛。

ある女性が「私は人に良くしようとしてます。人はしあわせでなくてはいけないと思うから」と言ったとき、モイラが「どうして人によくするの?」と目で語る場面がある。

善良も「魔」の前では無価値だ。

【贅沢貧乏】
「甘い蜜の部屋」を読むと森茉莉とはどんな人物かと思うが、こちらでは彼女の人間性が見えて親しみが持てる。

鴎外が残した財産を食いつぶし、貧乏生活を余儀なくされた森茉莉の生活と思いを書いたエッセイ集。

貧乏だったとしても、美しいもの、心地よいものを求めて心豊かに暮らすさまは素敵だ。
だけどこのエッセイ、面白く表現してはいるが、ほぼグチである。
フランスは良かった、それに比べて日本庶民ときたら、
アパート住民共同の水回りが汚い、
雨戸の戸袋に虫がいるから開けられない。

かといって、
あんなにお金を使わなければよかったとか、
またフランスに行けるように頑張ろうとか
こんなマンションも出ていってやるとか、
そんな考えは一切なく。

部屋に並べたガラス瓶がキレイとか
たまにチョコレート買うのが楽しみとか、
私はそこらの料理屋より料理上手なのとか、
そんなことばっかり書いてある。

【記憶の絵】
こちらもエッセイ集で、この中に「卵」というエッセイがある。
卵が好き。食べることはもちろん、形も好き。オムレツ焼く時の楽しさったらもう。
ということが延々と綴られている。
よく卵だけでこんなに書けるなと感嘆する。

この感覚、他でも感じたことがあるな…

そうだ!

「すべらない話」‼︎

芸人の方々が、日常のちょっとしたことをおもしろおかしく話す様はすごいなといつも思う。
まさに森茉莉に持った感覚と同じだ。

森茉莉の作品は「すべらない話」だったのか。

どおりでツッコミどころが満載である。

日本の庶民というのは男女の別なく、どこにでも痰を吐き飛ばす人種であって、わが白雲荘の紳士淑女も例外でなく、朝、顔を洗うといっては吐き、昼間体を拭きに来てはガアッと吐く。

「気違いマリア」-「贅沢貧乏」より

いやいや、極端‼︎

この面白さといい、久しぶりに森茉莉を読むと、感性と表現の豊かさに圧倒される。

そして同時に、ついうっかり頑張ったり、人の役に立ちたいと思ったりしてしまっていた自分に気付く。

あぶない。

そんなことより、人生にはもっと大事なことがある。こんなふうに。

自分の好きな食事を造ること、自分の体につけるものを清潔にしておくこと、下手なお洒落をすること、自分のいる部屋を、厳密に選んだもので飾ること、楽しい空想の為に歩くこと、何かを観ること、これらのこと以外では魔利は動かない。

「贅沢貧乏」-「贅沢貧乏」より

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